森の妖精  -第五話









ふらり、とそれまで扉の前に突っ立っていたセリアは、突然覚束ない足取りで歩き始めた。
部屋中いっぱいに咲き誇る花々を無意識の中で上手くよけて、ふらふらとウィザロの前までやって来る。

ウィザロの一歩前で止まった彼女は、ウィザロを見るでもなく少し俯き加減に瞳を伏せた。
そして虚ろなその瞳でベッドの中に眠る、もう一人の痩せぎすの、変わり果てた姿になった「セリア」を覗き込んだ。
小さい乾いた笑い声がウィザロの隣から聞こえてきた。

「……気づいてしまったのね」

ぽつりと、どこか寂しそうにセリアは呟いた。

「死んだ……。そうよ、死んだの、分かっているわ」

それはどこか自分を責めているような口調だった。
ウィザロの隣で、ベッドの中で眠る腐敗した自分自身の頬をそっと指でなぞったセリアの顔が悲しみに歪む。

「でも、止まらないの。生きたいの、どうしても止まらないのよ」

セリアは突然両手で頭を抱え込んで左右に激しく振った。
彼女の大きな瞳から溢れた涙が、動きに合わせてぽたぽたとベッドの白い布団の上に落ちて行く。

セリアがどんなに涙を零しても、ベッドの中で眠るもう一人のセリアはぴくりとも動かなかった。
青白い、と言うよりは土気色の顔をして、なにも言わずに目蓋を閉じている。
未だに床に就いた「セリア」からは、数多の花の匂いを打ち消した夥しい量の死臭が漂っていた。

「私が死んだのは、きっと風邪をこじらせたからよ」

急に真顔になりすっくと背筋を真っ直ぐに伸ばしたセリアは、涙で濡れた顔のまま天を仰いだ。
どこを見つめているのだろう、漠然と瞳を明後日の方へ見開きながら、彼女は憑かれたように口を開く。

「言ったでしょう。病院がある街まではここから歩いて二時間、馬車なんて大層なものないわ。どうしてもここから病院まで行って帰ってくるのには、半日かかってしまう」

彼女の言葉と共に周りの風景が歪んだ。
ウィザロは突然の空間の変化に驚いて、数歩後退りしながら周囲の異様な光景を見回した。

いつの間にかウィザロの隣からセリアの姿は消えていた。
いや、消えたのはセリアの姿だけではない。今まで大量の花で溢れ返っていた一室も、目の前にあったはずの大きな白いベッドさえ消えている。
今やウィザロの頭上では、さわさわと涼しげな音をたてて木々が枝葉を広げていた。

ここはどこなのか、ウィザロは突然の判断に苦しんだ。
自分は今まで確かにセリアの家の、それも二階の一室にいた。それは間違いない。
しかし頬を撫でる風の感触も身体を温める太陽の光までも、どれもが信じられないくらい本物だった。

「……あの日も、なんら変わりのない普通の日だった。ただ少し違ったのは、一羽の小鳥が家の前で羽を怪我して倒れ伏していたの」

場所が森の中からどこかの家の中へと移った。
ウィザロはいつの間にか、セリアの家の、先程まで寝ていた一階の部屋に立っていた。
朝、ウィザロが目覚めてすぐに身を乗り出した窓際では、隣から姿を消したはずのセリアが再び姿を見せて、金髪を肩の後ろに流して甲斐甲斐しく小鳥を介抱している。

「たまにあるのよ、動物が瀕死の際で私の家に来ることは。それがどうしてなのかは分からないけれど、きっと神様が私に下さった使命なんだわ。瀕死の動物たちを救えという……今までも幾度かそうして手当てをしてきた」

これは過去の映像を見ているのだと、ウィザロは咄嗟に直感した。
どこからか聞こえるセリアの声に合わせて、周りの風景も倣って変化していく。

しかし今の言葉は、曲げられないはずの過去のセリアの口から紡がれていた。
窓際に用意した何枚もの布の上に小鳥を乗せながら、過去のセリアは今の顔をして口を開く。

「その小鳥を手当てしてから何日かあとで熱が出た、風邪だと思った。ええ、案の定風邪だったわ。常備薬を飲んで小鳥の世話をしながらその日はすぐに眠りについた。寝れば治ると思っていた。けれど、何日寝ても何日薬を飲んでも、微熱は治まらなかったし咳はひどくなるばかりだった」

風景がまたも収束してから広がって、今度の舞台は二階の寝室へと移動した。
ウィザロは今、部屋の真ん中に立って、寝床でごほごほと激しく咳き込むセリアを見つめている。隣には現在のセリアが立って、同じく苦しみに喘ぐ過去の彼女自身を見ている。

