森の妖精 -第六話 突如ぶわ、と二人の足元に、なにか大きな力と風の入り混じった渦巻きが発生した。 セリアは驚いて、それまで流し続けていた涙を止めて足元を見回した。その瞳は先程のものとは打って変わって若干恐怖に怯えている。 ウィザロは心配そうに顔を曇らせるセリアと目が合うと、にっといっぱいに笑んでみせた。 これから自分がしてみせることは、先程のセリアが見せた彼女自身の過去の映像と似たようなものである。 そうしてウィザロはなんでもないという風に軽く人差し指を上に向けて立てると、 「散歩です」 その簡単な一言が終わるか終わらないかのうちに、上の方からつままれて引っ張り上げられるような感覚が身体すべてを襲った。 猛スピードで突き進むかの如く、周囲の風景は瞬く間に変わっていく。 二人は二階の部屋で対峙していたときと同じ姿勢のまま、小屋の中から森の中へと切り替わっていく風景の中をただひたすら突き進んでいた。 「時空間移動」 ウィザロが小さく呟く。すると辺りの景色がさらに歪み、ぐるりと中心に円を描くようにして回り始めた。 物凄い量の風が前方から勢いよく吹きつけてくる。ウィザロの癖毛とセリアの柔らかな髪が風に流されてうしろにひらひらと靡いた。 どれくらいそうやって森の中を突き進んだのだろう。 気づけば二人は静止して宙に浮いていた。宙に浮いたそのまま、夜の森を上から眺めていた。 天を夜の闇が広くどこまでも覆っている。夜空の中に浮かぶ小さな星明りは小さくちらちらと光っている。 足元には深緑色をした木々の絨毯が、天に同じくどこまでも広がっていた。 ウィザロとセリアは今や時間と空間を瞬く間に飛び越えて、別の場所に移動していた。 これからなにが始まるのか、不思議そうな顔をしたセリアがウィザロの顔を覗き込む。 だがウィザロはただ首を傾げて応じてみせただけだった。 セリアはウィザロはこれ以上なにも言わないと悟ったのか、恐る恐る辺りを見回した。すると彼女の大きな瞳はある一点を見つめて見開かれた。 「動物たちだわ」 「はい。そうです」 ここは夜明けが近い森だ。今から何時間後、あるいは何時間か前の森の姿を、上空から眺めているのだ。 寝床から這い出した獣たちは、数回小さく咆哮してから毛繕いを始めた。 「夜の森を見たことがありますか?動物たちは夜でも、もちろん朝でも、生きて、生きて、生きていくんです」 眩しい。森と空の境界線が薄らと白く変化して、すぐに太陽が地平線から姿を現した。 一羽の親鳥が寝床で大きく羽ばたいて我が子を起こし、朝早く獲って来た獲物を口移しで与えている。 キツネの兄弟がほらの中から躍るように飛び出して、じゃれては地面に転がって、またじゃれては互いの顔を軽く叩き合った。 彼らは知っている。時計がなくとも時間と言う認識がなくとも、いつかは朝が訪れることを知っている。 そのために夜もじっと命を絶やさぬように身体を寄せ合っている。 いつの時代も同じことを繰り返してきた。朝の光を見るために、寝床で親や兄弟の温もりを感じ合いながら。 ウィザロはセリアの手を取ったまま、じっと彼女の顔を見上げた。 彼のその表情は出会った当初のあどけなさを払拭して、いつになく真剣なものだった。 「このままここで霊としてあり続けると、お姉さんはいずれ悪霊になってしまいます。今はまだ平気ですが残された時間はそう多くない。悪霊は不安定な己の姿を保つために見境なく周りの生きとし生けるものを餌にします。そうなれば……」 ウィザロの幼い瞳は眼下の森を見渡す。つられてセリアもその方を追った。 二人の足元では今も多くの命が息衝いている。動物たちが次々に森から顔を出す。 「お姉さんは大切にしてきた森を、その手で潰すことになるんです」 その言葉を、一度は言わないでおこうと思った。 しかしここでセリアが霊から解き放たれないのならば、セリア自身が悪霊となりこの森を壊滅状態にまで陥れることは明瞭だ。 酷だと思った。だがここで誰かが彼女を諭さない限り、報われない。 それはもちろんセリアのためであり、この森のためでもある。もっと大袈裟に言えば、この世界すべてのためであった。 