近頃、レアスの表情が柔らかくなったような気がする。
自分の思い違いだろうか。ロサは長であるレアスのスケジュールの最終確認を取りながら、ふとそう思った。

「今日の大舞台は夜だけですね。ってレアス様!夜には祝宴が―――」
「それまでには戻ってくる」

今日の大事は夜の祝宴とだけ聞くと、レアスはすぐに踵を返して国務室を出て行った。
あんなに上の空で、本当に何を考えているのだろう。ロサは手帳を閉じてふうと一息つく。

聞けばレアスは誰にもその行き先を告げていないらしい。
後をつけても、レアスに上手く撒かれてしまうと言う話もある。

考えれば考えるほど不思議だった。
いったいなにが、それほどまでに彼を強く動かしているのだろう。









天陽国  -08









ぷち、と軽い音が風の中に紛れ込む。
傍ではレアスが天深国側の薬草を摘み取って手伝ってくれている。

ゼフィは思わず吹き出してしまいそうになった。
ちまちまと、両国の長とも言える人間が草地で何をしているのかと思えば、単に薬草の摘み取りだなんて笑いの種になる。
だがゼフィは心の中で笑むだけに留めておいた。誰かに話したかったが、天深国の民と交流があると知られたら大事になるだろう。

こっそりレアスの顔を盗み見て、しかしゼフィはそこでふと違和感を感じた。
確証はないが、彼は今に何か言い出すかもしれないと思った。
ゼフィの予想通り、数秒後にレアスはゆっくりと口を開いた。

「陽明の長が、交代したと聞いたんだが」

顔には出さなかったが、ゼフィの心の中では爆弾が破裂したかのようだった。
まさか急にレアスからそのことを聞かれるとは思ってもみなかっただけに心が焦る。

もしかしたらレアスは自分が陽明国の長だと気付いたのだろうか。
荒ぶる動揺を何とか隠し、ゼフィは努めて冷静にレアスに向き合った。背中に嫌な汗が流れた。

「……つい、この前ね」
「剣が強いというのも、そいつだよな?」

まるで尋問にかけられているようだった。
今日はやけに質問攻めに遭っている気がする。だが答えないと疑いを持たれてしまう。

とにかく可能な範囲で上手い答えを出さなければならない。
それに今の状況では逃げ場はないにも等しかった。
二人とも草地に座り込んではいたが、今日は互いに面と向かって座っていた。

「強い……けど」

あながち嘘ではない。

「ゼフィの家は剣術教室だよな」
「うん」
「その長も顔を出していたり、ゼフィは、他に何か知っていたりするのか?」
「……え、えっと……時々顔は出すかな。あと何かって、なに?」

嫌な不安が全身を駆け回る。
彼に追い詰められているのだと、自分でも分かる。

もしかしたらレアスは確信を持っているのかもしれない。
陽明の長が交代したと耳にしたのではないか。その情報と共に自分の存在も流れたのだとしたら一大事だ。
ゼフィの心配をよそに、レアスは続けて口を開く。

「前から思っていたが、薬草はそんなに必要なのか?もしかしたらその長も剣術のせいで、とか」

微妙に当たらずしも遠からずな感はある。
この場合何と答えていいのかかなり迷ったが、長と訊かれているのだ。あまり深く考えては失敗するだろう。

「少しはね」

勘付かれてしまったかと思ったが、その穏やかな表情からレアスはまだ気付いていないらしい。
どうやら長が誰であるかまでは知られていないようだ。

それに長と言う役職は、歴代の長がそうであったように、普通ならば男性が務める。
ゼフィはあまりに稀な存在だっただけだ。
今問題に上がっている陽民国の長が、目の前で薬草を摘んでいるゼフィだとは到底考えないだろう。

「幼少の頃からだから仕方ないのかも。なんと言うか、剣術の負担ってすごく大きくて、この前も稽古場で倒れ―――」

緊張が途切れたせいで、ゼフィはうっかり口が滑ってしまったことに気付くのが遅れた。
ゼフィも遅れ馳せながら今のは少し言いすぎたと思った。
目の前のレアスの表情が一変した。レアスは眉間に皺を寄せながら、ぎっとこちらへ身を乗り出してくる。

「ゼフィ、なんでそこまで知ってるんだ?」

いけない、喋りすぎた。

「もしかして……」

少し躊躇ったあと、レアスは品定めするように口篭った。
心臓が誰にも見えない場所で大きく唸る。限界だ、やはり隠し通すにも限界がある。

ゼフィはすぐに手篭に手を伸ばした。
このままではいずれ自分が長だと知られてしまう。そうなったら今までの関係がすべて崩れてしまう。

(戻らなきゃ!)

