小さな魔術師 -第六話 「呼び出しの間」と呼ばれる機構の入り口でもある広間に到着したとき、既に騒ぎは収拾がつかないまでに発展していた。 S級の悪霊が機構に侵入してきた。それはもちろん前例のない驚くべき事態ではあったが、それよりも人々の関心を集めたのが、どうやら十歳くらいの少年がその悪霊を冥界へ送ったと言うことだった。 その現場を目撃した魔術師や先遣隊の周りには、騒ぎを聞きつけてやってきた人々が群れ始めてあっという間に人だかりができた。そうして今や広間は尋常ではない数の人間で溢れ返っていた。 師範代の人間がいくらここから去れと声を張り上げたところで彼らの耳に届くはずもない。 彼らは現実と噂話に夢中になりながら、時折ある方向をちらちらと見てはすぐに興奮した様子で喋り出す。 これから様々な尾ひれ背ひれがついて、この件は外界にまで広まるだろう。アベルは内心で深く嘆息するとともに、人々が盗み見する先、遠く広間の端っこで人々から隔離されているウィザロを見やった。 ウィザロの周りには機構の上層部の人間が数人集まっており、彼らは焦った様子でウィザロからなにかを聞き出しているようだった。 「……いつから」 「はい?」 「いつから、彼のあの兆候は見られたんだ?」 「呼び出しの間」がS級の悪霊騒ぎで混乱している中で、アベルの隣に立っていた眼鏡をかけた真面目な青年が問うた。 アベルはその問いに対してゆっくりと首を横に振った。 「覚えていません。しかしわたしが異常を感じたのは、ウィザロが機構に入って数年後くらいの、成績ががくんと落ちた頃です」 ウィザロが機構に入った頃の様子は今でも鮮明に思い出せる。 最初は膝を抱えて寄宿舎にこもりっぱなしだった少年が、ある日を境にして機構に顔を出すようになった。かと思えば、ありとあらゆる初級魔術を瞬く間に覚え使いこなしていき、最初の一年は誰もが疑う余地のない成績で学年主席になった。 しかしそれから数年が経つと、ウィザロの存在は次第に周囲に埋もれていった。 まるで自分はここにいないのだと主張するかのように、ウィザロはひっそりと日陰を歩くようになった。気がつけば、彼の成績は可もなく不可もないちょうど中間くらいを行き来していた。 だが最初から彼の面倒を見ていたアベルとしては、その不自然なまでの彼の行動が気にならなかったわけではない。しかし、だからと言ってウィザロにどこか不審な点があるとも思えなかった――そう、その当時は。 「……と、言うことは、ウィザロ・オルコットのあの成績は、あれは本当ではないと」 「恐らくはそうでしょう」 アベルの隣に立つのは、いつの間にか幼い少女に変わっていた。 長い金髪を揺らめかせながらどこかこちらをあやすような風で、少女にしては落ち着いた表情をしていた。 「やはり、彼の過去が影響しているんでしょうね」 聞いたことのある声にアベルがちらと目を横にやると、今度は少女ではない、アベルとまったく同じ恰好と容貌の人間がそこにいた。 だがアベルは彼に対し驚くでもなくただ、そうですね、と苦笑交じりに答えて正面を向いた。 そのとき、アベルの視界にふと見慣れた姿が入った。 この騒ぎの中でどの集団にも属さず、ただ「呼び出しの間」の広い床にぽつりと座り込んでいる黒髪の少年は確かに見覚えがあった。 いったい彼はなにをやっているのだろう。アベルの足は自然と彼の方へ向いた。 「ライアン? 大丈夫かい?」 アベルは彼の方に近寄っていくと、その小さな肩をぽんと叩いた。 はっとしてこちらを振り返った黒い瞳は、確かに数ヶ月前までアベルが受け持っていた生徒の一人、ライアンのものだった。しかし、いつもなら気丈なその瞳は今はどこか震えているように見えた。 ライアンはアベルを見て最初こそは驚いたらしかったが、すぐに顔を元通り伏せると数秒後、ぽつりと呟いた。 「……あいつ」 「ん?」 アベルが屈んでライアンの顔を覗き込むと、ライアンはどこか一点を見つめたまま息を呑んで言った。 「……あいつ、シラヴェリを……。S級の呪文を、使った……」 先刻ライアンの瞳が震えていると感じたその意味を、アベルはようやく理解した。 