街から外れた森の奥深く、そこで一つの歌声が先程から響いている。
初めてこの森に足を踏み入れた人間ならば、もしかすると妖精がいるのかもしれないと我が耳を疑ったことだろう。

天を覆うように広がった葉の間から差し込む太陽の光が、歌声の主を淡く照らし出す。
森の奥に、誰にも知られないように建っている小さい家の前の地面にすっかり座り込んで、辺りに三角帽子と大きな鞄を投げ出して。

「白い花びらをー空に振り撒いたー」

歌を口ずさむ分厚いフードつきのコートを着た少年は、泥がついた頬を拭おうともしない。
彼の手元には長さの異なる二本の丸太がある。それらを十字に重ねると、固定するため蔓をぐるぐると巻きつける。
いつの間にか、彼の周りには森の奥から恐々と顔を出した動物たちが集まり出していた。

「あなたの元へーどうか、どうか届きますようにー」









森の妖精  -第七話









「よし、完成!」

我ながら上出来、と、ウィザロは土のついた指で満足気に鼻を擦った。
茶色い髭のような跡が鼻と口の間にできてしまったが、それでも目の前に鏡があるわけではないので、ウィザロは少しの間はまったく気づかないままだった。

小さい家の扉の横に、ウィザロお手製の十字架はひっそりと立った。
十字架の下に据えられた、森中を小一時間回った挙句にようやく見つけた平べったい石の上にはセリアの名前が刻まれている。その十字架と墓石を取り囲むように、二階の寝室から運んできた花や、近くに咲いていた小花が摘み取られていっぱいに飾られている。
そしてその下にはセリアが眠っていた。
あの二階で朽ちながら眠るよりは、森を愛していた彼女のことだ、地に還す方が幸せではないかと思ってのことだった。

もしこのお墓が嫌なら今言って下さい。じゃないと僕、これから違う場所に行かなきゃならないんです。
ウィザロは天を仰いで心の中で呟いた。返答はなかった。

「こらこら、これはお墓だよ。荒らしちゃダメ」

墓へ近づこうとした子供のオオカミをそっと撫でながら、ウィザロはチッチッと舌を鳴らした。
オオカミはきょとんと瞳を瞬かせて頭をもたげ、それから家の前に新しく現れた丸太の十字架を見てから、小さく哀しげな声を出して唸った。
どこからか飛んできた一羽の小鳥が十字架のてっぺんに止まり、頭をいっぱいに上げてチチチと甲高く囀った。

しかし異常はそこから始まった。
家の周りに集まり出していた動物たちは、小鳥が囀るなり次々に天を仰いでは咆哮し始めた。

ウィザロは思わず肩を震わせ驚いて辺りを見回した。
隣にいた子供のオオカミまでもが、今や遠吠えの姿勢で身体の奥から哀愁の声を捻り出している。

(知ってるんだ……)

彼らはいつか朝が来ることを知っているように、セリアが亡くなったことも知っているのだ。
小さな家の前から始まった追悼の咆哮は徐々に拡大していき、遂には広い森のすべてを呑み込んだ。
寝床から顔を出し、水飲み場から顔を上げ、動物たちは今はもう遠い国の住人となってしまったセリアを想い啼いた。
だが彼らはしばらく一心不乱に啼いていたかと思うと、あるときが来るなりぴたりと啼き止み、誰からともなく森の奥に去っていった。

その一部始終を見ていたウィザロは、残された小屋の前でただ一人、呆然と立ち尽くしていた。
唐突な始まりで、呆気ない終わり方だった。それでもどこか強く印象的だったのは、きっとそれがあまりにも眩しかったからに違いない。

セリアは愛されている。彼女が森を愛していたように、森も彼女のことが大好きだった。
それがとても眩しかった。目に見えない愛情ほど、強く焦がれたものはなかった。

そろそろ出立の時間だろうか。
長い考えのあと、ウィザロはようやく正気に戻って、すっかり閑散とした辺りの風景を見回した。
今回この場には長く立ち寄りすぎた方だと思う。滅多な事情を抱える悪霊を相手にしない限り、普通ならば一所には一日だけの滞在という自分で作った掟があった。

