――これが、三年戦争のすべてです。 ウィザロは教壇に立って淡々と話す教師の顔をじっと見つめながら、おかしいこともあるものだと考えていた。 歴史の授業は暇なのか、前に座っていた何人かの生徒がこっくりこっくり首を揺らしていた。 三年戦争。元々とある二国間の摩擦から近隣諸国までもを巻き込んだと言う、三年もの間に渡って続いた戦争だ。 魔力を持つ者と一般人の確執は今に始まったことではない。しかし一般人はどうやら同じ種類の人間の間でさえも戦うらしいと知ったとき、唖然とした。 だからこそウィザロは、首を傾げざるを得なかった。 人間の背丈以上もある大きい黒板に貼られた当時の資料のぼやけ具合は今でもよく覚えている。 中でも特に、ヒトが同じヒトに斬りかかって行く一枚の古い絵は、見ていてどこか薄気味悪かった。 陽気な戦士 -第四話 青年のその服装はまさに、あの古い絵の中で人々が着ていたものと同じものだった。 どこか時代を感じさせるくたびれた褐色の軍服は、目にした途端にすぐにそれと分かった。 地面に描かれたものと同じ青い文様が、今もまるで呪縛のように彼の胴をがっちりと挟み込んでいる。 広い食糧庫の真ん中でもがくでもなく己の現在の状況を確認した彼は、これはどうにも抜け出せないと分かるや否や、宙に浮いた姿勢のまま足組みをしてふうと溜め息をついた。 ウィザロは魔術書を手にしたまま彼の姿を見上げて、なんともさっぱりした性格の持ち主だなと思った。 「消せよ」 開口一番、彼は怖気づくでもなく虚勢を張るのでもなくそう言った。 ウィザロはわざととぼけたふりをして小さく首を傾げてみせた。 「少年の仕事だろ。消せよ」 分かっているだろうとでも言うように、口元に薄らと笑みを浮かべて彼は再度口を開いた。 傍目には笑って見えたが、彼のその表情はどこか落胆したような諦めたかのように複雑だった。 「僕の仕事、ですか?」 それでも尚もウィザロがとぼけ続けると、青年はついにやる気なく声を上げて笑った。 「おいおい、死んでるからってなめてもらっちゃ困るぜー? 魔術師の情報は霊仲間から入ってくるんだよ。なにせ俺らの存在に関わることだからな」 くつくつと喉の奥で笑いを噛み殺しながら、青年はちらりとこちらを見た。 すると彼はそのまましばらくウィザロの姿をじっと見つめた、かと思うと、急に唸り声を上げて髪を掻き上げた。 「あー、ここで終わりかー。ま、俺が最後だったからいつかくるとは思ってたけどなー」 これから昇天されそうになっているというのに焦っているのかふざけているのか、彼はやはり掴めない。 胴を取り巻く青い文様によって彼の身体は束縛されているが、彼は束縛の中でさえオーバーリアクションをしてみせる。 現にウィザロの目の前で今、青年はあちゃーと言いながら額をばしばし手のひらで叩いて唸り続けている。漫才のボケにでも向いていそうだ。 真剣な顔をしたかと思うと、すぐにこちらをからかうような態度ばかり取る。いやもしかして、本当にからかわれているのかもしれない。 しかしウィザロは彼の言葉に若干の違和感を覚えたので、無意識のうちに眉をひそめていた。 「あなたが最後、って?」 「文字通り。そのまんまの意味だよ」 青年はひょいと軽く肩を竦めてから、己の足元を見回して静かに言った。 「ここにいるのはもう俺だけだ。前までは他のヤツらもいたんだけどな、みんな出て行っちまった」 その言葉にぴくり、と身体中をめぐる魔術師の血が反応した。 ウィザロは一度は緩めた気をぎゅっと引き締め直した。 「この下には何十何百の兵士の骨が埋まってる。あ、少年は知らないかもしんないけど、今からえー、五十年前くらい……だったかな。三年戦争っつーデカイ戦争があったんだよ。で、この下がちょうど二つの国の兵士がぶつかったところなんだ」 青年の言葉が終わると同時に、ウィザロの脳裏に数年前の歴史の授業風景が蘇ってきた。 そこで教壇に立っていた教師の低い声が、頭の中でゆっくりと響き渡る。 「霊」は近年になって突然発生したものではないのです。彼は確か、そう言っていた。 元々昔から「霊」は社会の裏でひっそりと息衝いていたらしい。 そもそも霊とは、この世になんらかの未練を残したまま死んでいった人の残留思念が、霊に形を取り再びこの世に留まったものだった。 しかし「悪霊」はこの世を恨む怨念や強い執着を源にして生まれる。その頃はまだ、負の感情に満ちた悪霊の存在は稀だった。