小さな魔術師 -第五話 それは本当に一点の曇りもないほど均質に真っ黒く、そしてなによりも巨大で威圧感のある身体からは絶え間なく凄まじい勢いの冷気が噴出している。 どれくらい凄まじいのかと言えば、いっそこの広間が凍りついて使いものにならなくなってしまいそうなほどだ。 たとえるならば真冬の雪山のブリザード、いや、この冷気はあれ以上に禍々しく嫌な感覚しか与えてはくれない。 だからその悪霊の縦に見開かれた目が生々しくこちらを向いたとき、ウィザロは、しまった、目をつけられたな、と思った。 師範代や理事長がすぐこの異常に気づいてくれればいい。が、それまでにこの広間の誰かが犠牲になる可能性も十分に考えられた。 「……っ、あ……!」 突然ライアンが苦悶の呻きとともに、頭を押さえながらその場にぺたんと座りこんだ。 ウィザロは驚いてライアンを振り返る。そこで目にしたライアンの手は小刻みにがたがたと震えて、顔もすっかり青ざめていた。だがライアンのその幼い黒い瞳の中にだけは、怯えながらも確かに憎悪の炎が灯っていることにウィザロは気づいた。 その理由はすぐに分かった。ライアンの家族はS級の悪霊に襲われていたのだった。 このままだとライアンは無茶をしかねない。ウィザロはライアンのこれからの行動が手に取るように分かった。 たとえ無謀だと分かっていても、彼はこの悪霊に家族の復讐を果たそうとするだろう。 ウィザロは再び眼前に居座る悪霊に目線を移した。ライアンが我を忘れて行動を始めるその前に、この事態をどうにかしなくてはならない。 悪霊の大きく裂けた口の端が、ウィザロが目をやると同時ににいと釣り上がった。 黒く丸い胴体から細く長く伸びていた腕の部分が、ゆらりと緩やかな速度で持ち上がる。その様を、ウィザロとライアンはただ見送った。 「そこのお前だ……。お前から、強い魔力を感じる……」 人間ではとても出せないような低く野太い声が、吹き抜けを伴った広間にわんわんと木霊する。 それが悪霊が喋っているからなのだと理解するのに大した時間は必要なかった。 しかし「強い魔力」という言葉に、ウィザロの足元で座り込んでいたライアンは一瞬びくりと肩を震わせた。 「お前だ……お前を、食べたい……!」 悪霊の細い腕の先からさらに分化した指のようなものが、すうとこちら側に伸びてくる。 そして己の欲望を如実に表したとも言える興奮した喋りと同時に、悪霊が真っ直ぐ指さした先にいたのは、顔から血の気が失せているライアン――ではなく、その隣にいたウィザロだった。 恐らく広間に凍りついていた魔術師全員が、この悪霊はいったいなにを口走っているのかと思ったに違いない。 悪霊の中でも一番性質が悪いS級の興味を引いているのが、よりにもよってまだ十歳くらいの少年だとは、誰もが首を傾げざるを得なかったことだろう。 頭の回転が速いライアンでさえ数秒遅れてからウィザロの方を勢いよく向いたほどだ。だがその表情は、信じられないと言わんばかりの驚愕に満ちていた。 当の本人であるウィザロだけは眉一つ動かさず、まるでそうなることが当然であったかのように、ただ悪霊の視線を冷めた表情で受け止めた。 悪霊はそれ以上はなにも言わず、じっとウィザロの爪先から頭のてっぺんまでをねめまわしてくる。 「お前は、いったい何人食べたの」 広間の沈黙を破りウィザロが静かに問うと、悪霊は大きく裂けた口を歪ませて、まるで地の底から響くような下卑た声で笑った。 「さあなあ。どんなに食っても食っても満腹にならないからなあ」 しばらくそうして笑っていた悪霊は、しかし数秒後、笑うのをやめるとじろりとウィザロを見下ろした。 その相手を射竦めるような視線は、どこか獲物をとらえた猛禽類のものに似ていた。 