小さな魔術師 -第一話 まずいな、とウィザロは思った。 早く撒かなくては追いつかれる。そのために、ウィザロは周囲の人混みに紛れながら、できるだけ気配を隠して早足で歩き続けた。 街の大通りを歩くどんな大人も子どもも、誰もウィザロの存在には気づいていない。しかし"あれ"だけは、自分を見失うことなく追ってくる。 それでもウィザロは足を止めようとはしなかった。風のように人の波の間をすりぬけて、誰にも悟られないように。 (……まいったなあ……) "後をつけられている。" ウィザロが初めてその事実に気づいたのは数ヶ月前、戦争で散ったある青年の霊と関わっていたときだった。 その日からだった。どんな細い道を急に曲がったとしても、死角に入るようにして先を進んだとしても、執拗な尾行は続いて絶えることはない。 目をつけられたのかもしれなかった。 確かに今までの自分の行動からして、「上」が勘づかないと言う方がおかしいとは思う。 だがそれでもウィザロは悟られないように行動していたつもりだった。それなのにばれてしまったのは、感知した方も「同胞」であるからだ。 ウィザロはしばらく歩くと、ふうと短く溜め息をついた。数ヶ月も逃げ回ったからだろうか、そろそろ疲れてきた。 引き際だ。ウィザロはようやくのことで観念すると、人混みの間をすり抜けて大通りに面していた細い小道に入った。 小道の両脇にはくすんだ赤茶色をしたレンガ造りの壁がどこまでも続いている。そこは人気はなく、ひっそりとしていた。 ウィザロはその道をいくらか進むと決めていたようにぴたりと足を止め、緩慢な動作で天を仰ぐ。 細い路地から見上げる細い青空の中には今、一羽の白い小さな鳥がウィザロの頭上を悠々と旋回していた。 間違いない、と、ウィザロは改めてその白い小鳥を凝視して思った。あれは機構からの伝書鳥だ。 白い小鳥はウィザロが見上げると同時に旋回をやめてゆるりと下降する。 そうして優雅にウィザロの手元までやってくると、忠告でもしようというのか、嘴を二、三回ぱくぱくとさせてみせた。 「……お達しですか」 ウィザロは苦笑混じりの溜め息と共に呟くと、人差し指をすっと小鳥の方へ差し出した。 ちょんと指先にとまった小鳥は我関せずという顔をして甲高い声でチチチと囀る。そしてみじろぎしたかと思えば、くるりと身を翻した。 たった今まで小鳥の姿をしていたものは、この一瞬でまるで別のものへと変化していた。 ウィザロの手には一枚の真っ白な紙が握られている。その紙には、「ウィザロ・オルコット。至急、機構まで戻るように」とだけ書いてあった。 「了解」 ウィザロが目を通し終わると、紙は独りでにウィザロの手の中から滑り落ちた。 すると滑り落ちたそのままの動きでウィザロの目の前で滞空するかのごとく浮いて、紙の中心部からは、まるで向こうから強烈な照明で照らし出しているかのような金色が溢れ出した。 ウィザロはその光へと腕を伸ばす。すると紙の中にずぶずぶと腕が引き込まれていった。 腕だけではない。光が溢れると同時になぜかウィザロの背丈ほども大きくなった白い紙は、ウィザロの身体そのものをも引きずり込んだ。 周囲が金色の光でいっぱいに満たされている。その中でウィザロはふと閉じた目蓋をゆっくりと持ち上げた。 すると辺りに広がっていた金色は、ウィザロの視線から逃げるようにして呆気なく消えてしまった。 しかし代わりに、ウィザロの瞳には三六〇度の青空のパノラマが映った。そしてその青空の中には、地面ごと強引にえぐったかのような大きな島が浮いていた。 懐かしい匂いのする風が頬を撫でる。 ウィザロは一瞬遅れて着いた先がどこだかを理解すると、ふっと微笑んだ。 「三ヶ月ぶり……だね」 普通の人間は決して立ち入ることのできない場所。魔術師でさえも伝書がないと帰ってはこれない場所。 それが、魔術師が外界に出ていくまでに魔術師のなんたるかを教わる「魔術師養成機構」の通り名だ。 ウィザロが立つ場所は、閑散とした街の細い路地から、青空の中にあるかなり高い場所の崖際へと移っていた。 だがウィザロはその変化に驚くこともなく、ただ漠然と、一つの街がすっぽり入ってしまうのではないかとも思わせる空中に浮かぶ大きな島を見つめた。 ウィザロが今立っている場所からあの空中島まで数キロはあると考えてもいいだろう。 そんな場所から眺める島は、ときおり風に乗って流れてくる雲と戯れながらもどっしりとした風格で微動だにせず浮いている。その中には荘厳な建築物がちらほらと見えた。恐らく、あの島には数年前の自分と同じく大勢の魔術師が今も生活している。 島の遙か下は一面が雲で覆われていて、ウィザロでさえも未だにそこに海があるのか陸があるのかは知らなかった。 なんの障害物もない大空の中を風が勢いよく通り抜けていく。 周囲にはウィザロが立つ崖と同じような崖の小島がいくつも浮いている、が、見渡す限りどれにも魔術師の姿は見受けられない。 (……困ったなあ) あと数年はここに来るまいと思っていた。それまでなんとかして生きていく自信もあった。 しかし呼び出しは絶対だ。逆らいでもしたら今後の生活費の支給が危ぶまれる、そんな危険は冒したくはない。 ウィザロはしばらくしてから静かに右手の指をぱちんと弾く。 すると身体はか細い煙のように風に溶けていき、数秒ともしないうちにウィザロの姿は崖際から消えた。 BACK/TOP/NEXT 2009/03/15 |