悪霊になるまで思念を募らせる霊は、全体的にあまりなかった。 しかしある日を境に、今日のように、「悪霊」と呼ばれる存在が世界あまねくはびこるようになった。 その一説に、五十年前に起きた三年戦争が関わっていると考えられている。 この戦争での戦死者は歴代の戦争のどれよりも最悪、確認されているだけで三百万人もの人々が命を落としたと記録されている。 しかし未確認部分も含めると、数はさらに跳ね上がるだろうとの予測もある。 その三年戦争が悪霊を生み出すきっかけになったという確固たる証はない。 だが戦争で命を落とした人々がただならぬ怨念を持った悪霊となり、さらにその悪霊の餌になり死んだ人々も理不尽な死を恨み悪霊となる。そこに悪循環が生まれることは言うまでもない。 ウィザロは青年の暗い顔を見上げながら、これまで何十と対面してきた霊を走馬灯の如く思い出した。 彼らのほとんどはこの世に未練を残したまま、死ぬに死に切れなかった者ばかりだった。 しかし青年のように、戦争に端を発した霊と会うのは、今回が初めてだった。 青年は何を思っているのか、顔を伏せたままぴくりとも動かない。ただ地下倉庫の床を見つめてばかりいる。 かと思うと、彼はいきなりふっと口元を緩めて、それまでの暗さを感じさせない表情で笑った。 「だが、残念。俺はただの霊なんだよなこれが。だからさ少年、さっさと別のところに行った方がいいぜ」 「違いますよ」 ウィザロは彼の言葉を半ば遮るようにしてきっぱりと言い切った。途端、彼の顔が曇った。 「この宿、周囲から阻害されています。宿の人間以外の目にこの建物は見えない、いや、存在自体認識されていないんです」 ウィザロは言いながら辺りに鋭い視線を走らせた。 今も宿全体が夜の静けさを如実に反映して、水底に沈んでしまったかのように物音一つしない。 「実は僕がこの宿に来る前、道で偶然出会った旅の人にこの宿を指しながら、ここにはなにがあるか聞いたんです。そうしたらその人は気味悪そうな顔をして、『空地じゃないか』と、見事にそう答えてくれましたよ」 ウィザロは視線を上方の、今も身体を縛られている赤茶色の髪を持つ青年に向けた。 「あなたは霊でも悪霊に近い、完全な悪霊になりつつあります。悪霊の負の部分が、早くもあなたの周囲に作用し始めているんです」 ウィザロの淡々とした言葉に対して、青年はもうなにも言わなかった。 ただ漠然とした虚ろな瞳でこちらを見下ろしながら、口を噤んだまま、なにかを考えているような素振りでもなかった。 「……だったら尚更、消せよ」 沈黙が二人の間に割って入って少しあと、ぽつりと低い調子で紡がれた言葉にウィザロは顔を上げた。 「消せよ、消してくれ。俺は……もう、いい」 辛さを一気に吐き出すかのようなそんな口調で、青年は顔を背けて呟いた。 下から見上げる彼の表情はよく見えなかった。しかしその口ぶりから、彼がなにかを踏みとどまっていると感じさせた。 だからこそウィザロは、彼がこの世に残りたいと願う「それ」を知りたいと思った。 霊はこの世に執着するからこそ生まれる。それ以外にはありえない。 「だけど、あなたは」 「他人を食ってまで生き延びるなんて俺はごめんだね。考えてみりゃ悪霊は破壊しかもたらさないのにさ、この世界にいつまでもウダウダ執着して挙句にそんなことしてどうなるんだよ。ハッ、そんなもん消えた方がまったくもってマシじゃないか」 「でもあなたには未練がある」 消されるという興奮の所為か嫌に饒舌だった青年は、そこで一旦言葉を切ると、ふうと溜め息をついてから再度口を開いた。 「俺を消せば未練も消える。そうだろ? 魔術師は俺ら霊を黄泉に送り返すためにいるんだろ?」 それは完璧に冷静な一言だった。 だが青年はなにかとても大切なものを、心の中に留まっている大切なものを押し殺していると分かった。 そうでなければ、どうしてその一言をこんなにも辛い顔をして言わなければいけないのだろう。 死んだ人々は普通なら昇天するはずだ。 しかしすべてがすべてそうならないのは、人間という生物がこの世に未練を残すからだ。 ウィザロはこの瞬間、胸の奥が締めつけられて苦しくなって、どうすればいいのかよく分からなくなった。 彼の心が読めない。彼の考えていることが理解できない。 頑なに閉ざされている心に弾かれて、このままでは彼は一人自分の殻に閉じこもり、この世への未練を強制的に断ったまま昇天するしかないのか。 