誰にも理解されなくていい。

いや、正しくは「他人には理解できない」と言った方が適当だろうか。
だがそのどちらにしろ、ずっとずっとそう思っていたのは確かなことだった。そしてその想いはこれからも永遠に変わらないはずだった。

自分のことをすべて誰かに理解してもらうなど、そんなことはあまりにもおぞましくて想像しただけで嫌になる。
だから一人でいいと思った。頭を抱えて一晩中悩むのも、闇の中で声を殺して隠れて泣くのも、一人きりでいい。









小さな魔術師  -第三話









ウィザロは見上げたそのままの姿勢を保ちながら、感覚だけでそろりと辺りを窺った。
これほどまでに魔力を凝縮した空間を自分は知らない。これほどまでに魔力が堂々としていられる空間を自分は知らない。
ゆえに、「異様」なのだ。なんの捻りもない一言で片づけてしまうのなら、この理事長室という場所はまったくの「異様」なのだ。

まるでこの世界というものをそこに凝縮したかの如く、様々な色形をしたミニチュアの天体とみられる球体模型が、天井近くで幾重もの輪を描いて回っている。
それらは不思議と動力をもってはいないようで、ただ滑らかにある一点を基点として巡り回るだけだった。
その一点とは、それら天体たちの中央にあるのは、尚もゆったりと浮遊し続ける一枚の横長の大判の紙と、そんなに高い場所の椅子に腰かけてどうしようというのか、先程からそこに座したきり微動だにしない初老の男である。

彼が着ているものは隣に立つアベルとほとんど変わらない。言い換えれば、魔術師を連想させる要素はどこにもない。
生成りのシャツとそこに強引に捻じ込んだかのようなネクタイ、それと少々くたびれた紺のパンツは、やはりアベルと同様どこかの大学の教授に見えた。

「……さて、と」

最初の発言から数秒経ったあと、彼はゆるりと身体の向きをこちらに変えた。

「恐らくは初めまして、かな? わたしが一応この機構の理事長だよ。オルコット君」

いっそ見上げすぎて首が痛くなるような遙か高みから、顔を皺くちゃにして笑む彼の顔はいかにも優しげな印象を与える。
それでもウィザロが引き締めた唇を緩めようとはしなかったためか、そこで彼は困ったような顔をすると徐に苦笑した。

「ウィザロ・オルコット、ウィザロ・オルコット……」

理事長と名乗った彼がぶつぶつと呟きながら人差し指をすっと宙に滑らせると、途端に背後にずらりとはめ込まれていた本棚から一冊の分厚い本が躍り出た。
彼の手元までやってきたそれはぱらぱらと独りでにページを捲り始めたが、ある箇所に来るなりぴたりと止まった。

「ふむ。君が機構に入ったのは五歳のときか。ということは今は十歳なのかな? ええと出身は……ああ、『ブノワ』か」

ブノワ、という国名を口にした途端に彼の瞳が一気に曇った。
しかし次の項目を読み始めたとき、彼の顔からその表情は跡形もなく消え失せていた。

「一年の成績は……ほう驚いたな、主席じゃないか。偉いな。しかし三年から五年まで、結構落ちたな。うむ、やはり高等魔術は会得しがたかったかな?」

またもこちらに向けられた好意的な笑みを、ウィザロは真顔で受け止めた。
そこでようやくウィザロがここに呼び出された真意を理解していると悟ったのか、彼は数回頷くと急に真面目な顔つきになった。

