無知であったことを、あれほど憎いと思ったことはない。 たとえそれが幼さを理由にしても、もし自分が前もってその知識を蓄えていれば回避できたかもしれないのにと、今日に至るまで何十回も何百回も頭を抱えたくらいに。 消せない過去 -第三話 あれ、誰が赤いペンキ缶をひっくり返したのだろう。 ウィザロが正気に戻って第一に考えたのは、だいたいそんなことだった。 いつもはくっきりと木目が見える家の床は、今は全体が赤のペンキを缶ごとぶちまけたかのような強烈な色に染まっている。 なぜだろう。そうやってぼんやりと思考を巡らせてから小首を傾げたウィザロは、しかしすぐに鼻の奥をついた匂いにぎょっとした。 胃酸が喉元まで込み上げてきた。まるで胸の奥をえぐり取られるかのような不快感に、ウィザロはぱっと両手で口と鼻をいっぺんに抑えると、身体を半分に折り曲げた。 「……う、ぉえっ」 そのあまりにひどい匂いは、鼻を根こそぎもいでしまいそうだった。 だが今まで赤色のみだったウィザロの視界に見慣れないものが飛び込んできたのは、ウィザロが口元を押さえて身体を前にかがめたのと同時だった。 たった今まで自分の視界を遮っていた父の大きい右手が、ない。 ウィザロの瞳は、ゆっくりと父の右肩に移り、それからずっと右腕を手のひらまで辿ろうとした二の腕辺りで急に途切れた。 あるべきところにあるはずのものは、何度父の右肩から先を辿ろうとしても見つけられなかった。 だがウィザロはすぐに探していたものを見つけた。ただしそれは自分の足元で、人形のように無機質なまま力なくひしゃげていた。 自分の目の前にぼとりと落ちていたそれを、ウィザロは呆然と見つめた。人間の腕だった。 「オルゾーラ」 誰かが耳元で、低い声でなにかを呟く。 いったいなんのことを言ったのかは分からなかったが、ウィザロが反射的に顔を上げると、そこには苦しげな表情で喘ぐ父の顔があった。 恐らく父が今の言葉を放ったのだろうと、ウィザロは直感した。 やはり父が言ったらしい。その意味不明な言葉のあとで、父の二の腕を取り巻くように、右腕周囲には半透明の青いヴェールが現れた。 そしてそれは、二の腕からほとばしっていた鮮血の勢いを驚くべきまでに止めた。 だが、もはや父の顔からは血の気が失せていた。 しきりに肩で息をする父の顔色は、恐ろしいくらい蒼白だった。 「……はっ……は……」 父の大きな身体の向こうに、赤い液体が滴る包丁を手に息を弾ませる母の姿が見えた。 ぽたりぽたりと、鋭い切っ先から一定の間隔で、赤色は床へと滴っていく。 今や家中に充満した匂いと相成って、くらりと眩暈がした。ウィザロは、どうして床が赤色にまみれているのかその理由を悟った。 「こ、来ないで!」 息をするのもやっとだった父が、唐突に立ち上がった。 かと思えば彼はくるりと振り返り、キッチンの前で棒立ちになっていた母の方へと身体を向ける。 「……クリス」 「来ないで! あっちへ……あっちへ行けっ!」 「クリス……悪かった」 父が前へ一歩を踏み出すたびに、青いヴェールに包まれた父の右腕からは黒みがかった血が雫となって落ちてくる。 どこか怯える母に向かって父が左手を広げる。二の腕から先のない右手も、広げているような気がした。 「でも俺は……」 「やめて! 嫌だ、嫌だっ聞きたくない!」 「俺は」 キッチンの端まで追いつめられて半狂乱に泣き叫ぶ母を強引に押し切ると、父はそっと優しく母の身体に腕を回した。 途端に、母は獣のような唸り声を上げて泣いた。 「……俺は」 そこまで言いかけた父は、急に口を閉ざした。同時に彼の口の端から、つっと血が流れる。 「……クリスっ」 父が悲痛な声色で母の名を呼ぶ。けれど母はぴくりとも反応せずに、むしろ強張りながらも口元に薄い笑みを浮かべた。 手にしていた包丁を、父の背後から自分の身体もろとも串刺しにしたそのままで。 母の口の端からも鮮血があふれた。 