魔術師養成機構の建物群から離れたところにそれはひっそりと建っている。
シンプルだが不十分だということでもなく、また小奇麗な造りでもあったため、ウィザロがそこにいて不便だと感じたことは一度としてない。

それは休息を求める「寄宿舎」にとってはかなり理想の姿だった。
もちろんわざわざ親元から機構まで通う者もいたが、半分くらいの人間は寄宿舎に入っていた。
だが「寄宿舎」が造られた本当の意味は、ただ単に機構に通いやすくするためではなく、自分のように身寄りがいなくなってしまった者、そして魔力を持つがゆえに迫害される危険がある者を匿うのとが主であった。

「私たちの魔力は神様から与えられたものなの」

今でも時折思い出す。
口元に薄らと笑みを浮かべながら、まるで自分たちをあやすような仕草で彼女が言っていたその言葉を。

ウィザロがまだ機構で世界のことや魔術に関する勉強をしていたとき、その寄宿舎には同年齢の金髪の少女がいた。
彼女の両親はどちらも一般人、彼女はいわゆる突然変異型というやつで、彼女だけが魔力を持って生まれた。しかしそれが周囲に知れた途端、彼女は故郷の人間ばかりでなく親にも殺されかけていた。そのことをいち早く察した魔術師の一人が、間一髪で彼女を助けて機構まで連れてきたのだった。
彼女にも自分と同様に帰る場所がなかった。

「じゃあなんで俺たちはこんな目に遭ってるんだ?」

釣り上がった黒い瞳が、暖炉を前にした暖かい部屋の中でいつも不機嫌そうにしていたのを覚えている。
かく言うライアンも帰る場所のないうちの一人だった。

魔術師としての未来を嘱望されたにもかかわらず、彼の運命もまた幼い頃に変わってしまっていた。
彼の親は両方とも名の知れた魔術師で、つまり彼は魔術師一家に育った。
しかし彼が五歳のとき、夕食の最中に悪霊に家ごと襲われて、彼は両親と妹を一晩で失った。大怪我を負いながらも、ライアンだけが助かった。

「不公平だからよ。普通の人間は魔力を持たないでしょう? だから私たちが差別されている、それは試練なのだわ。神様は人を平等にしかお作りにならないの」
「だからって差別されていい理由なんかあるか。俺たちにだって普通に生きる権利はある!」

すべてを見透かすように話す彼女に、ことある毎に突っかかっていくライアンの姿を、ウィザロはなんとはなしに見つめていた。
そんなライアンにあとで決まってウィザロは言った。

「……敵うわけないって。彼女に口で勝った人間がいるなら知りたいくらいだよ」
「ウィズは無関心すぎるんだよ。この現状に腹が立たないのか?」

むっと顔をしかめるライアンに、しかし毎回ウィザロが答えることはなかった。理由は簡単だ。答えようがなかったのだ。
なにせ倒れそうなほど不安定な毎日をただ必死に生き抜くことが、自分にできる最低で最高のことだと、当時から思っていた。









小さな魔術師  -第四話









眉根を寄せて、相変わらず年齢の割に冷めた視線を送ってくる黒髪の少年は、間違えようもなくライアンその人だった。
久し振りに級友に会えた懐かしさに、ウィザロは満面の笑みを浮かべながら壁際のライアンの方へ近寄った。

「もしかして……ライアン?」
「もしかしなくてもそうだよ」

ウィザロとは対照的に、ライアンはあくまで再会に感傷的になることもなくさらりと返した。
そうした彼の様子が数ヶ月前と本当に変わっていなくて、ウィザロはぷっと吹き出す。
ライアンはウィザロが己の近くにやってくると何気なく歩き出した。そんなライアンの横に、ウィザロは決まっていることのように並んで歩く。

眩しいくらいの黄色を孕んだ陽の光がたっぷりと広大な廊下に注がれて、同じくらいの背丈のウィザロとライアンを包み込む。
機構の生徒や、さっきまで外界に出ていたであろう若い魔術師がウィザロとライアンの傍を颯爽と通り過ぎていく。廊下の天井を数メートル間隔で支えている端正な造りの支柱の間からは、どこからともなく小鳥の囀りさえ聞こえてくる。
優雅な昼下がりとも言えるその雰囲気は、機構全体をすっぽり覆うと、人々に悟られぬようそっと時間感覚を弾いた。