「ごめんなさい、僕……魔術師なんです」

支度を整えたウィザロは、丸太の十字架の前でぽつりと懺悔した。
既にセリアは冥界へと旅立ちここにはいないと分かっていたのだが、どうしても言っておきたかった。

いや、正確にはあと二つ嘘をついたと言うべきか。
捻挫のことだが、あれはセリアの家に近づくための、故意の事故であった。
少年とは言え、魔術師が突然目の前に現れるのではいくらなんでも不審がられてしまう。そこにはなんでもいい、「理由」が必要になる。

あともう一つ。親元へ帰る途中で立ち寄ったのだと言ったが、自分には故郷などない。
もっと言えば、親も親戚も親類と呼べるものなどすべてをも含めて、なにもない。

ぎゅっと硬く閉じた目蓋の裏に、勢いよく燃え盛る炎が映った。
誰かが叫んでいる。目の前に誰かの切羽つまった顔がある。途端にひやりと背筋が凍った。
最も思い出したくない記憶の断片が現れて、ウィザロははっと我に返った。冷や汗が頬を伝っていた。

(危ない……)

駄目だ。もう二度と思い出してはいけないと、もう二度とあの想いに囚われることのないようにと、意を決して心の奥にしまい込んだのに。
ウィザロはふうと軽く深呼吸をしてから、ぱんと両手で両頬を引っ叩いた。

三角帽子をかぶり直して、太い幹の傍に立てかけていた大きい鞄を持ち上げる。
もう一度だけ振り返る。そこには小さな家と簡素な十字架が立てられた、まるで絵本の中に登場しそうなほど幻想的な風景が太陽の光を受けて霞んでいた。

しばらくしてから、ウィザロは顔を戻して歩き始めた。
同時に、草を踏みしめる乾いた音が、足元から心地良く身体全体へと染み渡っていく。


「知ってるわよ」


深い、永遠の眠りに落ちたはずのセリアの可憐な声が、不意に背中の向こうから響いてきた。
歩き出していたウィザロの身体が硬直した。

「森の奥に住んでいるからと言って馬鹿にしないでちょうだい。その服、すぐに分かったわ。私を冥界に導こうとする人なんだって」

ざわざわとさざめく葉擦れの音が、静かなはずの空間を騒がせる。

「追い返そうと思った。でもね、できなかったの。そう、そうね。私はきっと、どこか心の奥で、もう、――」

しばらくウィザロは黙って次の言葉を待った。しかしどんなに待っても、そのあとの言葉は現れなかった。
ウィザロが意を決してゆっくり振り向いた先には、訪れたときと同じく丸太小屋のような家が建っているだけだった。
ただ以前にはなかった一つの墓が、家の傍でひっそりと、幻想的な風景と同化しかけている。

森を吹き抜ける冷たい風がどこからか吹いてきて、ウィザロのコートの裾をふわりと持ち上げた。
木々の間から漏れる太陽の光が頬をくすぐって、早く次の場所へ行こうとしきりに急かす。

見間違えたのかもしれない。
ウィザロはごしごしと両目を擦ってから、再度大きな鞄を持ち直して歩き出した。

「……おやすみなさい」

誰に言うでもなく、ただ胸元でぽつりと呟く。
見間違えたのかもしれない。
振り返った一瞬、墓の上に立てた十字架の上にセリアが腰かけて、こちらを見て目を細めていたような気がした。

セリアという人間は、本当に妖精が現実に舞い降りたかのような女性だった。
普通の、悪霊になりきれていない霊は、生きている人間や物体と直接触れ合うことはできない。それなのにセリアは難なく自分に触れていた。それに彼女からは霊特有の禍々しい気があまり感じられなかった。
そう、今考えてみれば、彼女の雰囲気はこの森の息吹にとても似ている。もしかしたら森が、彼女の願いを――。

小鳥が数羽、木から木へと囀りながら飛び立っていく。
ウィザロはゆっくりと一定の調子をとって歩きながら、その穏やかな光景を目で追って微笑んだ。
それからふと思い立って、すうと胸いっぱいに息を吸い込むと、

「白い花びらをー空に振り撒いたーあなたの元へーどうか、どうか届きますようにー」

幼い歌声が、いつまでも森に木霊する。













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2008/03/22