「マヴェラ」、それは霊を冥界へと導く呪文。

ウィザロが最初に出会った悪霊、それは自分よりいくつか年下の、少女だった。
目を真っ赤に泣き腫らして、一本の暗く細い路地脇にしゃがみ込んでいた。

――おかあさんに会いたい。でもこの道はいっぱい交差してて、出られないの……。

彼女は涙をはらはらと零しながら、涙声でそう言った。
どうやら悪霊になりきれていないらしく、飢えよりも己の母への思慕を募らせたまま彼女は泣いていた。

それはウィザロが魔術の演習でちょうど外界、一般人が住む街に立ち寄っていたときのことだった。
周りには誰もいない。しかし彼女が他の「魔術師の称号を持つ者」に見つかれば、すぐさま冥界へ送られてしまう。
ウィザロはいつの間にか、少女の手を取っていた。

おいで、会わせてあげる。そう言ったら少女はぱっと笑顔になって、こちらを見上げて微笑んだ。
ありがとうありがとう、大丈夫だよ、もうひとりのわたしはわたしがおさえてるもん。その言葉を聞いたとき、ぞくりと背筋が震えた気がした。
悪霊は生きるものの生命力を欲する。けれど悪霊の影響に屈しない少女の精神力の強さに、ウィザロはただ圧倒された。

「マヴェラ」、それは霊を冥界へと導く呪文。

だがウィザロは授業や演習で散々使ってきたはずのその言葉を飲み込んだ。
彼らには黄泉の国から蘇るほどの想いや願いがあるのだ。ならばせめて、その願いだけでも叶えよう。
ウィザロはこのとき、今後降りかかってくるであろう苦難すべてに立ち向かうことを覚悟した。









陽気な戦士  -第五話









すぐ目の前に褐色の軍服が見える。ごふっと、耳元で鈍い嫌な咳が聞こえる。
ウィザロは何度も何度も瞳を瞬いた。けれどそれは紛れもなく現実で、もちろん夢や幻想などではない。

「『送還マヴェラ』? それってさ、もしかして、例の呪文ってヤツ……?」

どくんと心臓が身体の奥で唸った。
何故その言葉を自分以外の人間が知っているのだろうと恐る恐る顔を上げてみれば、赤茶の髪がちくりと頬に触れた。

ウィザロが見上げたそこには、薄く儚げに笑む青年の顔があった。
今までのどれよりも優しい表情で、彼はこちらを見下ろして目を細めていた。それはさっきの悪霊になったときの顔ではなかった。

この瞬間、頭の中が真っ白に塗り潰されていくのが分かった。
左手に持っている魔術書が微かにぽうと光っている、その微弱な光が痛いほど目の奥に届いてくる。
しかしウィザロの右手はと言うと、伸ばされていた。まっすぐ、前に向かって突き出されていた。

身体が小刻みに震えた。見開いた瞳が更に大きく見開かれた。
そしてウィザロは静かに己に問うた。
青年が真っ直ぐ自分に襲いかかってきたとき、自分はいったいなにをして、そしてなにを口走ったのか。

(言った? なにを?)

何故彼は「送還マヴェラ」という言葉を知っているのか。
そしてどうして、彼はこんなにも苦しそうな顔をして、そしてどうして、この右手にはなにかを貫いた感触がまとわりついているのか。

青年はまたウィザロの耳元で鈍い咳を漏らした。そしてやっと、ウィザロはこの現状を理解した。
言った、言ってしまったのだ。冥界へ送還する言葉を、あまりにも呆気ないあの一言を。

ウィザロの右腕は今、青年の胸を真っ直ぐに貫いていた。
そして貫いたそこから、ぼろぼろと彼の身体が崩れては消えていく。
身体の震えが止まらなくなった。どうしようもない後悔が、身体すべてを襲って怖くなった。

「悪い。世話んなったな、少年……」

青年はぽつりと呟くようにして言うと、そっと腕を持ち上げて、ウィザロの頬に触れた。

「少年の髪って、柔らかいのな……」

震える彼の手が、ウィザロのパステルブラウンの癖毛をなぞる。
しかしウィザロは青年に応えることもできず、ただじっと、虚ろな表情の彼の顔を見返していた。

「そうかもなあ……。俺、生きることに未練があったのかもなあ……」

がくり、と彼の身体から抜けた全体重がウィザロの肩にのしかかる。
彼は確かに霊のはずなのに、どうしてか互いに触れ合う感触があって、人の温もりを感じた。
そこまで考えて、ああそう言えば彼はさっき悪霊になったのだったと思い出した。

