陽気な戦士  -第六話









いつの間にか朝になったらしい。
窓辺からは眩いばかりの陽光が差し込み、どこからかちゅんちゅんと小鳥の小さな囀りさえ聞こえてくる。
平和すぎるそんな中で、アレグラはぼうっと木製のカウンターに肘をつきながら天井を漠然と眺めていた。

ぐるぐると頭の回転が著しく遅い。はて、どうしたことだろう。
そこまで考えて、そうだ、これは例の魔術師の所為だと、今夜から今朝にかけての一騒動を思い出して納得した。

「ありがとうございました」

いきなり現れた明るい声と共に、かちゃり、とくすんだ銀色の鍵がカウンターに差し出されて、アレグラは視線を天井からカウンターの前に移した。
そこには今まさに考えていた「例の魔術師」である少年が、こちらを見上げてにっこりと笑んでいた。
アレグラは本当に口から心臓が飛び出るかのような心持ちで、けれどそれを顔に出さないよう努め、一瞬遅れてから慌てて差し出された部屋の鍵を受け取った。

この魔術師は本当になにを考えているのだか、さっぱり分からない。
アレグラは鍵をキーボックスに戻しながら、つっと頬に冷や汗が流れるのを感じた。

そもそも昨夜の一騒動がなければ、彼は普通の客と思い込み、今だってにこやかに対応できただろう。
しかし昨日の夜も大分更けた頃、物音がすると気づいて夫と料理長を伴い地下に下りてみれば、何故か地下の食糧庫の真ん中で突っ立っていたのは、他の誰でもないこの少年だった。
トイレに起きたら迷ったみたいで。だいたいそんな意味のことを言っていただろうか。けれどどう見てもトイレに起きただけに見えなかったのは確かである。

だが少年はこちらの意に反してあっさりと自分の部屋に戻っていった。
それでもどこか疑わしく、自分と夫、それに料理長の三人で、少年の部屋を朝方まで根気よく見張っていたのは言うまでもない。
お陰様でこの寝不足だ。何事もなかったとは言え、結構くたびれる。

(……魔術師、ねえ)

どこかの地域では魔術師は毛嫌いされているとも聞く。そう考えるとまだこの地域は寛容な方だろうか。
どちらにせよ気味が悪いことこの上ない。彼が帰ったら祈祷師でも呼んでお祓いの一つくらいしてもらわなくては。

アレグラは溜め息が出たくなるような顔で、少年はもう帰っただろうかと、カウンターの方にゆるりと視線を戻した。
しかしカウンターを挟んだ向こう側には、さっきと変わらず少年がこちらを見上げて立っていた。

(読まれた!?)

少年の一見無垢に見える大きな瞳とこちらの瞳がばっちり出くわして、不用意に逸らせない。
もしかして、今考えていたことを読まれてしまったのだろうか。アレグラは背筋が凍っていく感覚が次第に全身を襲うのが分かった。
汗が尋常ではないくらいに噴き出してくる。まずい、彼は「魔術師」だ。怒らせでもしたらとんでもないことになるのではないか。

ボリスや料理長は一応うしろで控えてはいるが、この一階の受付にいるのは自分と、それにこの魔術師だけだ。
内心焦るアレグラに、こちらを見てきょとんと瞳を瞬かせていた少年は、しばらくしてから静かに口を開いた。

「……あの、宿代は?」

少年は首を傾げて不思議そうにこちらを見てくる。
その一言にアレグラは緊張の糸が一気にぷっつり切れた気がして、思わずその場に座り込みたくなった。

「あ、ああ、はい。宿代ですね。五ベック、いただきます」

救われた気がした。心臓がまだばくばくと唸っている。
上擦ったアレグラの声を聞いて、すぐに少年はポケットから紙切れを五枚取り出すとそれをカウンターに置いた。

「どうも、ありがとうございました」

それはまるで無邪気な子供のようににっこりと微笑んで、少年は踵を返した。
分厚いコートがふわりと広がるその残像が、少年が出て行ったあともアレグラの目蓋の裏にしっかりこびりついていた。

なんだかわけの分からない客だった。
アレグラは近くにあった木製の椅子を引き寄せて腰かけると、重く長い溜め息をついた。
どうせ客が来ないのならば今日はもう閉店にしてしまいたい。ボリスと料理長に混じって奥で休もうと、アレグラは重い腰を無理矢理上げた。

しかしアレグラが椅子から立つと同時に、出入り口のドアの上部につけられている鈴が、昨日と同じくけたたましく鳴り響いた。
アレグラは驚いてその音のした方へと振り向く。
さっきの少年が忘れ物でもして取りにでもきたのだろうか。虚ろな頭で考えた。

だが宿に入ってきた人間に、背の低い魔術師の面影など微塵もなかった。
次から次へと雪崩れ込んでくるのは旅支度をした大人の客ばかりだった。
まったく数ヶ月前と同じ光景だった。疲れた疲れたと呟きながら、重い荷物を抱えて、部屋は空いてますかと口々に尋ねてくる。

アレグラはぽかんと、ほんの一瞬だけ呆気に取られた。
夢でも見ているのだろうか。いや、どちらかというと今までの数ヶ月間の方が夢だったのだろうか。
ぎゅっと渾身の力で頬をつねってみた。しかしこの光景は変わらなかった。どちらも、夢ではないと思った。

「ええ、ええ。いらっしゃい! 部屋なら空いてますよ、どうぞどうぞ、順番に並んでくださいな!」

景気よく営業用の声と笑顔を出し、客の名前を帳簿に書き足していく。
しかし一人で大人数の客を捌けるわけもなく、アレグラはすぐに奥で料理長と談笑していたボリスを呼びつけた。
ボリスもいつもの調子でおどおどとしながらカウンターまで出てくると、途端に愛想笑いを浮かべて客を相手にする。なにも変わらない。数ヶ月前と同じだ。

そう、なにもかもが「同じ」だ。しかし、どうして若干の違和感が頭の片隅に居残るのだろう。
けれどアレグラは、暇を出した従業員を早く呼び戻さなくては、とか、今月は黒字になってくれるだろうか、とかそんなことを考えて、ふっとよぎった違和感などすぐに忘れてしまっていた。













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2008/08/02