意志を継ぐ者  -第一話









ドオン、と、地面を激しく縦に揺らしながら天高く土煙が上がる。
人々は各々甲高い悲鳴を上げながら、一瞬前まで賑やかだった真昼の街の中を逃げ回った。

ある者は我先にと、ある者は胸に子供を抱えて、もはや背後へと迫ったその「怪物」から身を守ろうとする。
どこまでも均質に黒く、普通なら横であるはずなのに、なぜか縦にぱっくりと大きく開いたただ一つの目を持つそれは、周囲で逃げ惑う人々を眺めては嘲笑った。

その黒い巨体は、優に街の建物を超すくらいの大きさであった。
胴体と思われる部分から伸びた何本もの細い手は、逃げようとする人々の首根っこや脚を即座に掴む。そうして目の下にぱっくりと裂けた禍々しい形の口の中へ、まるでジャンクフードを貪るみたいにして、軽々と人を投げ込んでいった。
ぐしゃり。気味の悪い音が辺りに響く。人々が捻り出す悲鳴はいっそう酷くなった。

そんなこの世の地獄とも言える光景が繰り広げられる中、ある小太りの男は、縺れる脚に鞭打って自分の店へと駆け込んだ。
店の奥のほうにある木製のカウンターへ素早く身を滑り込ませると、カウンターの上に置いてあった黒塗りの電話をもぎり取るように抱え込み、そのままカウンターの陰に隠れてダイヤルを回す。

「はっ……はっ……」

指が震えてしまって、上手く思い通りの番号にかからない。
背後のカウンターの向こうからは、次第にドオンドオンと言う轟音と、人々の叫び声が近づいてくる気配がする。
しかしそれでも必死の思いである番号に回すことができた男は、安心感と恐怖とを覚えながら縋るように受話器を耳に当てて、電話が繋がるその瞬間を待った。

『……はあい』

しばらくすると、プツ、と通信音が途切れ、この場にはとても似つかわしくない、間抜けた声が受話器の向こうからから聞こえてきた。
だがこのときの彼にはそんなことなど関係なかった。
繋がった。それだけでこの身が救われる思いだった。

「あ、悪霊だ、悪霊が出たんだ助けてくれ!」
『分かりました。ええと、ちょっと待ってくださいね。場所はー……』
「ヴォルフの二番通り街だ! 頼む、早く来てくれ! こ、殺される、喰われる……っ!」 

息巻く男に対し、電話に出た相手の声はどこまでもぼんやりと間延びしていた。
受話器の向こうでガサリ、と、紙が擦れたような音がする。

『ああ、分かりました。それで忘れてたんですけど、報酬の件は……』
「報酬なら用意できる! 心配ない! だから頼む、早く来てくれ!!!」

怒鳴る、と言うよりはもはや喚き泣くような男の声に、向こうの声はぴたりと黙り込んだ。

「了解」

受話器の向こうの声の最後が、なぜか背後から聞こえてきた気がした。
男が不思議に思ってカウンター越しに顔を覗かせると、いつの間にか悪霊によって吹き飛ばされていた店の天井から、五メートルはあるだろうかと思われる悪霊の黒い巨体が見えた。
だがそれ以上に目を奪われたのは、その悪霊の頭頂部に、たった今舞い降りたかのごとく着地した一人の人間の姿だった。

パステルブラウンの髪と胸元に赤いルビーのついた長いコートを風にはためかせ、軽々と悪霊の頭上に立つその姿は異様だった。
最初はその容姿から青年かと思われたが、彼がゆっくりと背筋を伸ばしたときにちらと垣間見えた表情は、どこかまだ幼さを残していた。
悪霊の出現で慌てふためく人々は、まだこの少年の登場に気づいてはいないようだった。

「……あー、またS級」

少年は足元の悪霊を見た途端、うんざりと表情を曇らせた。
しかし男は確信していた。今自分が電話して助けを請いた相手は、この少年だ。

だが、やれやれと手を額に当ててがっくりと肩を落とすその様子は、とても「あの噂」とはかけ離れていた。
おかしい。自分は、S級の悪霊を百発百中の高確率で仕留めることで有名な魔術師に電話をかけたはずだったのに。
だからこそ報酬をいくら請求されても構わないと判断してのことだったのに。

男が茫然とする中、しかし少年はすうと深呼吸すると空を仰いだ。
その瞳は、先程までのあどけなさを感じさせない、いっそ冷酷ささえ伺えるものだった。

一時束縛アルダ

少年が一言呟いたたったそれだけで、ただの石の地面からいくつもの青白い帯状のものが天に向かって真っ直ぐに伸びる。
そしてそれらはすぐに、目にも留まらぬ速さで巨大な悪霊の身体に巻きついた。

「お前、食べすぎだよ」

悪霊を始め、周囲の人々もやっと少年の存在に気づいた。
悪霊の縦に開いた不気味な目が、ぎょろりと己の頭上にいる少年のほうを向く。

「そろそろ眠ろうか……」

少年はにっと薄く笑むと、低く身構えて手のひらを悪霊の身体に押しつけた。
助かった。この瞬間、街の人々は誰もがほっと胸を撫で下ろしたに違いない。
例えそれがいかにも未熟そうな風貌の少年であったとしても、常人と比べて、彼の出すオーラは明らかに異質なものであった。そこには言葉では言い表せない安心感があった。

しかし街の人々は愚か少年さえも知らなかった。
黒い身体から分化した一本の細い腕が、ひっそりと束縛呪文から逃れて、少年の背後からその強大な生命力をじりじりと狙っていたと言うことを。

それでも微かな気配を察し、少年はすぐにはっと背後を振り向いた。
だが既に悪霊の腕の先は鋭く変形しており、そしてそれは少年が向いたとき、まさに彼の顔面目がけて突き刺さろうとしていた。













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2010/11/03