「では、本題に入ろう」

しわがれた声が怖いくらいの響きを伴って天から降り落ちてくる。
ぎい、と、彼が座り直すと同時に、ゆっくり鈍い音をたてて彼の座っている椅子が軋む。

「……どう言うわけか、君が霊に接触したとみられるすぐあとに、その霊が消息を絶っているようでね」

そこで彼は言葉を切ると、己の周囲に広げられていた古く大きな地図に目をやってから、意味ありげにこちらを見た。

「この地図は各地に散らばっている我が機構の生徒の足取りを示す。もちろん、君の行動もだ」

地図上には、よく目を凝らしてみれば、いくつもの黒い点が散らばっていた。
それは首都や都市のあるべきところにはない。「契約」している国の至るところにそれらの点は散らばっていて、しかも微妙にだが動いている。
そしてそれらの点の近くには、ありとあらゆる名前が浮き出るような形で記されていた。

初めて目にする「自分たちの居場所を示すという地図」を漠然と眺めていたウィザロは、それら黒い点の中に、ぽつりぽつりと白く発光する点が含まれていることに気づいた。
それは瞬く間に数個の黒い点に囲まれたかと思うと、しゅうと、煙が消えるような呆気なさで消滅していく。

「君はどうやらBランク地区に配属されているようだが、確かに、君はBランク地区内で動き回っている。しかし霊について、となると話は別だ。君は確かに霊を見つけている。だが『魔術師』がそこに到着した様子は見られない。それなのにすぐに霊はそこから消える。――これがどう言うことか、分かるね?」

彼の穏やかだった瞳の奥が鋭く光った。そして彼は、暗にこちらを責めているような物言いで言った。

「君はまだ『先遣隊』ではなかったかな?」

――きた。
ウィザロはやっと彼の口から紡がれた話の核に、ぎゅっと身体の横に張りつけていた拳を握り締めた。

「魔術師になる前には実地訓練が必要だ、己の命にも関わるからね。逆に霊に襲われて失敗したら次はない。そのために先遣隊という準備期間が設けられているのだと、君も知っているはずだ。そこをすっ飛ばして魔術師になった先輩は今まで誰一人としていないんだよ。わたしがこの機構を設立してから、みんな先遣隊を経て一人前の魔術師になっていった」

それは本当に淡々と、理事長という肩書きが嫌というほど似合いそうな厳格な調子で喋っていた彼は、しかしそこで一拍置くと、先程までとは打って変わって柔らかな語調で語り出した。

「確かに、先遣隊はつまらない仕事だよ。霊を発見しても魔術師の先輩を呼ばなくてはいけない。それまで待機しなくてはいけない。自分では送還できない。色々ある。けれどね、少ない時間の中で霊をより多く冥界へ送り届けるためには、霊を見つける先遣隊だって必要な存在だ。すべての歯車が噛み合って、わたしたちは生きているんだよ」

分かっている、それくらい分かっている。
世界から異端として弾かれただけでなく、その存在さえをも弾かれそうになった自分たちが互いの協力なしでは生きていけないことくらい、分かっている。

分かっているのだ。ウィザロは心の中で何回もその言葉を繰り返した。
しかし自分にはそれが分かっていてもそうせざるを得ない理由がある。頭で考えて行動しているのではなく、もはや衝動的に、これはどうにもならない。

だがウィザロはふとこのとき、彼なら自分のこの心情を察してくれるのではないかと思った。
異端とみなされ身を潜めながら逃げ続けていた魔力を持つ者を統率した理事長という人なら、この自分の考えを受け入れてくれるかもしれないという、一種の誘惑めいた考えが脳裏をよぎった。
そう自覚した瞬間から、どくんどくんと心臓が破裂寸前まで拍動し始めた。今まで己の考えを他人に漏らしたことは一度としてない。それが、余計にこの緊張を昂らせた。

分、カ、ッ、テ、モ、ラ、エ、ル、ダ、ロ、ウ、カ、?
ウィザロははっと口を開きかけて、そこで再度自分自身に問うた。

「…………すみません、でした」

しかしウィザロがやっとのことで出した声は、震えながらも違う意味を纏って口から漏れた。
それでなにかが吹っ切れたのか、次にはウィザロは静かに深々と頭を下げてさえいた。