セリアはただ瞳を伏せて口を噤んだ。 「本当は死ぬことが怖くないだなんて、思ってないでしょ?」 言葉を選ぶかのように少し躊躇ってから、それでもセリアはふるふると頑なに首を横に振った。 「いいえ。怖くないわ」 「違いますよ、怖いです」 真っ直ぐに否定するウィザロに、セリアは無意識に眉間にやや深い皺を作った。 しかしすぐにふっと力を抜くと弱弱しく口を開いた。 「どうして……そう、言い切るの」 「生き続けたいと思うのは僕ら動物の悲しい性です。怖くないなんて、少なくとも僕は絶対に思えません」 セリアはしばらく黙り込んで、それからぽつりと誰に言うのでもない口調で呟く。 「人間って……自分勝手ね」 「自分勝手です。そして、利己的です」 「ふふ、まさかぼくのような小さい子に諭されるとは思ってもみなかったわ」 弾かれたように小さく儚い笑みを零しながら、セリアは少しの間乾いた笑いに目を細めていた。 それからすぐに真顔に戻ると、セリアは未だに己を見つめる少年を、落ち着いた顔をして見下ろす。 「私はどこへ行くのかしら……ぼく、知っている?」 「いいえ」 「……そう。そう、ね」 それから何度か自分を納得させるかのようになにかを口にしたあと、セリアはふうと大きく深い溜め息をついた。 「…………疲れたわ」 ぼうと天を仰いで、セリアは空に向かい、今までの思いすべてを込めた言葉を吐き出した。 瞬間、彼女の身体から一筋の光が天へと放たれたような、そんな幻覚染みたものを見た気がした。 その眩い一筋の金色の光は空高く駆け上り、中天に到達するなりぱちんと弾けて昇華した。光の残滓が宙に広がって舞った。 風が吹いてくるようになった。広大な森が、太陽の光の元でさわさわと涼しい音を立てるようになった。 目覚めが近い。ウィザロは辺りに目を向けた。 なにかが変わろうとしている。その証拠に、心の奥にひしひしと押し寄せる感情が今までよりもかなり透き通っていると分かる。 隣を見てみればセリアは呆然と、ただ空に顔を向けていた。 なにを考えているのだろう。綺麗な澄んだ瞳が、弾けた金色の光をどこまでもどこまでも鮮明に映している。 ウィザロはふと、ゆっくり口を開いた。 「あなたは人生を懸けて森のために尽くした。そればかりか死してまで、霊の姿になってまで尽くそうとした」 天を見つめていたセリアはその言葉に気づいて、辺りに吹き渡る風に金髪をなびかせながら振り返った。 「十分ですよ。お姉さん」 ウィザロがいっぱいに笑んで見せると、セリアの大きく見開かれた瞳から不意にぼろりと一つの雫が零れ落ちた。 それを封切りにして一つまた一つと次々に涙が溢れ出て、彼女の白い頬を伝って落ちていく。 呆然と立ち竦むセリアの肩が、時間が経つにつれ小刻みに震え始めた。 「わ、私……っ」 「お姉さんはきっと頑張りすぎたんです。もう休んでいいんですよ」 セリアは溢れ出る涙を両手で必死に押さえながら、しかし涙は指の間を縫って流れた。 耐え切れなくなったらしく、がくんと膝が折れて宙に膝を突く。 ぎゅっと、両腕を抱えるか細い白い両手に力が込められた。 「こ、わい。怖い……」 やっと彼女の口から出た言葉は、今までに彼女が決して漏らすことのなかった弱音だった。 絶望に満ちた細い声が喉元で震える。セリアはより強く、いっそうしっかりと、己の両腕を抱え込んだ。 「私は、怖い……。死んで、行く場所が分からないの。着いた場所に誰もいないかもしれないの……」 セリアは小さく嗚咽を漏らした。大粒の涙が彼女の膝を濡らしていく。 「どうすれば、いいのか……もう、分からないの……」 「約束します」 そのときウィザロの簡単で簡潔な一言が、ふとセリアの顔を上げさせた。 ウィザロの淡いパステルブラウンの癖毛が、風に逆らおうとして乱れたそのまま吹かれた。 「お姉さんは無事に眠れます。そこではきっと、沢山の花が咲いていて、空は透き通るように真っ青で、先にそこに着いた何人もの人がお姉さんを待っています。お姉さんのお婆さんも、お姉さんの姿に気づくと大きく嬉しそうに手を振ってくれるんです」 セリアの身体の震えはウィザロの言葉が終わらないうちに収まっていた。 