「ライアンは? なんでこっちに帰ってきたの?」

歩き出してからどちらとも黙り続けていたのだが、いの一番にウィザロがその沈黙を破った。
ライアンはウィザロのその問いに対し驚くでもなんでもなく、ひょいと肩を竦めると面倒そうな顔をした。

「手続きがあったから仕方なくだよ。……と言うか、問題は俺よりウィズの方だ」

すると今までこちらに無関心だったライアンの瞳が、真面目にウィザロの方を向いた。

「どうしたんだ、ウィズ。前よりもっと意味不明な行動をとってるじゃないか」

そのライアンの言葉の真意を数秒遅れて悟ったウィザロは、ああ、と明後日の方角を見据えながら呟いた。

「聞こえてた?」
「"聞いていた"んだ」

素っ気なく答えるライアンは、また別の方角を向いた。
要するにライアンは先程の理事長室内部での会話を聞き取っていたと、つまりはそういうことだろう。
あの魔力が氾濫していた部屋の会話を、しかも外側から盗み聞きするとはやはり彼は侮れないなと、ウィザロは心の中で苦笑した。

「もしかしたら、今の役割に不満なのか? Bランク地区でも……稀にだけど、悪霊を相手にすることはあるじゃないか」

数秒を挟んだあと、ライアンは再び口を開いた。
しかし彼は、ウィザロが意図して魔術師の所業を真似た理由とはまるで似ても似つかないことを言った。
そう言うことではない、そう言うことでは――。ウィザロはライアンの視線から逃げるようにして顔を伏せた。

ライアンが自分を待ち受けていて、そして声をかけてきたのは単なる再会のためではないのだと、このとき遅れ馳せながらウィザロは気づいた。
ウィザロは顔を伏せたまま前へと進めていた足を止めた。ライアンもウィザロの数歩前で止まった。

「俺は、ウィズならAランク地区でもいいと思う。俺から推薦したっていい」

ウィザロはふるふると、無言のまま首を横に振った。
恐らくライアンは自分が首席であった頃のことを考慮した上で言っているのだろう。
しかし駄目なのだ。自分がBランク地区にこだわるのには歴とした理由がある。Aランク地区でもなくCランク地区でもなく、Bランク地区でなければ駄目なのだ。

彼にも言えない。旧知であるライアンにさえも、言えない。その理由は、言ったところで理解してもらえないだけだからだ。
ウィザロは誰よりも、自分がそのことを一番よく知っているという自負があった。
だがその頑なな態度のウィザロが気に食わなかったのか、苛立ったらしいライアンは声を若干荒げると言った。

「ウィズ、なにをそんなに焦ってるんだ? あと数年経てばほぼ間違いなく魔術師の資格を得て、魔術師の仕事ができるじゃないか」

知っている。知っている。分かっている。

「なあ、ウィズ。理事長先生の恩を忘れたわけじゃないだろ?」

どこかこちらの気を撫でるような言い方とその言葉とに、ウィザロはぴくりと反応した。
そしてウィザロがなにか口を挟む前にライアンは続けた。

「俺たちが迫害されるでもなく虐げられるでもなく、こうやって生きていられるのは理事長先生のお陰だ。百年以上も前に理事長先生がこの機構を立ち上げて、世界にはびこり始めていた霊を冥界に送る術を確立して、その役目を俺たち魔力を持つ者にあててくれたからだ」

ライアンの言うことは、ずばり的を射ていた。
反論の余地などあるわけがなかった。たとえ反論しても、反論した方が惨めになるだけだと瞬時に分かった。

今世界に蔓延している悪霊は、人々にありとあらゆる悪影響を与える。
霊は己の不安定な体を維持するために周囲の生命あるものを食らう。それは換言すると、人や動物が見境なく襲われるということだ。

そこでこの機構を立ち上げた当時の理事長は、この状況を見て霊を冥界に強制送還するための呪文をつくりあげ、それを魔術師が生きるための道とした。
方法は簡単だ。霊の暴走に頭を悩ませていた国は、なんでもいい、そこに解決策を欲しがっていた。理事長はそんな彼らにある「提案」を持ちかけた。

――悪霊を排除してみせよう。しかしその代わりに、悪霊を排除する役目を負った魔術師に、一般人と同じ待遇を。

そのときに至るまで生身の人間では無理だった。どんなに鋭利な刀でも、悪霊には太刀打ちできなかった。
そこで唯一悪霊に対抗できる魔力を持つ者からなる機構は、各国と「契約」することで、窮状から自分たちの活路を見出したのだ。
さらには魔術師がその「契約」した国の霊を排除していくことで、国から機構へ報酬金が入るようになった。それらは現地に赴く魔術師や先遣隊の生活費として支給されるという形をとっていった。

