二階へと続く階段をしばらく見上げたあとで、ウィザロはふと思い出して階段の下に座り込んだ。
手にしていた大きい鞄の鍵を外して開けると、そこには強引に折り畳んでであった三角帽子がひしゃげていた。
慌てて放り込むんじゃなかったと一応後悔するが、あのときは切羽詰まっていたのだ。仕方がない。

ウィザロは帽子の形を整えてからそれを目深にかぶり、ほっと息をついた。
やはりこの出で立ちでないと恰好がつかないらしい。着慣れるということは案外怖いものだ。

(ああ、この感覚……)

身体すべての感覚をいっそ恍惚とさせるような凄まじい冷気。
それがすぐそこにある。これから自分が対峙しなければいけないものも、まさしくそれに違いない。
そのときウィザロの口元に薄らと笑みが広がったのは、もしかしたら単に神様が見間違っただけなのかもしれない。









森の妖精  -第四話









ぎしぎしと足元で木々が擦れ合い、一歩ずつ上るたびに耳の奥を劈くような音を立てる。
もしかしたらその内、階段のどこかが外れて壊れるかもしれない。そう思えるほど階段は見た目からも長き年月を経ていた。

しかしこれはただ悪戯に年月を経たばかりではない。長く人間の足に踏まれていないからだ。
ウィザロはゆっくりと階段の床板を踏みしめながらそう思った。

ここに来て事情がようやく飲み込めてきた。
怖いとは思わない。魔術師に成り立ての頃はそんな感情もあったのだろうが、最近になって「別の意志」が先立つようになったためか、怖いというよりは使命だと感じるようになっていた。

ようやく階段を上り終えると、そこには一本の短い廊下が伸びていた。
廊下の左側には二つの扉が連続して面している。どちらも木製の古びた扉だ。

ウィザロは品定めするようにまた歩き始めて、少し考え込んだあとで立ち止まった。
これから行くべき部屋は奥の方の部屋ではない。
感覚からして、奥にはなにもない。なにも、と言うのはこの場合、なんの気配もないと言うことだ。あるのは恐らく押入れにつめ込むようながらくたばかりだろう。

(じゃ、手前かな)

ここで普通なら奥の方の部屋からこの空気を張りつめさせる冷気が漂って来てもいいものだが。それでこそ物語が急展開を迎える場面に相応しいだろうに。
ウィザロは内心苦笑しながら、手前の扉の取っ手に手をかけた。
そのまま自分の方へ思い切り引っ張る。しかし扉は開かない。

きょとん、と、ウィザロは数回瞳を瞬かせた。
手が勝手に、今度は扉を向こう側へいっぱいに押しやった。しかしまたも扉はびくともしない。
それからこれは引き戸ではないかと思って左右にスライドを試みたりもしたのだが、相も変わらず扉は無愛想に佇んでいた。

(……魔術を使うでもないか)

ふうと一回深呼吸をしたウィザロは、今度は力いっぱい自分の元へ扉を引き寄せた。
するとギギギと階段の軋み以上の鈍い音を立てて、扉は呆気なく開いた。どうやらなにかが扉の隙間に挟まっていたらしい。

だが急に現れた鼻を突く強烈な臭いに、目の前の光景は瞬時に歪んだ。
膝ががくんと折れて、ウィザロは辛うじて開けた扉の取っ手に掴まり身体を支える。空いている方の手で口元を覆った。

「……ごほっ」

胃酸が喉の辺りまで込み上げてくる。
頭が痛い、気持ち悪い。すぐにでもこの扉を閉めてしまいたい。

こんな匂いは今までに嗅いだことがなかった。
工場の煙突から出る黒煙の匂いとか、靴磨きの匂い、夜の酒場の匂い、雨のあとの湿った街の匂いなど思いつく限りのこれと似たような匂いを頭に浮かべてみても、どれともぴしゃりと一致しない。
吐き気に耐えるウィザロは、ようやく上げた視界の隅に、盛んに咲き誇る鮮やかな花々を捉えた。