「……僕は、傲慢、でしょうか」 気がついたとき、ウィザロは自分でも知らないところで勝手に喋っていた。 言葉が独りでに喉を通ってしまっていた。 「確かに魔術師は悪霊を冥界へ導く担い手となります。でもそのやり方は呆気ないくらいに簡単です。呪文を唱えれば、一発なんです」 顔を伏せていた青年が、落ち着いた目でちらりとこちらを見た。 「でも僕は……できればそのやり方は使いたくないんです。あなたたちを、あなたたちの悪霊となった心を浄化してから、眠らせたいんです」 自分でもこのとき、なにを言っているんだろうと思った。 だけどどうしても止まらなかった。気持ちばかりが先に立って言いたいことが上手くまとまらないが、止められなかった。 だめだ、これじゃあ、魔術師失格だ。けれど分かっていてもどうにもならない。 助けたい助けたい助けたい。しつこいくらいに頭の中で、もう一人の自分が喚き散らしている。 これは偽善なんかではない。いやそもそも、偽善をまとった助けなど、誰が為だというのか。 「すごく、すごく自己満足なんです。だから不安なんです。本当にこれでいいのか、悪霊となった人の古傷をえぐって心を開かせてまで、そこに本当に助けはあるのか、すごく不安でたまらないんです」 もしかしたら、本当は誰かに理解して欲しかったのかもしれない。 それでいいのだと、誰かに言って欲しかったのかもしれない。 きっと、自分のしていることは魔術師の中でも確実に横道にそれまくっている。 世界に散らばっている同胞の魔術師は、「呪文」という彼らにしかできない効率のいい方法で世界を救っている。 このわずか一秒の間でさえ彼らは着実に悪霊を冥界へ送り、悪霊の暴走を食い止めて世界の破滅を防いでいる。 だがウィザロにはそれができなかった。 悪霊を見つけたらすぐに呪文を唱えて彼らを冥界に強制送還する。ああ理想だ、まったくの理想論だ。 しかしウィザロが魔術師になって初めて悪霊と対峙したとき、授業で何度も教わったその方法が、どうしてかできなかった。 悪霊になる一歩手前の霊には完全に人間の心があった。 悪霊になりかけていた霊にも薄らと人間の情があった。 彼らのこの世に残る元になった感情や声を無視して非人情的に冥界に強制送還など、心が痛んでとてもできなかった。 (……ばかだ) 鼻がじんと染みてきた。 ウィザロは顔を伏せて、魔術書を持つ自分の左手を、ぼやける視界越しにじっと見つめた。 最初に覚悟したではないか。 他の魔術師とは違う道を選ぶ代わりに、どんなにこの道が辛くとも耐えようと、最初に悪霊と出会ったときに決心したではないか。 どんなに彼らの願いを聞くことが困難だろうとも、もう後悔なんてものを残さず安らかに眠って欲しいと思ったあの一時の感情は、いったいなんだったのか。 子供だからと言って折れる気はない。 けれどこのとき、ウィザロはもうほとんどどうしていいか分からなくなってただ突っ立っていた。 辛さを隠す青年の前で、今までの自分の辛さをも吐き出してしまえば楽になるかもしれない。そう考えたのかもしれなかった。 だがそんなこと、霊と言えど他人に迷惑をかけているも同然だ。 そんな心の弱い魔術師など、はっきり言って迷惑だ。 「少年の正しいと思うことをやれよ」 間近に自分のものではない低い声が聞こえて、ウィザロは出かけた涙を目頭に感じた。 「他の魔術師はそんなことやんないんだろ? 呪文で一発なんだろ? でも少年はあえて、違う方向で頑張ってるんだろ?」 顔を上げれば、そこには顔を伏せる以前と同じく、宙で足を組む青年の姿があった。 飄々として、掴みどころがなくて、いつ人をからかっているんだかからかっていないんだかまったく分からない青年が、真っ直ぐこちらを見ていた。 「俺はいいと思うぜ。少年のその、馬鹿親切と言うか人身御供な方法」 すかっと、身体をなにか透明な空気の塊が通り抜けていったように感じた。 恐らく彼は今の一言を皮肉を込めて言ったのだろうが、分かるだろうか、こんなにもこの胸が嬉しさでいっぱいで苦しいなんて。 目蓋の裏がじりじりと熱くなっていく気がする。涙がまた出てきそうで、ウィザロは青年に知られないよう少しだけ顔を伏せてこらえた。 「ふーん、そんな魔術師もいるんだなあ。ほら、最近なにかっていうと若者にキッツイ言葉かかるけどさ、世の中そういうヤツばっかじゃないから成り立ってるんだよな。それと同じだな」 にっと、口元に悪戯な笑みを浮かべながら青年は言った。 