遙か頭上で一匹の黒く大きな身体を持つ鳥が、悠々と弧を描きながら飛んでいる。
しかし少年はその鳥には目もくれず、ただじっと、縦に細長く伸びる町を見下ろしていた。

彼が立っている場所は切り立った崖の上だ。
そこから足元に広がるこの小さな宿場町はよく見渡せた。もちろん、宿を求めて人々が移動するその様も。
崖下に慎ましくも栄えている宿場町は、これから夜を迎えるとあって繁盛しているようだった。

「……さてと」

一本の大通りの両側に所狭しと並ぶ宿屋の中で、一軒だけ変に客足が遠退いている宿がある。
外観はあまり他と変わらない。むしろ中の上と評価してもいい建物だ。
だが数多いる旅行客はその宿にだけは入ろうとしない。素知らぬ顔をして前を通り過ぎて他の宿へ入っていくだけである。

「ビンゴ」

少年は右手で銃の形を作って、閑散とした一軒の宿目がけて撃つ真似をしてみせた。同時に頭上で鳥がヒョロロと鳴いた。
三角帽子の下から垣間見えるパステルブラウンの癖毛が、冷たい風に吹かれて乱れた。









陽気な戦士  -第一話









アレグラは木製のカウンターに片肘を乗せて深い溜め息をついた。
手元の記帳には数ヶ月前に泊まって行った客の名前が記されている。しかし客の名前はそれから一向に増加しない。

いったいなにが起きているのか、自分でも不思議でたまらない。
こうして自分の宿だけ客が入らないとは、宿屋を始めて以来の事件である。

近隣の宿屋にはいつもと変わらず普通に客が入るという。しかも彼らはこの宿に客が入らないことを知らないようだ。
先日アレグラは、数軒の宿屋仲間の店主にそれとなく、なにか異常はないかと訊いてみた。
しかし彼らはただ苦笑を漏らし、「良くも悪くもない商売だねえ」と冗談交じりに笑っていた。それだけだった。

やはり周囲は知らないのだ。それも自然に見えない力によってこの宿だけが疎外されている。
根拠はない。だが、そうとでも仮定しなければどうやってこの状況に説明がつくというのだろう。

「これじゃあすぐにウチは潰れてしまうよ……」

原因はひとまず横に置いておくにしても、小さな宿屋だ、数ヶ月間の収入がさっぱりない現状ではろくに給料も払えない。数人いた従業員には暇を出していた。
今この宿にいるのは夫である宿屋の主人と自分、それといつ来るか分からない客のために一応料理長も控えている。

「ア、アレグラ……」

朝から夕刻のこの時間帯まで悶々と悩むアレグラを見かねたのか、背後を振り向けばそこにはおろおろと取り乱すアレグラの夫、ボリスの姿があった。
いつものこととは言えこのときばかりは腹が立ってきて、アレグラはむっと眉根を寄せる。

「なんだい?」
「や、やっぱりなにかいけないんじゃないか? こう、サービスとか、宿の立地とか……」

アレグラは彼の言葉に脱力感を覚えると共に、盛大な溜め息をついた。

「ここじゃどこの宿も似たようなものさ。街の中心部まで行けば話は別だろうがね、こんな道中の宿屋じゃあ豪華な宿は逆に客が入らないだろうよ」

そうだ、なぜ他の宿ばかりに客は入っていくのだろう。
もしかしたらどこか他所で、この宿にまつわる悪い噂でも流れているのかもしれなかった。

だが理由がどうであれ、数ヶ月もの間に客が一人も来ないというのはさすがにおかしかった。
何年か前の不況が続いた年でさえ、一週間に一人くらいは必ず立ち寄って行ったものだった。それを考えると嫌でも首を傾げてしまう。
だから、カランカランとドアの上部につけている大きな鈴が突然けたたましい音を立てたとき、アレグラはもちろんボリスも心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いた。