すう、と廊下側に顔を向けて比較的新鮮な息を深く吸い込んだウィザロは、そのまま息を止めて立ち上がった。
さっきは匂いに圧倒されて気づかなかった。
扉の向こうの部屋は、溢れかえらんばかりの色取り取りの花で埋め尽くされていた。

ウィザロの足は花々の間を慎重に通り抜けていく。
どこからこんなに大量の花を運んできたのだろう。木の桶にいっぱいに摘まれた極彩色やはたまた淡い色彩の花びらが、床にも棚の上にも、天井からまでも吊るされているその光景は、不思議で不自然だった。
先へ進めば進むほど、花の匂いに紛れて先程の胸の奥を抉り取るような匂いが迫ってくる。

「く、ごほっ」

息を止めていたにもかかわらず、身体中の皮膚から染み込んでくる匂いにむせ込む。
途端に、辺りに蔓延していた花と正体不明の匂いとが一斉にウィザロの内部に侵入して再び只ならぬ吐き気を催させた。

しかし、その吐き気はすぐに消えた。
ウィザロは部屋の奥に花ではない大きな物を見つけて、ふとそれに気を取られた。

止まっていた足がゆっくりとそちらへ動き出す。
自分の体を取り巻く花が肩に触れようが髪に引っかかろうが、意識の内には入ってこなかった。
ただそれだけが気になっていた。一階から階段を見上げたときの冷気が、今になってまた内臓をそろりと撫でた。

そうして花の群れを掻い潜って近づいたとき、ウィザロはそれがなにであるかを一瞬で理解した。
木製の枠の上には優しく積み上げられた白い布団がある。苦しみの中で気にかかったもの、それはベッドだった。ここは寝室なのだ。
布団の上には花の「は」の字も見受けられず、ただ純真でそこにあるだけだった。

だがそのベッドに横たわっている人物を見て、ぞくりと背筋が震えた。
忘れかけていた匂いが鼻と口から躍り込んで来て全身に行き渡る。
それはそれまでに嗅いだことのない、あまりにも甘酸っぱい匂いだった。甘くて、でもどこか酸っぱくて、生臭くて、それに近寄りがたい。それらが微妙に溶け込んだ匂いだった。

今やその匂いが白いベッドに横たわっている人間から発せられている。
閉じられた眼窩はすっかり落ち窪んで、頬も大分痩せこけている。もはや人間の姿ではない、どちらかというとミイラに近かった。死後何日、いや何ヶ月経過しているのだろう、とても推測などできそうにない。
ウィザロは思った。この部屋に集められた花は、この匂いを掻き消すためのものなのだと――。

「なにしているの?」

嫌に高い声が、それまで静寂を保っていた空間に突如として響いた。
ウィザロは少し躊躇ってから、ゆっくりと身体を部屋の入り口の方へと向ける。

開けた部屋の扉の前に立っていたのは、見間違えることのない、薬草を摘みに出かけていたはずのセリアだった。
彼女は今瞳を大きく見開いて、瞬き一つもせずにこちらをじっと食い入るように見つめている。
ぎい、と、扉が少し動いて軋んだ。

「二階には行っちゃ駄目って言ったでしょう?」
「お姉さん、あなたは……」
「どうしたの、ぼく。そんなに真面目な顔をして」

セリアの顔はいつになく強張って、繊細な金髪は風もないのにふわふわと宙を舞っている。
これまでの優しい微笑みはない。今の彼女から感じられるものは、募りに募った絶望と憎悪ただそれだけ。

「あなたは本当は……」

小さく強く呟きながら、ウィザロは扉近くに呆然と立つセリアからベッドへと視線を戻した。
死しても尚輝く繊細な金髪。凛として力強く、けれどどこか儚く美しい寝顔。
確実に「彼女」は、この場所で永遠の眠りについている。それは紛れもない真実だ。

ウィザロはしばらくして再度扉の前に立つセリアを見た。
彼女もまた金髪を持ち、美しく整った顔立ちである。それはまさに、奇妙なくらいにベッドの中の死人と生き写しのよう。
二人を見比べたウィザロは、静かに、それでも確固とした口調で言った。

「あなたは本当は、死んでいるんですね。セリア・ドラクロワ」













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2008/02/28