この体制が完全に整ったのが、今からまだ数十年前の話になるらしい。
だがともかくも今日、もはや以前のように魔術師が激しく迫害されたり虐げられることはなくなっていた。

(……表向きには、ね)

ウィザロや他の魔力を持つ者は知っている。
どんなに国のトップが下々へ声明を出して呼びかけようとも、どんなにその「契約」した国内から魔力を持つ者の排除運動がなくなろうとも、彼らの心の奥底にはまだ偏見の目が残っているということを。
「分かる」のだ。例え彼らが一言も語らなくとも、彼らの瞳がそう言っている。

あいつら、魔力を持ってるんだぜ。なんでも、霊を消すんだってさ。不思議な術が使えるらしい。それって私たちにも効くんでしょう? あんなやつらにどうして国は目をかけるんだ。気味が悪い。あいつら、あの力を使って俺たちを殺すかもしれないっていうのに。どこかの国では誰か犠牲になったらしい。殺されるの? 殺されるの? 嫌だ、怖いわ。そうよ、あんなの、いなければいいのに――。

人を、僕たちを殺してきたのは、魔力を持たないお前たちの方じゃないか。
何度そう思ったことか。何度あのこちらを疎外するような視線を浴び続けたきたことか。

しかしそれでも理事長が機構を立ち上げたことは画期的なことだ。それで魔力を持つ者がある程度まで救われたのも喜ぶべきことだ。
だからこそ、自分たちすべての魔術師は理事長に感謝している。それはもちろんウィザロも同じつもりだ。

だがウィザロは今、その理事長の恩を踏みにじる行動をとっている。
勝手だと言われても仕方がない。利己的だと言われても言い返すことはできない。
しかしこれだけは自身を持って言える。自分のこの行為は、決して機構への背反のつもりではないのだと。

「……分かってるよ」

唐突に、ウィザロはぽつりと呟いて顔を上げた。
傍にいたライアンは、次に言う予定だったであろう言葉を、驚いてすべて飲み込んだかのような顔をしてこちらを見た。

「大丈夫。裏切ったりなんかしない」

精一杯の笑顔を作って、ウィザロはライアンに笑みかけた。
けれどそうしてライアンの顔を見たとき、彼はどこか泣きそうな、いや、哀れんだ表情を浮かべていた。

ごめんね。すぐにそう言おうと思った。
恐らくライアンは今の言葉で理解したはずだ。"ウィザロという人間はやはり戻ってはこない"のだと、賢い彼なら勘づいたはずだ。
だからこそウィザロは謝っておきたかった。ごめんね。だがたった一言の言葉なのに、けれどどうしてかウィザロは笑んだそのまま言えなかった。

いつの間にかウィザロとライアンは広い石造りの場所に出ていた。
二人の傍を、さっきと変わらずに子供や青年、大人の魔術師が通り過ぎていく。
彼らはウィザロと同じ、胸元に赤いルビーのついたコートを纏いながら、己の仕事だけを胸にして立ち去っていく。

そうして魔術師が行き来するここは、通称「呼び出しの間」と言われる。
ウィザロが空に浮かぶ小島から機構へと足を踏み入れたとき、最初に足をつけたのもこの広間だった。

外から訪れた人間が必ずこの場所に到着するのには理由がある。
機構は魔術師の隠れ場所であり拠り所だ。その場所が一般人などに知られては、前歴もある、いつか地獄を見ることになるだろう。
ゆえに機構の独立性、閉鎖性を維持するために、伝書によって呼び出された魔術師、先遣隊は、まず機構の周囲に漂う孤島についたあと、そこから自力でこの広間まで道を繋がなくてはならなかった。
それは換言すると、機構本部への建物の入り口はここしかないということを指している。

しかし、くるのは大変でも帰るのは簡単だ。ただ外へ出ればいい。それだけで外界入りだ、しがらみはなにもない。
ウィザロは頭上に伸びる広間の吹き抜けと、広間の内部を彩る幾何学的な模様をざっと眺めたあとで、改めてライアンに向き合った。

もう自分には、ここに留まる理由がなかった。この「呼び出しの間」に着いてしまったのも運命のうちだと思った。
だからウィザロがライアンへと向き合ったのは、彼にさよならを言うためだった。