早く、レアスの最後の言葉を聞く前に草地を後にしてしまいたかった。
二人の間には境界線がある。どうせレアスは追ってはこれない。

レアスの口元が再度ゆっくりと開いて、ゼフィはいよいよ腰を上げた。
駄目だ。早くここから立ち去らなければ、真実が突き出されてしまう。


「もしかして、ゼフィは長に近しいのか?」


一瞬何を言われたのか分からなくなった。
彼の言葉に長と言う単語は入っている。だが、意味がどこか違う。

レアスの真面目な顔で紡がれた、しかし呆気のない言葉に思わず拍子抜けした。
ゼフィは上げかけていた腰を下ろして草地に座り直して、レアスの顔をじっと見る。
いったいどういう意味なのだろう。時間が経つにつれて言葉の真意が不思議に思えてくる。

「近しいって?どういう意味?」
「いや、だから……」

何故彼が躊躇うのか理解できなかった。
顔を伏せて言葉を選んでいるかのような、そんな感じ。

「ゼフィは長の……正妻とか妾とか、近親者なのかと言う意味で……」

ぼそり、と呟くレアスの言葉を辛うじて拾ってみてゼフィは驚いた。
どうやら話が百八十度方向転換したようだ、と分かった。

ただ喜ぶべきではないのは、どちらも安易に回答することができないと言うことだ。
どうしてレアスはそんなことを気にかけるのだろう。
淡い期待が胸の内から弾け出て、無意識に顔が赤くなる。

「まさか。でもなんで、そんなこと気にするの?」

言い終えてから、今の言葉は少し挑戦的すぎたと後悔した。
だがどうしても彼の口から聞きたかった。
レアスがそう勘違いしたその根拠を、もしかしたら自分の考えと同じなのかもしれない、と願ってしまう。

「私は百歩譲っても、長の愛人にはなれないし」

どうせ陽明国の長は女性で、自分だ。

「それに長には、想ってる人がいるから」

場の勢いで口にしてしまったが、それは真実に他ならなかった。
レアスには理解できないであろう婉曲な今の言葉を言っただけで心拍数が上がってしまう。

もし彼が陽明国の長がゼフィであると知っていたら、どういう反応をしたのだろう。
今のレアスは、ただ首を傾げて考え込んでいる。

「陽明の長は、案外若そうだな」
「レアスと同じくらいかも。その想い人とは難しいの、立場的に」
「立場、それは貴族と平民?」
「んー……似た感じ」

もっと詳しく言えば、異国の人間同士である。
だがここでは言えない。言えばさすがにレアスも気付いてしまうだろう。

話がようやく一段落付いて、そこでまたゼフィは勇気を奮い立たせた。
さっきの質問の答えをまだ受け取っていなかった。
どうしてレアスは、ゼフィが長の近親者であるかもしれないということを気にかけるのか。

「ねえレアス、もう一度だけ答えて。なんで私が長の愛人だって思ったの?」

彼にこのことを訊けるのは今のこの時しかない、ゼフィはそう思った。
ここでこの機会を逃したら、きっと一生気にしてしまうだろう。

だがレアスはなんだか複雑そうな顔をして、それからまた考え込んだ。
穏やかな草地に再び静寂と沈黙が訪れる。

やはり今日のレアスはどこか変だ、ゼフィは改めてそう思った。
いつもは冷静で涼しい顔をしているはずの彼なのに、今日はどこか憂いを帯びている。
なかなか話し出そうとしないレアスに痺れを切らしたゼフィがもう一言くらい付け足してもいいかなと思ったその前に、レアスが口を開いた。

「好きだ」

突然の言葉に、ゼフィさえも言葉を失った。
いったい今、彼はなにを口にしたのだろう。時間だけが漠然と過ぎ去っていく。

ゼフィが驚いてその場に固まっていると、レアスはゆっくりと動いた。
彼は静かにこちらへ身を乗り出してくる。ゼフィは駄目だ、と言おうとした。このままでは境界線を越えてしまう。

ゼフィが最後に見たのは、レアスが境界線ギリギリまで重心を移動させて来る姿だった。
次の瞬間には既に互いの唇は触れ合っていた。
なにがなんだか、今の状況がどういった状況であるのか、まったく分からなくなった。

だいたい二人は互いの手に触れたことさえなかったのだ。
それなのに今、唇が相手の熱でじんわりと温かい。

「好きだ、ゼフィ」

肩を引き寄せられて、そのまま強く抱き締められる。
天深国と陽民国の境界線の上で、二人は互いに領域を超えた。

「俺と、天深に来てくれないか」

この瞬間、ゼフィは自分の涙で前が見えなくなった。
レアスの想いは微かに抱いていた希望そのものだった。それは言葉に言い表せないほど、嬉しかった。

だがその天に舞い上がるような気持ちはすぐに抹消された。
自分の立場を再確認した時、絶望の淵に立たされた気がした。
長である自分が陽民国を捨てて、敵対国の天深国に行くことなど、できない。

レアスといつまでも共にいたい。けれど現実は残酷だった。
ゼフィはしばらくしてから意を決して首を横に振った。

「……無理よ」
「国のことがあるなら、戦を起こしてでもいい。ゼフィ」
「無理よ……無理なの……」

どうして長になることを承諾してしまったのだろう。
長へと推薦させられた日以来、どれだけ運命を恨んで呪ったことだろう。

もし天深国と陽明国が数百年前のまま温暖な関係であり続けたのなら、きっとこの話も喜んで受け入れただろう。
だがもう無理だ。ゼフィの瞳から零れた涙が一筋、頬を伝って落ちていく。

「ごめん、ごめんなさい……」

代わりにゼフィは強くレアスを抱き締めた。
初めて触れた愛しい人は、とても大きくて暖かかった。

何を汲み取ってくれたのだろう、レアスもそのままずっとゼフィを腕の中に入れてくれた。
ゼフィが強く抱き締めた分だけ彼に強く抱き締め返された。
抱き締める腕の力を緩めると、離さないようにとレアスの腕に力が入って苦しくなった。

互いに知っていた。
これが、愛する人との最後の逢瀬だということを。













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06/08/02