「故郷のことさ、考えるとつらくなる。悪霊になってった同胞も、同じだったと思うぜ。国のために戦って死んで、でもそのときはそれでいいと思ってたんだ。家族が守れるんなら、俺の命くらい国に捧げてやるって、意気込んでた」

青年はふっと力なく顔を上げた。
そしてどこか暗い天井のどこかを見詰めながら、憑かれたように笑った。

「はは、情けないな。……でも、それでもさ、どうしても帰りたいんだよ」

数秒後、思い出したように彼はゆっくりとつけ足した。

「死ぬ間際に、相手の剣の刃がこっちに向いたその瞬間に、ああ俺、死ぬんだ、って思った。で、もう一度家族に会いたくなって怖くなった。でも会えないって分かった。だから怖くなった。家族にも故郷にももう二度と会えなくて、切り離されて……。そんなつらさなんて、出てくるときは知らなかったんだ」

貫通していた右腕を、青年の身体からゆっくりと引き抜く。
しかし彼の身体の粒子化は止まらず、貫かれた胸部からぼろりぼろりと細かい金の粒子になると崩れていった。

願いを叶えたかった。彼の霊になったその原因を浄化させたかった。
だが呪文を唱えてしまった今、もうどうにもならない。現に彼は次第に気力をなくしているようで、その身体も次第に消えつつある。
本当に悔しくて、己の能力の低さに吐き気さえ催して、ウィザロはぎりりと歯を食いしばった。

「なあ、少年」

ぼんやりとした彼の口調に、ウィザロは顔を上げる。

「俺の頼み、聞いてくんねえかな」

青年の弱弱しい瞳がこちらを覗き込んでくる。
昇天する間際に、いったいなんだろうか。ウィザロは少し躊躇ってからこくりと首を小さく縦に振った。

「ヴィルヘルム、っていうんだ。俺の名前」

青年はぽんぽんと、けれどひどく緩慢な動作でウィザロの頭を軽く叩きながら言った。

「この名前、もう時代遅れとかだったりしたらヤだな」

はは、とまた疲れたように笑う青年に、ウィザロの心はずくんと痛んだ。
それもそうだった。彼の魂は半分冥界に送られつつあるのだ。
そんな霊が現実で自我を保ち続けることがどんなに大変なことか、ウィザロは知っているつもりだった。

このとき恐らく、ウィザロは怖いくらい真顔だったのだろう。
だから青年は苦笑して、すぐに話を本題に戻した。

「もし少年が本当に無償で俺らを助けてくれるって言う寛大な人間なら、頼みたいんだ。無理強いはしない。ただ、頼みたい」

そうして彼はウィザロの耳元にそっと顔を近づけて囁いた。
まるで気力すべてをその一言に凝縮させたかのような、それくらい掠れた声で。

「俺らの魂を、故郷、ラングニック国に、連れて行ってくれ……」

ウィザロは耳元にある青年の顔をちらりと見た。
彼は笑っていた。そして、ごめんなあ、と言うと、ウィザロにもたれかかるようにして倒れ込んだ。

瞬時に、彼の身体はぶわりと崩れた。
勢いよく辺りに吹き荒れる風となって消えた彼の身体は、もう見ることができなかった。
そして数秒とも経たないうちに食糧庫は元の通り、しんと奇妙なくらい静まり返った。

誰もいない、あるべき姿の食糧庫。
だがこの下にはヴィルヘルムを始めとした多くの兵が眠っている。

(……はい)

ウィザロは心の中でしっかりと返事をして、それから魔術書を閉じた。
きっと、いや絶対に、叶えてみせます。それであなたの魂が報われるというのなら。ウィザロはぎゅっと魔術書を抱え込んだ。

どこからか複数の足音が聞こえてきた。
ウィザロは足元に転がっていた、既に炎の消えた燭台を拾い上げた。と同時に、食糧庫の鉄の扉が開け放たれる。

驚いて駆け込んできたのは、アレグラとボリスだった。
薄いガウンを羽織って、食糧庫内で突っ立っているウィザロを見た彼らは、呆気に取られたなんとも間抜けた顔をした。
遅れて二人の後ろから料理長が眠い目を擦りながら階段を下りてくるのが見えた。

ウィザロは軽く息を吐くと、ぱっと無邪気に笑んでみせた。
悲しみは心の奥底に追いやる。誰にも誰にも、悟られることのないように。
そうしてウィザロはえへへと苦笑しながら、食糧庫の扉の前で唖然としている三人に向かって言った。

「ごめんなさい。トイレに起きたら迷っちゃったみたいで」













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2008/07/19