消せない過去 -第二話 渡り鳥たちはここ数日で南へと旅立ってしまったらしかった。 いつも閑散としている湖畔はいつも以上に物寂しくなり、やっと自分の出番だとばかりにからっ風が辺りを飛び回る。つられて足元では覇気のない野草が小さく揺れた。 ウィザロは数ヶ月前から凍ったままの湖面を覗きこんでから、白く霜のかかったそれをそっと人差し指でなぞった。 途端に指先がじんと痺れて、今触った湖面がどれくらい冷たかったのか固かったのかさえ分からなくなる。 はあ、と、自分の吐いた息が、すぐに濃い白色へと変化する。 (……つまんないの) 野鳥が姿を消すと同時に、それまでちらほら見かけていた他の動物たちもどこかへ行ってしまった。 もともと郊外の人気のない場所であったので、住人はそれほど多くなく、ゆえにウィザロと同年代の子どももあまりいなかった。 大きくなればたくさんお友達ができるわよ。友達が欲しいと漏らすたびに母はそう言ってくれたが、こんな寂しい場所のどこに自分と年齢の近い友人候補がいるかなど、とてもではないが想像できたものではなかった。 去年や、それより前の冬はどうやって暇を潰していただろうか。 ふとそんなことを考えてみるが、どの年もあまり記憶がなかった。きっと無駄に日々を持て余していたのだろう。 (早く暖かくなればいいのに……) 空を見上げてみても、高いところにある分厚い雲は太陽の光を遮ったままだ。 昼なのに周囲が薄らと曇りがかっているのはこの土地にしてはいつものことだったが、なぜか最近はそれが耐えきれなかった。 しばらくしてからウィザロは、湖面を解かそうと冷たくて硬い氷に手をあてた。 今の自分の温度ではこの湖の氷は解けないと分かっている。だがウィザロは何度も何度も、湖面に両手を擦りつけるようにして押し当てた。 そのたびに寒さや冷たさで手がかじかんだが、この湖の氷が解ければ自ずと湖畔周囲の氷や雪も解け出して、しまいには夏が訪れたように、この地域全体がほっこり暖かくなるような気がした。そう考えれば、こうして自分がしている行為も悪くないのではないかと思えた。 そうすればきっと父や母も喜んでくれる。厳しいこの冬が終われば、ウィズ、偉いわねと言って、頭を撫でてくれる。 ウィザロの手のひらは冷たさに対し次第に感覚を失っていったが、ウィザロは家のあの暖炉の火を思い出して手を動かし続けた。 ぱちり、と、半分に割れたとき、耳に心地よく響いてくる薪の音。 レンガで造られた囲いの中で、手を翳せばじんわりと暖かさが伝わってくる橙色。 ここに火があればいいのに。ここに火があればいいのに。ここに火があればいいのに。ウィザロは一心に湖面に手を擦りつける一方で、強くそう呟いた。 もしここに火があれば、僕はもっとがんばれる。きっとこの凍った湖を解かしてみせる。 パパとママは喜んでくれる。ここに住むみんなも喜んでくれるだろう。みんな、みんなみんなみんなが――。 「ママ! ママ!」 ばたばたと慌しく家に駆け込んできたウィザロの声に、キッチンに立って夕食の支度をしていた母は苦笑しながら振り返った。 「なあに、ウィズ? 忙しい子ね」 「ママ! あのねっ!」 ウィザロは弾む息を必死に抑えつけながら、こちらに向いた母へずいと、寒さで赤くなった両手を差し出した。 初め手袋を外していたウィザロに母は驚いたらしかったが、それよりも彼女を驚かせたのは、ウィザロの手の中で煌々と燃える「炎」だった。 「火が出たんだよ! ほら! ほらね!」 水を掬い上げたかのような形のウィザロの両手には、今や水ではなく炎が踊っていた。 すうとウィザロの手のひらに吸いつくようにして、炎は鮮明な赤い色をゆらゆらと漂わせる。 ウィザロは今も真っ赤に燃え盛るそれを、自慢げに母に見せた。 「ね、すごいでしょ?」 褒められると思った。すごいわね、そんな答えが返ってくるものだとばかり思っていた。 しかし母は途端に顔を真っ青にすると、彼女にしては珍しく声を張り上げた。 「ウィズ! なにやってるの!」 がし、と、腕を掴まれ、ウィザロは少しよろけた。 そして眼前に焦った母の顔があるのを認めて初めて、これは只事ではないと悟った。 「早く水に! 早く、手が、火傷が……っ」 「……ママ?」 きょとんと目を瞬かせたウィザロは、なにやら取り乱す母の姿を見て首を傾げた。 「ママ……これ、熱くないよ? 大丈夫だよ?」 「なに言ってるの!」 「本当だよ! 熱くないもん!」 こちらの言い分をまったく聞き入れず勘違いしたままの母の腕を振り解くと、ウィザロはむきになって返した。 違うのだ。これはそこらの単なる火ではなく、「自分が出した炎」なのだ。 あの湖畔で火があればいいのにと強く願ったのを、神様が叶えてくれたに違いない。だからこうして触っていても熱くないのだ。だから平気なのだ。 