まだ、すぐ傍に両親と呼べる存在があった頃。 あの頃の思い出を、記憶を思い出すのには、少しばかり勇気がいる。 目蓋を閉じればあの勢いよく燃え盛る炎が身体にまとわりつくようで。 それでもその凄惨な光景を向こうに押しやるには、僕はまだ、子供すぎて――。 消せない過去 -第一話 雪がほぼ一年中舞うと言っても過言ではない国、それが世間一般に広く知られるブノワの代名詞だった。 外からやってきてそのまま定住する者がいれば、それはほとんど奇跡だった。 「ママぁ、お腹すいたー」 その国にいたのは五歳のときまでだったと言うのに、家の構造や周囲に広がっていた光景は淀みなく思い出せる。 確か自分たち家族は、都市部ではなく比較的郊外の、それも集落から離れた場所にぽつりとある一軒の家に住んでいた。 一番近い隣家までは十分ほど歩かなければ着かないほど殺伐とした場所だった。 家の周囲には広い芝と背丈のある掠れた緑色の木々が根を張り、空はたいていいつでも灰色をしていた。 だが庭はグラウンドのように広かったし、外を走り回りながら野生の動物たちと触れ合うのも楽しかったしで、つまらないと感じたことはない。 その日もウィザロは広い原っぱを駆け回ってきたところだった。 これからさらに厳しくなる冬に備えて南へと渡る鳥たちを追いかけたあまり、既に足はくたくただった。 ウィザロは玄関の扉を開けるなり、キッチンにいる母に向かって声を張り上げた。 「あら、ウィズ。さっきお昼ご飯食べたばかりでしょう? もうお腹すいたの?」 キッチンで忙しく手を動かしている母の背を低い視点から見上げながら、ウィザロは、うん、と大きく頷いた。 しばらくしてから、母のアッシュブラウンの巻き毛がこちらを振り返ると同時にふわと舞い踊る。 「もう……仕様のない子ねえ」 母が天使のような笑みとともに自分の方を向く瞬間、それがウィザロが覚えているうちで一番好きな母の仕草だった。 しかし振り返ったその母の瞳がいったいどんな色をしていたのかは、不思議と覚えていない。ただ透明感がある色だったことだけは薄らと記憶にある。 自分が泣いたり落ち込んだりしたとき、母はその優しい瞳をふっと細めながら、緩やかなウェーブのかかった髪をウィザロの頬に寄せて慰めてくれた。 「だっていっぱい外で遊んできたんだもん!」 「あらあら?」 くすくすと忍び笑いを漏らす母に、ウィザロはぷうと頬を膨らませた。 自分はこんなにも疲れてこんなにもお腹がすいているのに、ずっと家にいた母はそれを分かっていないのだ。だから一緒に湖まで行こうと誘ったのに。 「なんだ。ウィズはもうお腹が減ったのか」 唐突に遠くから聞こえてきた低い声に、ウィザロはぱっと顔をそちらに向けた。 とんとんとん、と、軽いリズムを刻んで、誰かが二階から降りてきたのが見える。 分厚い本を手に俯いていた顔が、一階に足をつけるなりゆっくりとキッチンの方を向いた。 「パパー!」 ウィザロが駆け寄っていくと、「パパ」と呼ばれたその人、ウィザロの父は途端ににっこりと笑って手を広げた。 その大きい腕の中に頭から飛び込んだウィザロは、すぐに父のブロンドの癖毛に鼻を押し当てた。 周囲の人間からはことあるごとに、「ウィザロは本当にパパそっくりね」と言われた。 ウィザロは父のように綺麗なブロンドではなかったが、強くて温かい父に似ているらしいこの癖毛は、多少扱いにくくても自慢のものだった。 だが今、自分と同じ癖毛の父のブロンドからは少し埃っぽい匂いがした。大方、彼はまた屋根裏の掃除でもしていたのだろう。 少しずつではあるが、父は休みのたびに屋根裏の掃除を進めていた。 この家へ越してきたのはウィザロが生まれる少し前のことだったのだが、以前ここに住んでいた人が屋根裏にいろいろなものを置いたまま引っ越してしまったらしく、父はそこを片づけるとともに面白そうながらくたを発掘するのが好きだった。 「ウィズ。今クッキー作っているから、ちょっと待ってなさいな」 「ほんと?」 背後から聞こえてきた母の声に、父の腕の中にいたウィザロはぱあっと頬をほころばせた。 やはり母は自分の考えていることが分かっていたのだ。ウィザロは嬉しくなった。 「よし、ウィズ。クッキーができるまでパパと遊ぼう。おいで」 手にしていた本をぱたんと閉じて脇に置いた父に向かって、ウィザロはいっぱいに手を伸ばす。 するといきなり身体が宙に浮いた。いつもは届かないはずの天井が、すぐ目の前まで迫っていた。 「どうだ! 高いだろう!」 何度も何度も、父の手によってウィザロの身体は天井近くまで持ち上げられる。 たまにふと、なにかの拍子に床まで真っ逆さまに落っこちてしまうのではないかと言う錯覚に囚われたが、父の顔をみるたびにほっとして、安心して身を委ねられた。 きゃっきゃと笑う自分の声が、集落から離れた広い家に響き渡る。 父は自分の気が済むまで遊んでくれた。キッチンに立つ母も、たまにこちらをちらと見てはおかしそうに笑っていた。 幸せだった。当時にすればそれは普通だったのだが、今改めて考えるとその光景はまさに宝物以外の何物でもなかったと思う。 だからこそ、そんな極ありふれた毎日がいつまでも続くと、このときはそう信じて疑わなかった。 BACK/TOP/NEXT 2010/01/23 |