ウィザロもつられて少しだけ笑った。 すると青年はまた地下倉庫の床に視線を移して、ふと手を床の方へ伸ばした。 青い文様に縛られている身体は徐々に床に近づき、そしてそのまま彼は床をなぞろうとした。しかしなにも掴めない手は床をすうと通り抜けた。 もちろん彼も承知している、悪霊になりきれない霊は物体に触れられないのだ。 それでも彼はしみじみと、床に触れられなかった己の手をゆっくり握ったり開いたりした。 「宴会、するんだぜー。それも毎晩毎晩さ。ほら、ここ食糧庫だから酒とか食い物とかに困らないしさ。ま、俺ら霊だから食い物は供物的な意味合いで、量はちっとも減らないんだけど」 青年は地から離れて宙にふわりと上がると、そこで気だるげに足を組み直した。 「でもそのうち誰かが顔を真っ青にして狂った声を上げて建物の外へ走り去っていく。で、残された俺たちは思うんだ。ああ、あいつ、悪霊になったんだなーって……」 遠くを見る青年の瞳は、過去に悪霊になった仲間を想っているようだった。 彼の言葉の一つ一つが、ウィザロをやるせない気持ちにさせた。 「最後の二人になった。それでも俺たちは派手に杯を酌み交わした。でも、あー数年前……かな。なにしろ死んでから長くてなあ。で、さ。そいつも例に漏れず前のヤツらとおんなじで、狂っちまって、外に出てって。いつの間にか俺、一人になってた」 青年は話し終えると、寂しげに苦笑した。 「悪霊、ねえ……。この世に未練があるやつが死んで悪霊になるって言う噂は聞いたことがあるが、まさか俺がなるとは思わなかったしなあ……」 今垣間見せた表情はどこへやら、彼はまた元の調子でぼりぼりと頭を掻くと、明後日の方向を見てふうと溜め息をついた。 それでもどこか切ない一言に、ウィザロは思わず口を挟んでいた。 「まだあなたは『霊』ですよ」 「はは、どれも似たようなもんだ」 言ってからまたぷっつりと黙りこくった青年は、ふっとなにかの想いを断ち切るかのように天を仰いだ。 そこにあるのは灰色の、広く暗い地下倉庫の天井だ。 そのどこか一点をじっと見つめながら、青年は憑かれたように口を開いた。 「未練、か……。俺たちの場合は、あるとしたらそりゃきっと、故郷のことなんだろうな……」 そのとき、一瞬彼の瞳の奥が光ったのを本能は見逃さなかった。 ウィザロははっと我を取り戻して彼の顔を見た。考えるよりも先に身体がこの緊急事態を読み取っていた。 ざわざわと、辺りの空気が次第に荒れていく。 今まで何十と悪霊と対面してきた経験から裏打ちされた感覚が警鐘を鳴らしている。 まずい。これは「霊」から「悪霊」への、変化だ。 「だめだ! 悪霊になっちゃいけない!」 ウィザロは青年に向かって大きく叫んだ。 しかし今や青年の身体はがくりとくの字に折れ曲がり、不気味な音が身体の至るところからしゅうしゅうと漏れている。 ウィザロの声に反応してぐるりとこちらを振り返った彼の四肢は、不自然にだらりと投げ出されていた。 さっきまで優しかった彼の瞳は瞳孔が完全に開いている。 カチカチと小刻みに歯を鳴らし、獲物を見つけたかのようなそんな表情でこちらを見ている。 まるで今にも襲いかかってきそうな気配で、理性など完全に失っていると分かった。 (まずい……!) だがウィザロには、体勢を整えたり、悪霊と化した青年を正気に戻らせる術などを考えている暇はなかった。 ウィザロが瞬きをしたそのあまりにもわずかな間に、正気を失った青年はウィザロの一寸前まで迫っていたのだ。 鋭く伸びた青年の爪が、ウィザロの心臓を一突きにしようと目標を定めてやって来る。 彼の顔つきは、禍々しささえ覚えるまったく違う人間のものになっていた。 耳元まで裂けた口で大きく笑いながら、皮肉めいてさえ優しかった言葉を投げかけてくれた青年は、既に悪霊になっていた。 彼の胴に巻きつく呪縛など、悪霊になった彼にとってもはや赤子の手を捻る程度のちゃちなものだ。 もう誰もなにも青年を止める術などありはしない。 このままでは彼に、生まれついて持ったこの魔力ごと、食べられる――。 (どうすればいい?) 世界を統べる時間の進みがとても遅く思えた。 自分目がけて襲いかかってくる青年の姿が、はっきりと視界の真ん中に映っていた。 このとき、なにをしたのかウィザロは自分でもよく覚えていない。 ただ気がついたら、魔術書を持つ手ではない方の手が勝手に動いていた。 BACK/TOP/NEXT 2008/07/10 |