「お前を食ったら満腹になるかもなあ」 いよいよ悪霊の焦点が定まってきた。 ウィザロはふうと軽く息を吐くと、改めて悪霊を見上げて口を開く。 悪霊がどうしてこの閉鎖された機構まで辿り着いたのか、頭が冷静になったからかようやく飲み込めてきた。 この場所へは伝書がないと来ることができない。それは換言すると、伝書さえあればたとえ一般人でも悪霊でも来訪できると言うことだ。 これは単なる推測にすぎないが、大方この悪霊は伝書で呼び出されたばかりの魔術師を喰らい、その魔術師の代わりに伝書を用いてこちら側へとやってきたのだ。己の飢えを満たすために、魔力を持つ者の生命力を欲して。 「お前の願いはもう聞いてやらないよ」 臆することもなくぴっと人差し指を向けてくるウィザロに、悪霊は面白いものでも見たかのような含み笑いを漏らした。 「ウィズ! なにを言ってるんだ!」 ライアンの狂った怒声が耳に飛び込んでくる。 けれどウィザロは返答をせず、やおら顔を伏せるとほんの少しの間だけそっと目蓋を閉じた。 誰にも分かってもらえないのは承知の上だ。 "悪霊の心を理解したい"など、悪霊を恨んでいるライアンに言わせてみればそれはきっと狂気の沙汰でしかないのだろう。 しかし自分にはこれしかない。「あのとき」すべてを失ってしまった自分には、悪霊たちの心を浄化してから再度眠りにつかせるくらいのことしかできない。 だからせめて最善を尽くそうと思った。いち早く魔術師となって、多くの霊を救いたいと思った。 先遣隊の仕事を放棄してまで魔術師でありたかったのは、他人に笑われてしまいそうなそんな理由なのだ。 けれどウィザロはそれで十分だった。脳裏に、今まで出会った数々の霊たちのふとした瞬間に見せた笑顔が次々と走馬灯の如く蘇ってきた。 ウィザロは顔を上げた。そこには今にもこちらに襲いかかってきそうな様子のS級の悪霊がいる。 その姿をしっかり抑えると、ウィザロは手にしていた大きい鞄の鍵を、手を翳しただけのその行為で外した。しかしいつの間にか鞄の鍵は元通り閉められて地面に横たわっており、そしてウィザロの左手には一冊の魔術書が携えられていた。 広間が、悪霊の発する冷気だけではなくウィザロの魔力をも伴って細動し始めた。 「一時束縛」 ウィザロの左手の中でばらばらと誰の力も借りずに捲られていたページが、あるところに来るなりぴたと静止する。 するとそのページの真ん中にでかでかと描かれていた紋様とまったく同じデザインの紋様が、ウィザロの朗唱と同時に悪霊の真下の床に出現した。 この状況を楽しんでいた悪霊が、不審そうな顔をして突然現れた己の足元の紋様をまじまじと見つめる。 その矢先、何本もの青く発光する帯状の布みたいなものが天に向かって勢いよく伸び、悪霊の黒く丸い巨大な身体を素早い動きでとらえ出した。 ここにきていよいよのっぴきならぬ事態になっていると理解した悪霊は、その枷を糸も簡単に振り切るとウィザロの方に手を伸ばしてきた。 左腕は辛うじて再度現れた紋様の一端に絡めとられたが、しかし自由になった右腕だけはウィザロ目がけて直進する。 細く伸びた腕はウィザロの心臓を目標に突き進む。これに身体のどこかが射抜かれてしまえば最後、すべてが食べられてしまうだろう。 だがこのとき、ウィザロに襲いかかりつつあった悪霊は見た。 これまでに出会ったどんな年齢のどんな魔術師や先遣隊も、追いつめられて最期を迎えると途端に顔を引き攣らせて断末魔の叫びを上げる。 それなのにこの年端もいかない少年は、こともあろうか他人のような冷静な素振りと表情をしてそこに立っているのだ。 ウィザロのその表情は、いつも他人に見せる屈託のない笑顔やおどけた仕草とはまったく異なっていた。 