セリアはただ、いかにもそうなると確固として話すウィザロの横顔を、膝を突きながら見上げていた。 それからややあってセリアは瞳を伏せ、しばらく口篭ってから自嘲気味に口を開く。 「……また、言い切るのね」 「はい。自信があります」 「そう……それは素敵ね、素敵な場所だわ」 セリアは震える人差し指で睫毛の上の残った涙を拭い取った。顔には薄らと安堵の表情が広がっていた。 「でも私に、霊になった私が、行けるのかしら……」 「なら一つだけ、その場所に行ける条件を教えましょうか?」 セリアの呟きに、ウィザロは待ってましたと言わんばかりに瞳を燦々と輝かせた。 「それは人生を全うした人の行ける場所です。お姉さんなら合格点間違いなしですよ。あ、なんなら推薦書書きましょうか?」 セリアはウィザロのその言葉を聞くなり呆気にとられたなんとも気の抜けた表情をして、それから目線を宙に泳がせて、すぐに口元に笑みを広げて頷いた。 それは仕方ないわね。苦笑しながらそう言いたげに、セリアは折っていた身体を戻し立ち上がった。 セリアの瞳から既に涙は消えていた。澄んだ瞳はまっすぐにウィザロを見据えていた。 ふるりと彼女の口元が震えた。途端、いきなりセリアの華奢な身体が金色の光に包まれた。 しかしこの色は先程の放たれた一筋のものとは比較できないものだった。もっと濃く、もっと儚く散っていく。 セリアのすべてが光に包まれ、と言うよりは身体のすべてが光と化し、重力に逆らうようにして天へと上がっては弾けて消える。 魂の昇華が近い。ウィザロもセリアも同じことを考えたが、あえて口に出しては言わなかった。 「僕はまだまだなんです。ごめんなさい、お供できなくて」 あはは、と笑って見せるとセリアも小さく苦笑した。出会ったときと同じ、屈託のないどこまでも美しい微笑で。 「ええ、そうね。ぼくはあとでいらっしゃい。でもずうっとずうっとあとでよ?すぐに来たりなんかしたら、追い返すわよ?」 わざと厳しい顔をして、ウィザロの前に人差し指を立てて横に振るセリアに、ウィザロは、はい、と元気に答えた。 そんなウィザロの顔を見て、セリアはまたも可憐に笑った。 風が強くなった。朝日が白から黄色に変わり、空を夜の群青色からクリアブルーへと変えた。 セリアは名残惜しそうに森の全景を見渡したが、それでもなにかが吹っ切れたように顔を正面に戻した。 ウィザロのなにも言わない瞳とセリアの瞳が静かに出くわした。 「……またね、ぼく」 セリアの手のひらが、ぽん、とウィザロの頭に軽く触れた。その途端、セリアの姿は完全に光になった。 彼女の輪郭はぼろぼろと崩れて、なにもかもがゆっくりと天を目指し浮遊していく。 指も腕も脚も胴体も顔も髪も、身体を構成するすべてのものが細かい金の粒子となって消えていく。 ウィザロは小さく口元を緩めてその光を見送った。ずっとずっと、どこまでも上っていくその光を見続けた。 そうしてセリアを見送っていた時間は呆気なかったようにも思える。実際ほんの一瞬のことだったかもしれない。 けれどウィザロは何故か、少なくとも一時間はそれらの光を目にしていたような感覚に陥っていた。死者の、今まで生きた証とも言える最後の煌きを。 ――ありがとう。 セリアの姿が完全になくなる前にそんな言葉が聞こえた気がしたが、きっと幻聴だったのだろう。 自分はなにもしていない。そればかりかセリアの願いを断ち切ってしまったのだ。感謝される謂れはなに一つなかった。 セリアが消えた辺りの風景が見る見るうちに収束していく。 そしてウィザロを取り囲む風景は、時空間を移動する前と同じ場所、セリアの家の二階の寝室に戻っていた。 相変わらず部屋の中に咲き乱れる数多の花の匂いがウィザロの鼻を突いた。しかし、それら花の匂いを打ち消すまでに強かった腐敗臭は消えていた。 ウィザロの目の前にあるベッドの中には、変わり果てた姿のセリアが同じく横たわっている。 しかしウィザロが彼女に触れようとしたとき、死してから長い時を経てすっかり乾いてしまったはずの目尻から、一筋の涙が窪んだ頬を伝った。 BACK/TOP/NEXT 2008/03/21 |