ライアンが戸惑うのも無理ない。今まで自分の下だと思っていた級友が、いきなり高度な、それも一番上のS級の呪文を使って見せたのだ。 自分の記憶が間違っていなければ、ウィザロとライアンは寄宿舎でも同じ棟に入っていたはずだ。 年齢も同じで、親族をなくして機構に入った時期も一緒。そんな状況下で知り合ったのなら誰だって互いに心を許し打ち解ける。ライアンにとってウィザロは、親友以上に志を同じくする者であっただろう。 だがウィザロはライアンを欺いていた。その真実と言う名の衝撃が、ライアンに一種の絶望に似た感覚を与えているのだろう。 (……過去、か) もっとウィザロのことを理解しようとすればよかったのかもしれない、とアベルは思った。 ウィザロがこんな行動をとるのは、恐らく、彼は自分を「いらないもの」と考えているからだ。事実ウィザロを機構に連れてきた最初の日、彼は怯えながらも「僕がここにいる意味はあるんですか」と、か細くもひどく真剣な声で問うてきた。 だからこそ彼はここで見つけた魔術師という存在を自分の生きる糧として、今の歳では無謀だと言われる魔術師の仕事をやりたがる。無茶だと分かっていても身体が先に動いてしまっている。 幸運なのは、彼の能力がその欲望に追いついていると言うことだ。 本来ならば十歳程度の人間に魔術師の称号を与えたところで、外界に出て数ヶ月もすれば消息が断つのは不可避の事実である。 そう考えると、ウィザロが魔術師の行為を真似るその行動は、生きようとしながらもどこか自分の死に場所を探しているようにも思えた。 だがウィザロの過去に偶然居合わせてしまったアベルとしては、ウィザロの口からあの日のことを再度聞き出すのはなににも代えがたいことだった。 たとえそのあとに心の治療や慰めが約束されているとしても、その前にウィザロに再びあの日の光景を思い出させなくてはいけない。それは想像するだけでも、次の瞬間ウィザロははたして正気に戻るだろうかという疑念が拭えないものであった。 ああ、きっとあの場に居合わせた者だけが知るのだ。目の前で親しい人が消えていくと言う、この世で最も凄惨なあの場面を――。 アベルの頭の中で記憶の火がぱちりとはぜったそのとき、アベルせんせえ、と遠くから間延びした声が響いてきた。 反射的にアベルが声のした方を向くと、さっきまで数人の大人に囲まれていたウィザロが、今や平然とした顔でこちらを向いているのが見えた。 ウィザロが言葉を発した途端、広間にいた魔術師や先遣隊は一斉に口を閉ざしてウィザロの方を見た。 しかしウィザロは周囲の人間など初めから視界に入っていない風で、真っ直ぐこちらを見ると、笑顔でぺこりと辞儀をした。 そしてウィザロが顔を上げたとき、早くも彼の身体は風に消え始めていた。 「どうされますか、理事長」 アベルは折っていた身体を元に戻した。 アベルの隣にはいつの間にか、くすんだ眼鏡をかけている機構の理事長、ゲオルグの姿があった。 「きっと彼は、ウィザロは、自分の信念を貫きますよ」 「それは困ったな」 口ではそう言いながら、ゲオルグはしかし、面白そうな表情を浮かべて苦笑していた。 きっとウィザロは戻ってこない。魔術師の仕事から、彼は離れることができない。次に彼に会うのはいつのことだか分からなかったが、アベルはそう近いうちではない気がした。 アベルはウィザロに向かってひらりと手を振った。死ぬな、心の底で叫んだ。 こちらの心情を分かっているのか分かっていないのか、アベルが応えたときウィザロはいっぱいに目を細めた。それはおどけたり誤魔化したりする種のものではない、アベルが知っているウィザロの本当の笑みだった。 広間からウィザロの姿は煙の如く消えた。周囲にいた人々は、ウィザロの姿が消えるなり再び興奮して話し始めた。 耳をつんざくような喧騒の中、アベルの脳裏にウィザロと出会った最初の光景がどこからともなく蘇ってきた。 あのときのことを思い出すと彼が不憫で仕方なくなる。 アベルがウィザロと出会ったとき、それはウィザロが今よりもまだ幼い、五歳のときだった。 BACK/TOP/NEXT(「消せない過去」篇) 2009/07/27 |