この世界のなにもかもを見透かしたような視線、そこに少年を思わせるあどけなさなどどこにも見受けられない。 いっそ冷酷さを思わせる瞳はただ悪霊の姿を見据えている。 「やめろウィズ! そいつは――」 ライアンが身を乗り出して叫ぶ。悪霊の異形の顔が、束縛呪文を破ってウィザロに迫る。 「送還」 広間が、機構が、機構を支えている空に浮かぶ島が、ゆっくりと縦に揺れる。 その場に立っていた者はよろめき、座り込んでいた者は反射的に手をついて己の身体を支えた。 ウィザロの足元には今や見たこともない薄青色の紋様が浮き出ており、そこから上方に向かって風が吹き荒れている。 その風に乗せられて、悪霊の黒かった身体はするりと溶けると上へ上へと消えていく。ウィザロの一寸前まで迫るにいたった悪霊はそこで風のようにその姿を消滅させていた。 最期の呻きなどはない。それでも消え行く間際、悪霊はその一つしかない大きな目で呆然とウィザロを見た。だがなにもかもがそれきりで、あとはされるがままにして天へと昇っていく。 (……君も、人間だったんだよ) 悪霊と目が合った時、ウィザロは心の中でそう呟いた。 だが気のせいだろうか。悪霊の黒い姿が完全に消える前に、ウィザロのその呟きに対して、悪霊がこくりと小さく首を縦に振ったように見えた。 ウィザロはゆっくりと頭上を仰いだ。彼の淡いパステルブラウンの癖毛がふわふわと揺れて、悪霊が去った後の風になびく。 そうしてしばらくして紋様から吹き出た風がやんだあと、天からは真白な粒状の光が降ってきた。 それはちらちらと、世界の儚さをそこにすべて凝縮したかのごとくか細い光で、広間のすべてに降ってきては弾けて消えた。 「……ごめんね」 誰もがこの瞬間になにが起きたのかと呆気にとられている中で、ウィザロはライアンの方を向くと精一杯笑んだ。 ウィザロは、今度こそ言えた、と思った。 それは最初に意図したものとは別の意味を纏っていたけれど、ちゃんと言えたと思った。 自分が先遣隊としてBランク地区を選んだ理由。それはそこが「今の魔術師としての自分の能力」に一番適していたからだ。 Aランク地区の悪霊はとてもではないが無理だ。恐らくは冥界へ送ろうとしても相手の方が強く、不可能だろう。 それならばランクを落とせばいい。悪霊になったばかりの霊が存在するBランク地区でなら、自分は「魔術師として」動ける。 機構の成績で卒業後の派遣地区が決まると言うことは、機構に入って数年後に知った。 そのために学年首席という名誉ある地位をわざと落としてまでBランク地区に派遣されるように仕向けた。 理由は前述の通り、悪霊の現世へ蘇るきっかけを、その未練となった事柄を浄化してから再び眠らせたい。それだけだ。 偽善なのかもしれない。自分は気づいていないだけで、それは客観的に見ると偽善でしかないのかもしれない。 しかしそれがなんだと言うのだ。悪霊が満足で、それで自分が満足ならば、いいのではないだろうか。 「あのとき」、ブノワと言う国に生まれたウィザロ・オルコットは死んだ。今ここにいるウィザロ・オルコットは、奇跡的に生を紡いでいるウィザロ・オルコットだ。 だからこそ他人のためならなんだってできる。それがたとえ自分に利のないことだとしても、この世界に立っていること自体が奇跡である自分には、他が幸せになれるのならどんなことだってできる。 自虐的に言えば、それくらいしかこの世界で自分にできることはないのだから。 ウィザロは尚も降りしきる光の中央に立ったまま、こちらを呆け顔で見返してくるライアンに儚く笑んだ。 そんなライアンの向こう側には、慌てた様子でこちらへ駆けてくるアベルたち師範代の姿が見え始めた。 BACK/TOP/NEXT 2009/07/21 |