「悪魔は……殺してしまわないと……」 いつもの調子でにこりと笑む母の表情が、このときばかりは恐ろしくて仕方がなかった。 普段なら、悲しくて腹立たしいときにでもあんなに慰められるはずの彼女の笑顔だが、たった今のこの瞬間だけは、どこにも誰にも向けられていないのだと分かった。 違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。 父も母のその空虚な微笑の意味を察したのか、ぎゅっと、いっそう強く母の身体を抱きしめた。 するとそれまでただ微笑んでいた母は、くると表情を変えると怖い顔をして、肩を傍目にも分かるほどがたがたと震わせて、目にいっぱいの涙を浮かべた。 「騙、したのね……私、を、騙した……っ」 母が今もなお握りしめる包丁の柄に、己の痛みも厭うまいとありったけの力が込められる。 しかし傷口を広げるようなその痛みに歯を食いしばりながらも、父は母の耳元に顔を寄せた。 「俺は本当に、クリス、君を愛していた。本当だよ」 そっと、それは本当に囁きという言葉がぴったり合っていると思えるほど、父は母の傍で静かに耳打ちする。 童話の一場面のようなそんな二人のやり取りを、ウィザロは単に遠くからぼんやりと見つめていた。 だが数秒後、それまで強張っていた母の顔がふっとほぐれた。 まるで今までなにかに取り憑かれていて、その呪縛が解かれたような安心しきった顔で放心すると、彼女は一気にぽろぽろと涙を零した。 「……ウィズ、ごめんな」 コオオ、と、家全体が聞いたこともない奇妙な音を立てて小刻みに揺れ始める。 このときようやくのことで自我を取り戻したウィザロは、なんでもいい、父と母がいる方へ駆け出そうとした。 だが、すっかり力の抜けた母の身体を抱き止めながらこちらを肩越しに振り返った父の顔が、この世界中の悲しみと優しさをすべてそこに集めたのだろうかと思うくらいに儚くて、ウィザロは思わず立ち止まった。 そこから先の記憶は、しっかりと見ていたはずなのに不思議と曖昧になっている。 しかし父と母が互いに抱き合ったまま、白なのか黄なのか青なのかそれとも赤なのか何色なのかさっぱり分からない光に包まれる光景は、脳裏にこびりついて離れることはなかった。 気がつけば、ウィザロは外にいた。 冷たい夜風に吹かれながらも、轟々と燃え盛る自分の家を、数メートル離れた場所から見上げていた。 その日の夜も、濃い群青色の空を背景にして何十、何百もの星は瞬いていた。 ねえママ、あのお星様が一番光ってるね。パパ、肩車して。もっと近くでお星様が見たいの。 いつもならそう言いながら嬉々として隣を見上げるだろう。だが今日だけは、いや今日だけではなくもうずっと永遠に、自分の隣は空いたままなのだと思い知る。 左にも右にも、誰もいない。ではそこにいたはずの人物は今どこにいるのか? ウィザロは視線を正面の、今もなお猛火に包まれて崩れ行く一軒の家にゆっくりと向けた。 感情はなかった。言葉も考えも、どこか遠い場所に置いてきてしまった気がした。 時折黒くすすけた灰が降ってきたがこれと言って気を取られることなく、ウイザロはひたすらに家を包む炎を見つめた。 自分の隣に誰かがいると知ったのは、どれくらい経ったあとのことだったのだろう。 「……だから言ったんだ。この国の人間と結婚するなと」 いつの間にか、ウィザロの隣には見知らぬ男が立っていた。 すらりとした細い体躯の彼は、ウィザロの視線と同じ方向を向いていたかと思うと、ややあってこちらを振り返った。 「ウィザロ?」 ウィザロは未だに家と炎を視界の中央に見据えながら、男の声を聞き流した。 「ウィザロ? 大丈夫かい?」 こちらの顔を覗き込むようにして、ウィザロの瞳の端に男の顔が映った。 ウィザロはそっと男の方へ目を動かした。 同時に男の手が伸びてきて、ウィザロと燃え盛る家との間に割って入った。それは大きくてごつごつしていて、暖かそうな手だった。 