陽気な戦士 -第三話 部屋の扉に内側から耳を押し当てて、誰の気配もないことを悟るとそっと扉を押し開けた。 明かりの落とされた廊下の奥はぼんやりとしていて、今にも悪霊のひとつやふたつくらい、なんの前触れもなしに壁面から躍り出てきそうだ。そう考えてから、洒落にならないなと思い直して、手元の燭台を頼りに歩き出す。 二〇一号室からそっと抜け出た少年、ウィザロは、顔に青白い光を受けながら深夜の宿を目だけ動かして窺った。 手にしている燭台には、例の青い蝋燭が不気味な光をほのかに漂わせて燃えている。 今は誰の気配も感じられない。 カウンターで出迎えてくれたこの宿のオーナー夫妻は既に寝床についているようだ。ついさっきとても美味しい夕食を振る舞ってくれた、料理長という肩書きを背負った人も眠っていると分かる。 だが万が一、宿の人間に見つかった場合を想定して、魔術師を連想させるコートや三角帽子などの余計な物は置いてきた。 今のウィザロの服装は、詰襟の上着を脱いだ下に着ていた黒の七部袖のシャツと、群青色のズボン、ただそれだけだった。これならたとえ宿内を歩いていてもトイレに起きただけにしか見えないだろう。 あと手にしているのは最低限必要なもの、右手には燭台を、左手には今回必要になるかもしれない魔術書を携えてあった。 用心しつつぎしぎしと軋む階段を下りると、一階の少し開けたエントランスに出た。 窓から差し込んでくる月明かりを受けた木製のカウンターの上には、閉じられた帳簿がひっそりと置いてある。 ウィザロは小さく辺りを見回して目的の入り口を探した。 ――あると言ったら……せいぜい食糧庫かねえ。 アレグラの言葉が頭の隅を掠めた。 そのときちょうどカウンターの横の小さな扉に目が留まったので、ウィザロの足は自然とそちらへと動いた。 そうしてウィザロは小さな、でもどこか強固そうな扉の前で立ち止まった。 間違いない。この扉の奥のもっと奥から夥しい量の冷気を感じる。 燭台の炎がほんの一瞬だけ、風もないのに揺らめいた。 ウィザロは躊躇いもなく小さなそのドアを押し開けた。すると少し力を入れただけでドアは簡単に開いた。 なんと言うべきか、ウィザロは拍子抜けした。 推測するにこの奥は地下へと続く食糧庫で間違いはなさそうなのだが、それにしても貴重な場所の警護をこんなに疎かにしてもいいのだろうか。宿の今後が気にかかった。 扉を開けたすぐ下にはなだらかな石造りの地下階段が続いていた。 ひんやりとした石で作られたそれは、歩き始めたウィザロの足音を静かに辺りに反射させた。 蝋燭の明かりがなかったらすぐにつまずいて地下まで真っ逆さまに落ちて行ったことだろう。 歩けども歩けども終わりは見えてこない。数分の間、長い階段は下へ下へと続いた。 (確かに、部屋には不向きな場所だ……) 地下の部屋がいいと言ったときの、アレグラとボリスの驚いた顔を思い出してウィザロは苦笑した。 こんなに肌寒い場所など、好きこのんで頼む人間など誰もいないだろう。 もちろんそれはウィザロだって同じことで、けれどそれでも地下の部屋を所望したのは、もともと地下に「彼」がいると分かっていたからだ。その方が「彼」に近いために色々と好都合だと思ったからである。 ウィザロの考えごとが長かったのか、それとも階段が予想に反して短かったのか、ウィザロはいつの間にか地下に足をつけていた。 顔を上げてみれば、すぐ目の前には一枚の鉄の扉がある。 鍵がかかっている。そうと分かるとウィザロは手のひらを強固そうな鍵穴に翳した。途端、ガチャリ、と音がして扉は開いた。 重い鉄の扉は誰の力も借りずに目の前でゆっくり開いていく。 そして静かに現れた鉄の扉の向こう側は、暗くがらんどうな広い間だった。 そこは階段と同じ色をした灰色な一室だった。ぐるりと室内を見回してみれば、壁際には堆く詰まれた箱、そしてその中にはあらゆる食糧が入っているのが分かった。 (……ここだ) 全身がぞわりと粟立つ。 アレグラが食糧庫と呼んでいたその部屋は、もはや大量の冷気で満たされていた。 地下だからただ寒いのではない。このままではこの宿、そしてこの宿場町界隈が危なくなることは明瞭だった。 ウィザロはすぐにかがんで、手にしていた魔術書を一心不乱にめくった。 時間がない。「彼」はなんとか自我を保っているらしいが、悪霊になるきっかけはほんの些細なものだ。なにかの拍子に悪霊になられては、自分ひとりでは対処できないかもしれなかった。 ようやく目的のページで手が止まると、ウィザロは燭台と魔術書を手に再び立ち上がる。 そうしてゆっくりと、部屋の中央に円を描くように歩き始めた。 ふっと手元の燭台に息を吹きかけると、青い蝋燭は幻想的な青い炎を揺らめかせてぽたりぽたりと蝋を落とし始めた。 ウィザロはそれを地に垂らしながらひたすら歩き続ける。 数分もしないうちに、ウィザロが歩いたあとには青い蝋で描かれた紋様が浮かび上がった。 「一時束縛」 紋様はどこか魔方陣の雰囲気を漂わせていた。 ウィザロは完成した魔方陣の前に立つと燭台を足元に置いて、魔法書の上にすっと手を翳し、唱えた。 すると地に描かれた青い紋様はこの世のものとは思えない光を発して辺りを包んだ。 地面が小刻みに、激しく唸り声を上げている。 しかしウィザロは眉をひそめた。普通ならここで観念して現れてもいいものなのだが、「彼」はどうしても意地を張っているらしく姿を見せない。 仕方ない。「彼」には辛いだろうが、次の呪文を唱えなければ。ウィザロが薄らとそんなことを考えたとき、ひゅんと文様上から宙に、紋様の青い光ではない別の光が放たれた。 それは勢いよく上昇して天井近くで静止すると、その光の中にいる者の輪郭を鮮明にして浮かび上がってきた。 そして数秒とも経たないうちに光の中から現れたのは、頬が引きつりまくっている青年だった。 「待った待った! 少年、おい! 待てって!」 どこか赤みがかかった茶色の彼の髪は、どこからか吹いてくるのであろう風にふわふわと舞っている。 胴体を地に描かれた文様と同じものにがっちりと挟まれながら、青年は本当に慌てた様子で両手を前に突き出すとそう言った。 ウィザロは彼に知られないところで小さく目を瞬いた。 赤茶の彼が着ている服は、いつか授業で歴史を習ったときに垣間見たことのある、軍服だった。 「やっと姿を見せてくれましたね」 ウィザロが彼を仰ぎながらにっこり笑むと、彼はとうとう観念したのか肩を竦めた。 「まったく、強引な少年だぜ……」 BACK/TOP/NEXT 2008/06/14 |