小さな魔術師 -第二話 ウィザロの身体は消えたときの映像を逆再生するような形でそこに現れた。 周囲の風景は、崖際の青々と茂った草の上から、綺麗に磨かれた石で整備されている広間へと変わっていた。 魔術による到着の影響で落ちかけた三角帽子を、よっ、と、慌てて手で押さえる。 そのままの動作でウィザロは天を仰いだ。すると聖堂の吹き抜けのような荘厳な光景が目に入った。 どれくらいの広さがあるのだろうか、文字通り広々としているこの広間は、隅から隅まで幾何学的な模様で彩られている。 それは一見すると、本当にここだけ別の世界ではないかという錯覚にとらわれそうなほどだった。 しかしこれほど広いというのにウィザロのようにこの場に現れるものはあまりなく、どちらかと言うと、どこからか来たものが同じく魔術を使いこの場から消えていく、というパターンの方が多い。 ウィザロが背後を振り返ってみれば、広間の出入り口は大きく開放されていて、そこから空の青がよく見えた。 さっきまで自分がいた崖の孤島が、そんな青の中にちらちらと浮かんでいるのが見える。 ――同じだ。 しかしウィザロは自分のこの境遇を気にすることもなく、周囲の光景を一通り眺めたあとでそう思った。 それは寒気を感じるくらい同じだった。今の自分を取り巻く環境は、ウィザロがこの場をあとにした数ヶ月前とまったくと言っていいほど変わっていなかった。 あたりにちらほらいる自分と同じ服装に身を包んだ者は、誰ひとりとして己が「魔術師」であることをこの場では疑わない。 その感覚がどこか懐かしくもあり、けれどどこか、ここ数ヶ月で社会に慣れてしまった自分が異端であるような気がした。 「ウィザロ」 それは本当になんの前触れもなく、自分の名を呼ぶ低い声が背中の向こうから聞こえてきた。 無意識のうちにウィザロはゆっくりと振り返る。そしてその声の主が誰なのかを認めるや否や、ウィザロの胸にはいっぱいの懐かしさが込み上げてきた。 「今日は、アベル先生。お久しぶりです」 ウィザロが明るく返事をすると、いつの間にかウィザロの背後に立っていた中年の男はふっと笑んだ。 ひょろりとした体躯に、いかにも真面目さを欠くことのないシャツを着込んでいる彼は、一見するとどこかの大学の教授に見える。 しかし彼は大学の教授などではない。少しニュアンスが違うが、今しがたウィザロにアベル先生と呼ばれたこの男、アベル・ジョンソンは、ここ「魔術師養成機構」の教師の一人だった。そして同時に、彼はウィザロがこの場で学んでいたときの担任でもあった。 アベルは一回ざっとウィザロの頭のてっぺんから爪先までを見ると、徐に口を開いた。 「変わっていないな。いや、変わった、と言った方がよかったかな?」 「僕はどっちでも大丈夫です」 ウィザロが冗談めかしてそう言うとアベルも笑った。 まるで今まで普通に授業をしていて、その延長で会話をしているといった感覚だった。逆にウィザロにはそれが新鮮に感じられた。 それからいくつか他愛もないことを話したあとでアベルが踵を返して建物の奥へと歩き出したのを、ウィザロも追って歩いた。 数ヶ月前には自分の庭のようなものだった機構の中が、どことなく他人の顔をしてウィザロを出迎えた。 「――実は、理事長が君の動きに少し疑問があるみたいでね」 歩いてしばらく沈黙が続いたあとで躊躇いがちに紡がれたアベルの言葉に、ウィザロはぴくりと反応した。 「理事長……ですか」 「今回君を機構に呼び戻したのはそういうことなんだ。でも捕って食おうと言うわけではないから、あまり心配しないでいい」 愛想よくこくりと頷きながら、しかしウィザロは心の奥で首を傾げた。 捕って食おうが食われまいが、ウィザロはそもそもこの機構の理事長と言うその人を見たことがなかった。 ウィザロが知る限り、理事長は生徒の前に姿を晒したことがない。それゆえに周囲には色々な噂が飛び交っている。 本当は理事長などいないのではないか。もしかしたら生徒の中に理事長が紛れ込んでいて、こっそり成績をつけているとか。いや、理事長は単にひきこもりなのだ――など、その噂は多岐にわたる。 しかし今のアベルの言葉から推測するに、理事長という人は実在していて、しかもやや攻撃的なのかもしれない。 だがウィザロは、理事長がどんな人であれ気圧されまいという決心を既に心の中で固めていた。 これから聞かれるであろうことは、理事長という魔術師の最高権威でさえおおよそ理解できないことだ。 これは自分にしか分からない。他の誰にも、自分が背負うこの想いは分からない。 「ウィザロ。それで確認までに聞いておきたいんだが、君は今どの『ランク』に配属だったかな?」 ふと思い出したように紡がれたアベルの声が、下を向いていたウィザロの顔を上げさせた。 アベルの奇妙に強調された言葉に、ウィザロは一拍置いてから静かに答えた。 「……Bランク地区です」 「そうか、そうだな。ありがとう」 間違いない。と、ウィザロは確信した。 アベルはそれきり黙った、その姿を、ウィザロはちらと横目で窺った。 今のアベルの言葉で事がはっきりした。理事長に直々に呼び出されてしまったのは、先ほど自分が考えていたことでほぼ相違ない。 アベルは足を止めることなく、ウィザロの前を早足で進んでいく。 いつの間にかアベルのあとを追うウィザロは、今まで見たことのない回廊に入っていると気づいた。そうしてまた数分を漠然と歩いたところで、アベルとウィザロの前には大きな扉が立ちはだかった。 それはどんな巨人でさえこの扉があれば十分すぎるだろうというくらいの両開きの扉で、もちろんウィザロには余りあるほどだった。 アベルが扉の前に手を翳す。すると扉はゆっくりながらも独りでに開いていった。 真ん中で綺麗に開かれた扉の隙間から徐々に部屋の内部が現れる。 そして扉が完全に左右に開ききって静止したとき、ウィザロは目を丸く見開いていた。 恐らくはここが理事長室なのだろう。しかしこの機構で何年も見てきたどんな部屋よりもこの空間は「異様」で、そのためにウィザロは一瞬我を忘れてしまった。 「ウィザロ・オルコットが到着しました、理事長」 穏やかな口調のアベルの声が、頭上から降ってくる。 「……ああ、やっと来たかね。ウィザロ・オルコット君」 理事長室は扉以上の大きさと空間を有していた。 しかし壁がすべて本棚になって、そこに何千何万もの書物が所狭しと並んでいるのに、広々とした部屋の中にはこれといった調度品は見当たらない。 ただ目につくものと言えば、部屋の中央にしっかりと居座っている一本の太い銀のパイプだけだった。 ウィザロはその銀のパイプを下からずっと目で追っていって上まで眺める。 すると遙か上方で、そこに何かがあることに気がついた。 広間に勝るとも劣るともない吹き抜けのような天井近くで、一枚の大きな紙が広げられて空を浮遊している。 そしてその紙を眺めている、たった今自分の名を呼んだ人間が、銀のパイプの上端に備え付けられているゆったりとした椅子に腰かけていた。 くすんだ眼鏡をかけている老人のようなその人は、ウィザロが目をやると同時にウィザロの方に視線を移した。 この人がこの魔術師養成機構においての権力者、理事長だ。 そうと分かった途端、ウィザロは呆けていた頭がはっとして目覚めるのが分かった。 BACK/TOP/NEXT 2009/04/25 |