この瞬間、ウィザロの中のなにかがぷつりと切れた。 ウィザロはその衝撃にどうしてか耐え切れなくなって、身体から声と言う声と水分を絞り出すと、夜の空に響き渡るような大声で泣きじゃくった。 「アアアァアァァアァァアアアァアアアアアア!!!」 炎へと走り出そうとするウィザロの身体を、男が必死に抱きしめて止める。 それでもウィザロはもがいた。自由にならない手足をばたつかせながら、男の腕の中で一生懸命に足掻いた。 父と母はあの炎の中にいる。早く助けないと消えてしまう。消えたら、もう取り返しがつかなくなってしまう。 ママはほんわりと優しい、ミルクの匂いがした。パパはいつもはお日様の匂いがしているのに、屋根裏から帰ってくるとちょっと埃っぽい。 そうして彼ら二人に挟まれて、自分は幸せだった。幸せな幸せな、とても楽しい物語――。 「アアァアァアァアアアアァアア……ッ!」 これはあとになって知ったことなのだが、「ブノワ」と言う国では、魔力を持つ者は蔑視され、悪魔、または魔女として排除されてきたらしい。 「ブノワ」が国になる少し前のこと、今の「ブノワ」に属する大部分の地域は他の国同士の争いに巻き込まれ、土地もなにもかもが荒れに荒れて多くの死者が出ていた。 そしてそれは、めぐりめぐって魔力保持者が原因とされた。根拠はなにもない。可能性、と言う点のみである。 魔力を持つ者は災いを運んでくる。だがそうした言い伝えは、長い年月を経て彼ら「ブノワ」の人々の中に根強く残った。 もちろん生まれも育ちも「ブノワ」だったウィザロの母も例外ではなかった。 しかしこれものちに聞いたことなのだが、ウィザロの父は「ブノワ」ではない外部の人間で、「ブノワ」出身の女と結婚するに当たり、周囲の猛反対を押し切ってまで母と一緒になったそうだ。 きっと自分のこの魔力は、父譲りのものなのだろう。 そして父は、己が魔術師であったことを母に告げていなかったのだろうなと思う。 だからこそ父はあんなにも謝っていたのだ。だからこそ母はあんなにも怯えていたのだ。 ああ、すべてはこの土地ゆえ、この風習ゆえ。誰が悪いのでもない。 ではなにが悪かったのだろう? 分からない。 人間はひどく利己的な生き物だ。 もし自分が母と同じく魔力を持たない「ブノワ」の側の人間だったら、母と同じ行動を取っていたであろうことも十分にあり得る。 けれどもし自分がいなかったら、父と母は死ぬことはなかったのかもしれない。 もし自分が魔力を持って生まれてさえいなかったのなら、父と母は今も自分の横で笑ってくれたのかもしれない。 もし、もしも自分が、"生まれてさえいなければ"――。 そう考えると、胸の奥の奥の奥のずっと深い部分がぎゅっと締めつけられる。 どっちへ進めばいいのか、明日への道が不意に分からなくなる。 けれど今でもたまに、自分が生まれてこない現在を考えてしまうのだ。 あのときの自分は浅はかだった。火なんて考えずに、いや、その前に湖に行ってさえいなければと、延々後悔してはキリがない。 しかしいくら考えに考えを重ねたところで、現実は自分の理想通りに軌道を修正してはくれなかった。 あの日以降、五歳以前の過去は心の奥に封印した。 思い出してはいけない。思い出したら、あのとき壊れかけた自分が今度こそ完全に壊れ切ってしまう気がした。だからこそ、記憶にしっかりと鍵をかけた。 だが一つだけ、父と母にどうしても聞きたいことがある。 けれどそれを口にしようとすると、途端に内臓がきゅーっと委縮するような尋常ではない痛みが身体中のそこかしこにも表れて、口に出すのがとてつもなく怖くなる。 だから空気が澄んだ夜、一人が耐えられなくなったら窓を開いて、どこかにいるであろう神様にそっと祈るのだ。 父と母が自分を愛していたことを願いながら。 ねえパパ、ママ。 僕のこと少しでも、ほんの少しの間でも、好きでいてくれましたか――? BACK/TOP/NEXT(「意志を継ぐ者」篇) 2010/04/12 |