陽気な戦士  -第七話









崖に打ちつける潮騒が耳にまとわりつく。
ウィザロは海が一望できる断崖絶壁の上に立ち、自然が太古の姿のまま残る雄大な土地を見渡した。
やや北に位置する「ラングニック」という海に面した長閑な国は、今は冬へと移り変わる支度をしていた。

正面からいっぱいに吹きつけてくる爽やかな海の匂いが身体を満たす。
ウィザロはこの情景とこの国に着いたときを思い出して、なかなかにいい国だなと思った。
ラングニック国にはどこもかしこも人々の笑顔で溢れていた。彼が故郷に帰りたがっていた理由が分かるような気がした。

(見えますか?)

この広い空のどこかから祖国を見下ろしているであろう彼に問いかけた。
すると頭上を悠々と飛んでいた小鳥がタイミングよく鳴いたので、なんだか驚いて可笑しくて、ウィザロは胸元で笑いを噛み殺した。

(故郷に、戻ってきましたよ)

彼が死してからもなお戻りたがっていた故郷、彼が命を懸けるまでに愛した祖国。
ヴィルヘルムと名乗った青年は家族のため国のために戦った。けれどそれでも心だけは、死に切れなかった。
だがきっとそれでいいのだと、ウィザロは海から吹きつけてくる冷たい風を一身に受けながら考えた。

彼らの魂をこの国に連れてくることができたのかは分からない。
魔術師は魔法や呪文で彼らを「冥界へ送る」、もっと簡潔に言えば彼らの霊としての存在を「消す」ことしかできないのだ。そんなカミサマじみたことなど、どんなに偉大な魔術師であっても成し遂げるのは無理だろう。
ただウィザロがすっと海を抱くように手を宙に向かっていっぱいに差し伸べたとき、自分の身体からなにか放たれるものがあった気がした。

遺恨を残して死んだ戦士たちの魂が安らかに眠ればいい。
そうして人間であったことなど忘れて、みんな仲良く身体を寄せ合えればいい。

「見えますか?」

なんの意味もない。ウィザロは空を見上げてただそう言った。
途端に風の向きが逆になって、今まで陸へ押しやっていたウィザロの身体を今度は海へ海へと押し出そうとする。

そのとき、誰がそうしたのかは今になってもよく分からない。
だがウィザロがそうやって風に吹かれながら海を眺めていたとき、ふと背後から、あるはずのない誰かの大きな手が頭の上にぽんと置かれた。
ウィザロは驚いて振り返る。しかし傍には誰もおらず、ただそれでもいつの間にかひとりの少女が背後に立っていた。彼女は数メートル離れた、比較的崖から遠ざかった場所からこちらを真剣な顔をして見ていた。

彼女も逃げるのだろうか。ウィザロは背後を振り返ったそのまま少女を見つめて考えた。
ウィザロはその独特な魔術師の服装の所為か、大人ばかりではなく小さい子供にも必ず遠巻きにされる。だからそんなことを考えたのも当然と言えば当然のことだった。
しかしウィザロの意に反して、少女は逃げるどころか逆にこちらに身を乗り出すと勢い口を開いた。

「あの、魔術師……ですよね?」

自分よりいくつか年上の、十五、六歳くらいの少女は、鈴を転がしたような可憐な声でそう問うた。
ウィザロがこくんと小さく頷くと、彼女は嬉しそうにぱあっと表情を明るくさせた。

「私、ベッティーナ、ベッティーナ・イェニーと言います。さっきあなたが食堂に入っていったのを見かけてもしかしたらと思って。それで、えっと、実はずっと魔術師の方にお願いしたいことがあって……」

もしかしたら彼女はずっとこの国を訪れる魔術師に話しかけようとしていたのかもしれない。
しかし魔術師は分刻みで場所を転々とする。話からして彼女は今まで魔術師を掴まえることができなかったのだろう。
ベッティーナと名乗った少女は、恐る恐るちらと顔を上げると、そのままじっとウィザロの顔を凝視した。

「魔術師って、魔力が使えるんですよね? 不思議なことができるんですよね?」
「はあ、まあ……」

そう勘違いする人もたまにいるが、できるのは本当に些細なことだけだ。ウィザロが思う魔術師は、普通の人間にプラスアルファ、くらいの感覚でいる。
しかしウィザロの鈍い反応に不安を感じたのか、少女は慌ててつけ足した。

「もちろんお礼は必ずします! ……けど、でもあの、ちょっと難しいかもしれなくて」

ベッティーナはさっと顔を伏せると、言い出しにくそうに身体の前で両手を合わせた。

「私には寝たきりの祖母がいるんですが、その祖母が最近うわ言のようにいつも同じことを呟くんです。実は祖母には兄がいて、でも何十年も昔に戦に行ったまま帰ってこなくて、それでも祖母は何故かその兄に謝りたいって、そればかり言うんです」