ウィザロは未だに哀しげな表情のライアンに対してゆっくり口を開きかけた。
だがそのときだった。身体を震わせるような凄まじい冷気を感じたウィザロは、今の今まで忘れかけていた感覚にはっと目を見開いた。

「なんか……変じゃないか?」

ざわざわと、広いはずの空間が伸縮を繰り返しながら揺れていく。
ウィザロと同時にライアンも異変に気づいたらしく、途端に真剣な顔つきになって辺りを見回した。

ウィザロは素早く視線だけを左右に動かした。
左でもない。右でもない。上か? 違う。下か? 違う、下にも「いない」――!
早く、早く探せ。頭の中で叫ぶもう一人の自分に掻き立てられて、ウィザロは神経を研ぎ澄ませる。しかし次の瞬間、ウィザロはすぐに目標を見つけてぱっと顔を上げた。

ウィザロの視線を追って、ライアンも顔をそちらに向ける。
探していたものは呆気ないと思えるほど簡単に姿を現して、ウィザロの正面に、ライアンの背後でもあるそこに「いた」。
毎秒夥しい量の冷気を体中から噴出させながら、綺麗な石造りの広間のほぼ真ん中に、先程まではなかった黒く丸い巨体が居座っていた。

「S級だ! なんでここに……!」

背後を勢いよく振り返ったライアンが声を張り上げる。
その声を聞いて振り返った魔術師たちは瞬時に顔を真っ青にして、ある者は逃げようとして尻餅をついたまま怯え震えた。

悪霊にも派遣される地区同様にランクがある。
いや、派遣される地区についているランクは主にそこに出現しやすい悪霊のランクに基いたものだから、悪霊のランクがあってこその派遣地区ランクだと言うべきだろうか。

ともかくも、今までウィザロが派遣されていたのはBランク地区。ここは悪霊になる一歩手前の霊と、悪霊になったばかりくらいの霊が現れる、比較的扱いやすい悪霊が出現する傾向がある地区だ。
一方ライアンが派遣されていたのはAランク地区。ここは常に完全体の悪霊を相手にする。そのために先遣隊であっても魔術師であっても、優秀な成績を修めた者しか担当を任されない。それは、例え未熟な魔術師がAランク地区に行ったところで命を落とすしかないからである。
またその他に、悪霊になる前の霊が大部分を占める、先遣隊、魔術師にとっての訓練地であるCランク地区というものがある。しかしS級の悪霊となると話は別だ。

S級の悪霊は、Aランク地区に現れる完全体の悪霊のさらに上を行く。
かつてウィザロは霊から悪霊になった青年を相手にしたことがあった。あのとき彼は悪霊になっても人間の体を保っていた。だがあれは、まだ他の生命を食べていないからなのだ。

自分以外の生命体を悪霊が食べた途端、その姿は異形のものになる。
なにせAランク地区に出現する悪霊は、「黒い個体」だ。
もはや人の姿をしていない。その姿は譬えるならば大きい蜘蛛の胴体を連想させる真っ黒な姿に変わり、顔と思われる部分には縦に開いた巨大な目玉が一つだけ、それと左右に大きく裂けた口が張りついている。

S級の悪霊は、それらAランクの悪霊の五倍から十倍の大きさと質量を持って、しかも地区を無視して潜在しているのだ。
Aランクでありながらも、魔術師から逃げて身を潜め続けてひたすら他の生命を食してきた悪霊だけがこの最終形態をとってS級となる。数は決して多くはないが、出会ったら最後、己の命はない。

「誰か、師範代を! 師範代を呼んでくるんだ!」

S級には普通の冥界送付の呪文、「送還マヴェラ」は効かない。
S級に対抗するにはS級に特化した冥界送付の呪文が必要だ。しかし、普通の冥界送付の呪文であっても、魔術師には多大な精神力と熟練した技術とが要求される。
ゆえにS級に対処するための冥界送付の呪文を扱うことができるのは、言うまでもない、機構の生徒でも上にいるほんの一握りの人材か、もしくはアベルのような師範代と理事長くらいだ。
そんなわけだから、少なくともこの広間にいる魔術師は誰一人としてこのS級に対応できないことは明確であった。

――喰われる。

この広間に居合わせた魔術師が、吹き抜けを埋め尽くしそうなほど巨大な悪霊の姿を呆然と見上げながら、ウィザロも含めてそう直感した。
そしてその直後だった。悪霊のたった一つしかない、けれど大きく剥かれた目が、ウィザロとライアンの方を、ぎょろりと不気味なまでに素早い所作で見下ろしてきたのは。













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2009/07/11