喜んでくれると思ったのに。褒めてもらえると思ったのに。 ウィザロはふくれっ面で、慌てうろたえる母の顔を見上げた。 「ウィ……」 そうやって平然と佇むウィザロの姿が彼女の瞳にどう映ったのかは分からない。 ただ、それはあまりにも異様だっただろうなと予想はできる。炎をなにもない手のひらから立ち昇らせていたのだ。それはきっと、彼女にすれば夢でも見ているような心地だっただろう。いや、それが現実だったから尚のことだ。 しばらくしてからなにかに行き当たったかのように、母の瞳は不規則に揺れた。 「どうした? そんな大きい声で……。二階まで聞こえてたぞ」 「あなた!」 ちょうどそのとき、二階にいたらしい父が騒ぎを聞きつけたらしくゆっくりと降りてきた。 母も父の姿に気づくと咄嗟に階段を降りたばかりの彼の方を向く。 「ウィズが、ウィズが……っ!」 母が今にも泣き出しそうな素っ頓狂な声を上げる。 尋常ではない彼女の表情と声に驚いたのか、父はぱっとウィザロの方を見た。 「……ウィズ?」 ウィザロは父に呼ばれた一瞬、びくりと肩を震わせた。 こちらを向いた父の驚愕の表情は、あまりにもいつもの父のものとはかけ離れていたのだ。 父は数回、ウィザロの顔と、ウィザロの手のひらに宿る炎とを目を丸くしながら見比べた。 自分はなにか間違ったことをしているのだろうか。 ウィザロはだんだん、自分の手元に宿る炎が禍々しいもののように感じられた。ウィザロの心情に呼応したかのように、炎はすぐにウィザロの手の中から消えた。 「あなた! ウィズは……本物のウィズはどこ!? これは悪魔よ! 悪魔だわ!!」 母の口から勢いよく放たれた「悪魔」と言う単語に、ウィザロは面食らった。 「ウィズをどこにやったの! あの子を返して!」 目をかっと見開き、どこか鬼気迫る雰囲気の母に、ウィザロは呆気にとられてなにも言えなかった。 悪魔? 誰が? ウィザロならここに、こんなに近くにいるではないか。それを母も見ているし分かっているはずだ。 しかしウィザロは、今の母は自分を見ていないように思えた。顔と瞳はこちらを向いている。けれど母は、自分の身体をするりと通り抜けた先にいる別のウィザロを見ているような気がした。 ママ、ウィズは僕だよ。僕がウィズだよ。 ウィザロがこわごわでもそう言おうと口を開きかけたとき、ウィザロの目の前にふっと人影が落ちた。 「ウィズ、お前は隣のお家まで行ってなさい」 いつの間にかウィザロの前には父が立っていた。 こちらに背を向けて、まるでウィザロを庇うような恰好で父はそこにいた。 「パパ……?」 「いいから行くんだ」 父の口調はいつになく真剣で、怒られているわけでもないのにウィザロは怖くなった。 「……あなた?」 どこからかぽつりと呟くような声が聞こえた。 ウィザロはなにがなんだか分からないまま、父の背中から少しだけ身体を動かして母の顔を窺った。 「それは悪魔よ? なぜ悪魔を庇うの。早く殺してしまわないと」 言いながら、母はキッチンにあった銀色に光る包丁を手に取った。 「クリス、落ち着こう」 「なにを言ってるの。そこにいるのは悪魔なのよ。あなた、悪魔がいるのよ」 母の声は先程と比べると妙にしんみりと、むしろ淡々としていた。 父は母の問いかけには答えず、ただ母の顔をじっと見つめながらもなにか言いたげな様子だった。 包丁を胸の前で構えた母が一歩、父とウィザロがいる方へ踏み出す。 ウィザロはその切っ先が自分へと向けられているのにぞっとした。が、すかさず父が手を伸ばしてきて、ウィザロの肩を、とん、と、軽く後方に押しやった。 「あ、あなた……まさか……」 途端、母の顔からさーっと血の気が失せていくのが分かった。 真っ青どころの話ではない。逆にこちらが心配してしまうような顔色の悪さで、そのままうしろにでも倒れるのではないかと思うほどだった。 包丁を握る彼女の手さえ、かたかたと小刻みに震え始めた。 「ウィズ、これから着いた先でパパの名前を言うんだ。分かったか?」 今までこちらに背を向けていた父が、突然膝を折るとウィザロと目線を合わせて早口で言った。 ウィザロは未だにこの状況が飲み込めないままだったが、父の表情と雰囲気に気圧されて首を縦に振った。 父がウィザロの目の前にぱっと右手を翳す。 するとウィザロのほぼ顔の真ん中の位置に、突如青白く発光する円形の紋様が現れた。 それはなんとも複雑な模様をして、現れてからはぐるりぐるりと時計回りに回っていたのだが、しかしすぐにふっと掻き消えた。 なにが起こったのだろう。ウィザロは紋様が消えてから数秒後、はっと我に返った。 もちろん今までにしてもなにが起きたのか起きているのかは理解できないでいたが、ウィザロの視界は紋様が消えると同時に真っ赤に染まった。 BACK/TOP/NEXT 2010/02/05 |