「いらっしゃい」

アレグラは自分でも驚くほど声が裏返ったのが分かった。
なにせ客がそのドアを押し開けたのは数ヶ月ぶりだったのだ。それともう一つ、この客の身長と外見に呆気に取られたからだった。

小さな客はきょろきょろと宿の内装を見回して、それからこちらの視線に気づくとカウンターの前までやってきた。
しかしアレグラは彼を客だとは思えず、一度は戻した眉間の皺をまた深くせざるを得なかった。

「お客さん、魔術師だね? なんの用だい」

ひしゃげた三角帽子、それと胸元に大きな赤いルビーのついたコート、それがなによりの証拠だ。
世間で噂されている魔術師は、悪霊というなんとも現実からかけ離れた存在を消していると言う。今までにちらとその姿を見たことはあったが、話をするのはこれが初めてだった。

なるほど、とアレグラは思った。確かに旅人と言うにはどこか神秘的な恰好だ。
じろり、と不審な目で見られていることに気づいたのか、少年はぱっと笑顔を見せると頭を掻いて言った。

「あ、いえ。僕は今日、こちらで宿をと思いまして」

思いもよらなかった言葉に、アレグラは途端に隣にいたボリスと目を見合わせた。
魔術師は一般人に見えない場所で動くと聞く。たまに見せても数時間で立ち去ると耳にしたことがある。だがこの少年はこの宿に一泊すると言うのだ。

客の来ないこの宿にとってこれは願ってもない好機だったが、どこか引っかかるものがある。
しかし目先の利益はアレグラと隣に突っ立っていたボリスに変化をもたらした。
数ヶ月ぶりの収入があるのだと考えた途端に、アレグラの頭からは魔術師云々の考えが吹っ飛んでいった。

「あ、ああ。それはすまなかったね。えっと、何泊のご予定で?」
「一泊です」
「部屋の希望はあるかい? ないならこっちで決めさせてもらうけど」

うーん、とその幼い風貌で考え込んだ少年は、すぐににこと笑んだ。

「じゃあ、地下の部屋でお願いします」

言葉一つ一つになにかが隠されているかのような、そんな怪しい口調で少年は言った。
アレグラは再度、ボリスと驚きで目を見合わせた。
それから口調をできるだけ柔らかくして、魔術師の少年にぎこちない笑みを作ってみせる。

「ご、ごめんねえ。地下には部屋がないんだよ」
「あ。そうなんですか?」
「そう、あると言ったら……せいぜい食糧庫かねえ。なにしろ地下は寒いからさ。部屋は二階から上なんだ」

すると少年は納得したのか縦に首を振って頷いて、何事もなかったかのような口ぶりであっけらかんとして言った。

「それなら二階で」

随分とまあ変わった少年だこと。顔には出さなかったが、アレグラは内心感嘆にも似た溜め息をついた。
それでも宿に客が入るのなら大した問題ではない。
奥に控えている料理長も、久々の仕事に嬉々として腕を振るうだろう。

「名前は?」
「ウィザロ・オルコットです」

新たに客の名前を帳簿に書き足しながら、アレグラは部屋の鍵をカウンターの上に差し出した。

「これが部屋の鍵だよ。二階に上がってすぐ、手前の部屋さ、二〇一号室」
「ありがとうございます」

少年は鍵を握り締めると、そのまま近くの階段を上がっていこうとする。
そんな少年を、アレグラは無意識のうちに呼び止めていた。

「お客さん、高所恐怖症なのかい?」

不思議そうな顔をして振り返った少年は、きょとんとその丸い瞳を瞬かせた。
それから、ああ、と思い出したように呟くと、すぐに首を横に振った。

「いいえ。高いところはむしろ、大好きですよ」

にっこり微笑みながらそうとだけ言い残すと、ウィザロと名乗った少年は、呆気にとられるアレグラとボリスを置いて階段の奥に姿を消した。













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2008/05/24