そこで一旦言葉を切ると、少し躊躇ってから、ベッティーナはいっそうウィザロの方に身を乗り出した。

「あの、死んだ人に会わせてあげられることってできますか!?」

また真顔でなんてことを言ってくれるのだろうこの少女は。
普通の人間ならこの時点で首を横に振ることは間違いないだろう。しかしそれは魔術師も「半分」似たようなものである。
ウィザロはしばらく黙り込んでから、唐突にふっと笑みを漏らした。

「……あなたは、おばあさんが好きなんですね」
「えっ? え、ええ、はい。祖母はとても優しくて、昔からいっぱい可愛がってくれて。それで私もできるかぎり恩返しをしたいんです。祖母の願いを、叶えたいんです」

風が止んで、そしてまた強く辺りに吹き荒れた。
ウィザロは目だけを動かして空を見た。青い空の中で一羽の小さい白い鳥が、さっきからウィザロの頭上を飛び回っている。

「あなたのおばあさんに伝えてもらえますか?」

ウィザロは足元に立てかけていた大きい鞄をよっこらせと持ち上げながら、今までとは比べ物にならないくらい明るい声でベッティーナに言う。
するとベッティーナは期待の眼差しでこちらを改めて見て、何度も何度も強く頷いた。

「今夜、いい夢を」

ウィザロがそれしか言わなかったので、二人の間にはその一言の後でかなり長い沈黙が流れた。
ようやく事の次第が飲み込めてきた頃には、ぽかんと、ベッティーナは期待通りのリアクションで返してくれた。

「……あ、あのっ?」
「ごめんなさい。ちょっとこれから大事な用事があるので、失礼します」

慌てて引きとめようとするベッティーナが崖に一歩踏み出してくるその前に、ウィザロはすっと右手を真横に翳すと彼女に向かって微笑んだ。

「さようなら」

ぱちんと、伸ばした右手の指を鳴らした。と同時にウィザロの身体は爪先からするりと風に溶けて消え始めた。
今にもこちらに駆け寄ってきそうだったベッティーナは、そこで驚いたように足を止めた。

これが魔術師なのだ。一般人とは区別されて生きる道さえ生まれた時から違う、これが世間から弾かれた魔術師という人間だ。
もう二度と魔術師とは関わってはいけない。それを、彼ら魔力を持たない人間には示しておかなくてはいけない。
またあの悲惨な歴史が繰り返されることのないように。

ベッティーナはどうしたらいいか分からないという複雑な表情で、消え行くウィザロを見送った。
ウィザロはそんな彼女に心の中で言った。もし僕が魔力を持たずに生まれたのなら、あなたと仲良くできたのかもしれませんね。

魔術師にはどこへ行くというあてなどない。ただ気配に導かれるまま進むしかない。
魔力を持つ者に残されたのは悪霊を冥界へ導くと言う、この一本の道だけなのだ。
そうしてウィザロは、崖の傍に呆然と立ち尽くす少女の前から忽然と姿を消した。







不思議な夢を見た。
どこか白い場所に立っていた。そこは白づくめの場所で、とても心地いい場所だった。

そこに立っているのは自分のはずなのに、他人が自分を眺めているように外から自分を見ることができた。
最近どんどん老いてきた身体は、何故か何十年も前の、若々しくてみずみずしい身体に変わっている。
結婚する前くらいの自分だろうか。これなら町中を駆け回っても疲れを感じなさそうだ、と思った。

彼女は目を見開いた。視点がいつの間にか自分の身体の方に移っていた。
数メートル離れた場所に誰かが立っていた。こちらを見ているその瞳に覚えがあった。
そして彼女は気づいた。視点がくるくる変わるこれは、夢なのだと。

(お兄様……?)

戦に出征したまま戻ってこなかった兄、ヴィルヘルムが、出て行ったときと同じ顔、同じ軍の服を身に纏ったまま目の前に立っていた。
彼女は信じられない気持ちで、それでもゆっくりと歩み寄った。
彼の存在を確かめるためにそっと手を伸ばすとちゃんとそこに身体はあった。途端にどうしようもなく泣きたくなって、彼女は気づけば彼の胸に顔を埋めていた。

ああ、甘えられる家族に触れたのは何年ぶりなのだろう。
両親は何十年も前に死んで、親族の中でも自分は「他人から甘えられる」位置へと移っていった。

あのねお兄様、わたし結婚したのよ。
それでね、子供も二人できたのよ。やんちゃな男の子と人見知りの激しい女の子とひとりずつ。
あとね、孫もいるのよ。いつもわたしの世話をしてくれるの、とてもいい子たちなのよ。

言いたいことが山ほどあって、そのために早口で告げるとヴィルヘルムは優しく笑った。それから柔らかく抱き締められる。
昔、悪戯をして親に叱られたとき、いつも自分をからかって遊んでばかりいるヴィルヘルムはこうやって慰めてくれた。

「オニイサマはちょっと一足先に『あっち』に行ってるけど、お前はまだまだだもんなあ」

その一言が自分でも不思議なくらいすっと受け入れられた。
いや、きっとどこかでそう思っていたのだろう。
出征した兄が終戦を迎えても帰ってこないのは、彼が戦の中で命を散らしたからなのではないかと、心のどこかでもう分かっていたからなのかもしれない。