「それで病院に……行かなかったんですね」
「ええ、その通りよ」

隣のセリアは小さく静かに頷いた。

「病院へは半日かかる、けれど小鳥だって羽を半分もがれたような形で傷口は深かった。とてもではないけれど、半日も放ってはおけない」

二人の足場が、セリアの言葉が終わると同時にガラガラと崩れ落ちた。
前後左右どこを見ても真っ暗だった。けれどウィザロもセリアも、どちらも特に驚きも狼狽もしなかった。

「あの日もただ薬を飲んで眠りについたの。意識がなくなる間際に、神様に祈ったわ。早くこの悪い風邪が治りますように、早く元の通りに森の動物たちと触れ合うことができますように……って」

セリアは出会った当初の美しく儚い顔をして笑った。
朝の葉から滴り落ちる朝露のような、そんなセリアの笑顔は周囲の雰囲気を和ませた。彼女に合うのは取り乱した姿ではなかった。
だがそれからすぐにセリアの顔は緊張をはらんだ面持ちになった。

「翌朝目が覚めてみたら、私は立っていた。ベッドの中にいる私を私が見ていた。不思議な感覚だったわ。客観的に見るだなんて、鏡とは大違い」

二人を取り巻く周りの風景は、時空を越える前の元の姿に戻っていた。
咲き盛りの花が部屋の中で一斉に花弁を広げている。目の前には白いベッドと、その中には命を失った彼女の本当の姿がある。

隣に立つセリアは黙り込んでいたが、しかしすぐにウィザロは強い力で肩を抑え込まれた。
ウィザロがぱっと顔を上げると、そこにはセリアが鬼気迫った顔をしてこちらを見下ろしていた。
セリアのウィザロのコートを掴む力が、そのか細い腕から繰り出されているのかと疑うほど強く加わってくる。

「お願いよ。私のことは放っておいて! なにも見なかったことにして、すぐにこの家から出て行って!」

必死の形相で食いつくセリアに、ウィザロは驚いた視線を送るだけでなにも言えずにいた。
二人の間にしばらくの沈黙が流れる。
未だに強い力で肩を掴まれていたウィザロだったが、ややあって顔を伏せると出し抜けに言った。

「……それは、なんのためですか?」
「え?」

セリアのウィザロの肩を掴む力がふっと瞬間的に弱まる。ウィザロは尚も言葉を続けた。

「それは、自分が生きたいからですか? それとも――」
「面白いことを訊くのね」

セリアはウィザロの言葉を遮ると、少し考え込んだあとで口を開いた。

「ええ……そうね。私が生きたいって言うのもあるけれど、でも多分心残りなのは……」

セリアはゆっくりと顔を上げて、部屋の天井の、どこか遠くを見つめた。
彼女の瞳はどこか夢を見るようなうっとりとしたものになる。

「森のことなのよ……」

セリアは言ってから突然、ふふと笑った。

「私の祖母は森を愛していた。私はそんな祖母が大好きだった。街の学校を出てすぐに、両親の大反対を押し切ってこの家に越して来たわ。寝ても起きても森が手の届く場所にある、それがなによりも嬉しかったの」

そう話すセリアの顔は、本当の幸せに満ち満ちていた。
セリアが何故、この若さでこんなにも森の奥深くに住んでいるのかが分かってきた。
きっと彼女は本当に森のことを愛していて、そして彼女の祖母をも慕っていたのだろう。
人の欲望など所詮は各々の心の底にあり、口に出さない限りは理解し合えない。皆の欲しいものが必ずしも一つにまとまるとは限らないのだと、思い知らされたような気がした。

「その祖母も数年前に死んで、必然的に家は私が引き取ったわ。でも、ここで私がいなくなったら、瀕死の動物たちを誰が手当てするの? 私がいなくなったら、彼らは助けもなくただ死んでいく……」

セリアはそこで急に強張った顔をすると弱く首を横に振った。

「そんなの嫌よ……。私が死ぬよりも、そんなことは嫌なの!」

再び溢れた涙が、セリアの白い頬を伝って流れて行く。
ウィザロの肩を掴む震える彼女の手の甲に、いくつかの雫が落ちては跳ねた。

「お姉さん」

涙に沈むセリアに対し、今までの暗い雰囲気を消し飛ばすように、ウィザロは明るい声で彼女を呼んだ。
そうしてそっと、自分の肩を掴む彼女の手を取る。

「いいものを、見せてあげましょうか?」
「……いいもの……って?」
「すごく心がほっとしますよ」

目を真っ赤に腫らしながらも泣き続ける彼女は、ウィザロの言葉に少し首を傾げたようだった。
ウィザロはにっこりと笑みながら、小刻みに震えるセリアの両手を自分の手ですっぽりと包む。

「僕と少しだけ、森を回りませんか?もっとも、少しばかり時間を越えてしまいますけどね」













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2008/03/03