「万が一のためにと教えられた冥界送付の言葉を偶然に使ってしまったそのときから、多分僕は思い上がっていたんだと思います。『先遣隊』の自分にも悪霊を送還できるのだと、勘違いしていました。ご迷惑をおかけしてすみません。これからはきちんと、自分の役目を果たします」

駄目だった。と言うより、無理だったのだ。
いざ彼なら理解してくれるかと思って口にしようとした途端、筆舌に尽くしがたい嫌悪感が喉の近くまで競り上がってきて、言うことができなかった。

先程の緊張はもはや身体には残っておらず、代わりに口からはするすると言葉が紡がれていく。
手本通りの謝罪の文句を口にするウィザロに、理事長である彼はなにか言いたそうな複雑な顔をした。隣に立っていたアベルも、こちらが逆に申し訳なくなるような沈痛な表情で見てきた。
だがウィザロが言い終えたそのままぷっつり黙り込んでいると、理事長は少し口籠ったあとで言った。

「……分かった。今回の件は憂慮するが、君の今後の活躍に期待するよ」
「はい」

ウィザロは元気よく返事をしてからぺこりと一礼すると、大きい鞄を持ち直して踵を返してこの部屋を出ようとした。
部屋から出る間際、アベルと目が合った。彼はただ目を細めてこくりと首を縦に振っただけだった。

ウィザロは一人で部屋を出た。背後では、理事長室の大きな扉が理事長とアベルとを残したまま轟音と共に閉まった。
これから彼らがなにを話すのかは分からない。けれどその内容は知れている。
恐らくは今後の自分の処遇といったところだろう。生活費を削られなければいいが、と、ウィザロは己の身の上よりもそちらの方が少しばかり心配になった。

しかしウィザロがそうやって考え事をしながら歩いている間に、周囲は見たことのない回廊からどこかで見たことのあるような廊下へと変化していた。人の姿も疎らではあるが見受けられるようになってきて、機構で魔術を学んでいた時期が確かに自分にもあったのだと自覚できるまでになった。
けれどやはりどこへ行くという当てなどまったくなかったので、ウィザロは適当に歩き回った。
偶然に機構の出口、呼び出された時の綺麗な石造りの広間へと辿り着いてしまった時は、それも成り行きだとみなして帰ろうとだけ思った。

伝書がないと機構への門が開けられないとは言え、出たら二度と戻ってこられないような壮絶な場所でもないのだ。
そう考えると、ここを去ることに対しての哀愁の感情はいくらか薄れてしまった。ウィザロはそれが少し空しかった。

「……ウィズ」

だが「そのまま帰る」という先刻設定した選択肢は、すぐに掻き消えた。
突然現れたその懐かしい響きに、ウィザロは思わず声の主の方をぱっと振り返った。
「ウィズ」と呼ぶのはごく親しい間柄の人間だけだ。たとえば機構の最初から仲がよかった級友や、それと、そう、両親とか――。

そしてそこにいたのは、紛れもなく親しい人間だった。
ウィザロが視線をやった先、数メートル離れた廊下の壁にもたれながら腕組みをしてこちらを見ていたのは、かつての級友の内の一人である少年だった。

同年代と比較してみても背が低い部類に入る自分と同様に、彼もまた背が低いことを異様に気にしていたという記憶がある。
しかし魔術のことになると彼の才能は天才的で、彼自身が有名な魔術師の家系に生まれたサラブレッドだということもあるのだろうが、ウィザロが首席の座についていた時期を除けば、彼はほとんど主席の地位を不動のものにしていた。
そしてそれは言わずもがな「先遣隊」として派遣される地区のランクにも影響するわけで――。

数ヶ月前に別れたときとこれっぽちも変わらない黒い髪と、同じく黒の釣り上がった瞳が無機質にこちらを向いている。
そんな彼の出現に一旦驚いたウィザロは、しかしすぐに頬を緩めてふっと笑んでみせた。













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2009/06/21