「あら、そうなの? 連絡がないから、お父様とお母様もずっと心配してたのよ」
「悪い悪い」

これっぽちも悪びれたようすを見せないヴィルヘルムの謝り方に、なぜかほっとする。
本当にヴィルヘルムが故郷へ帰ってきたのだと、彼のその言葉態度すべてから滲み出てくるようだった。
遺品でもなく遺書でもなく、それでも身体ではないけれど、父母の眠るこの大地に彼の魂が帰ってきた。けれどそれだけでよかった。

「……たっぷり眠れそうだよ」

ヴィルヘルムのその言葉が別れの前兆なのだと、彼女は気づいた。
心なしか周囲の風景が色褪せていく。空間を一部の空きもなく満たしていた白色が、次第に灰色へと変わっていく。
彼女は哀しみを辛うじて抑え込んで、代わりにいっそう強くヴィルヘルムに抱きついた。

「おやすみなさい、お兄様。お父様とお母様にもよろしく伝えておいて下さる?」
「ん、分かった。……おやすみ」

ぐしゃぐしゃと、子供を相手にするかのように髪を掻き回されて、それでも不思議と腹は立たなかった。
ああ、どうして小さいときはあんなに仲が悪かったのだろう。
毎日毎日飽きることもなく喧嘩ばかりして、お前は口より先に手が出ると指摘されてその言葉通りにしてやったり、おやつを巡っては軽く掴み合い殴り合いの騒動に発展したりもした。

自分が十二歳の時、彼は十八歳だった。
ちょうどそのとき、自分たちの国は戦争の最中にあった。
父は右足が上手く動かせないからか分からないが、ヴィルヘルムは戦争要員として出征することになった。その通知が家に来たとき、両親は一晩中顔を覆って泣いた。

自分は泣けなかった。戦争と言われても分からなかった。
だって自分の町は平和だった。食糧制限はかかったが、空は青かったし草は暖かかったし、鉄の弾が飛んでくる光景を見たことはなかった。

――せめていい結婚相手が見つかるようなおしとやかーな女になれよな。

家を出る最後の最後まで憎まれ口を叩く兄だった。
それで腹が立って、バカ、と言って、でもそれが、最後の言葉になってしまった。

ずっと気がかりだった。帰ってこないのは、自分のあの最後の一言の所為なのだと責めた。
だから、いつか彼が帰ってくる日があるのなら言いたいことがあった。
恥ずかしいとか、そんなことはもうどうでも良かった。ここで機を逃したら、もう二度と言えなくなってしまう。

「お兄様はバカじゃないわ。わたしの自慢の、世界一のお兄様よ」

消え行く感覚を必死に掴みながら、彼女は言った。
別の世界へと消えかけていたヴィルヘルムに聞こえたかどうかは分からない。でも、白い光の向こうのヴィルヘルムの泣きそうな顔を見たとき、伝えられたのだと思った。
本当よ。無理矢理お兄様を連れて世界を回って、自慢してもいいくらいなのよ。彼女は白い光に向かって叫んでいた。

「おばあさま?」

何故か目の前には不安そうにする幼い少女の顔がある。
彼女は思わず数回ゆっくりと瞬きして、それからややあって、ああ、と気づいた。

「……ベッティ」

いつの間にか夢は終わって、彼女の身体と意識は現実の世界に戻っていた。
夢から目覚めたばかりの彼女は、ベッドの横からこちらを覗き込んでくる孫の顔を見るなり、ふふと薄く笑った。
すると孫のベッティーナは眉をひそめて、なぜ目覚めた途端に笑うのかわけが分からないとでもいう風に小首を傾げた。

やはり今のは夢だったのか。しかし、どうして今頃になって見たのだろう。
昔は何度兄に会いたいと願っても、兄と遊ぶ夢をどんなに見たいと切望しても見れなかったというのに。
彼女は布団の下の重たい右腕を持ち上げた。あの夢の中での若返った感触が、まだじんわりと残っているようだった。

「おばあさま、あのね」
「お兄様に夢の中で会ったのよ」

今にも泣き出しそうだったベッティーナは、そこではたと表情を止めた。

「会ったの。本当に。お兄様なのよ。ええ、不思議なこともあるのね……」

その一言にベッティーナがはっとした表情で息を呑んでいた。
だがそのとき、夢に陶酔していた彼女は気づかなかった。

彼女は夢の残滓をそっと胸にしまうために目蓋を閉じた。
するとどこからかまたうつらうつらと眠気が誘ってきた。抗う必要もなく、彼女は再度眠りに落ちた。
何十年も前の記憶の中のヴィルヘルムの意地悪な笑顔が、さっきの夢のせいだろうか、古びたフィルムを感じさせる色で蘇ってきた。

お兄様、お兄様、もう寝てしまったのかしら。
でも大丈夫よ。お兄様の傍にはきっと、お父様とお母様が寄り添っていてくれる。それであと何年かしたら、わたしもそこに行くのだから。
だからね、もう、一人にならないで下さいね、お兄様。













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2008/08/09