第四章 -04 ごそり、と、なにかが動く音で、それまで浅い眠りに入りつつあった音色は目を覚ました。 つい数時間前まで開いていたパーティがいっそ嘘かもしれないと思えるほどの静けさに、音色は未だ夢の中にいるかのような感覚を覚えた。 ギリシャの閑静なリゾート地に堂々と建つアレンの別荘の内側にいて聞こえてくるのは、大分夜も更けたからか今は砂浜に打ちつける波の音、それと覚醒する寸前に耳にした謎の物音だけだ。 十時間以上にも及ぶフライトの疲れもあったので、今日に限ってはこのまま起こさずに眠らせてほしかったなと考えつつ、音色は眠気眼を擦りながらベッドから身を起こした。 周囲は真っ暗闇だったが、音の犯人はすぐに探し当てることができた。どうやらベッドからそう離れていない小さなテーブルの下に、“なにか”が身を潜めているようだった。 しかし、ふとあることを想像した音色は、それまで眠気のせいでうつらうつらしていた頭が急に冴え渡っていくのが分かった。 ここは日本ではない。ギリシャだ。最初は、きっとなにか虫が入りこんでいたのだろうとばかり思っていたのだが、もしかしたらそれは日本よりも遙かに温暖な気候帯に属するギリシャ特有の巨大な昆虫かもしれなかった。 そう言えば沖縄のゴキブリは関東よりも大きいんだっけ。うっかり考えたくないことを考えてしまった音色は、勢い顔を暗くさせた。 「……まさかね」 ふっ、と、音色が自嘲的な笑みを漏らしたまさにそのとき、再びごそりと嫌な音がまたもやテーブルの下から響いてきた。 「ちょっ! えええ、待って……動かないで……」 明かりをつけてその音の正体を見極めようにも、ベッドから降りて部屋の扉の傍まで行かなければ照明のスイッチはない。 音色は自分でも幻滅するくらい情けない声を出してしまうのが分かっていながらもどうしようもなかった。ただベッドの上で両手を突きながら、このままなにも見ていないふりをして再度眠りにつくか、それとも勇気を出してその虫らしき存在を仕留めるかの究極の二択を迫られていた。 これがテントウムシのような人畜無害な存在ならば総無視なのだが、ゴキブリのようなおぞましい系の虫になると話は別だった。 一晩びくびく怯えながら過ごすのは、体力的に、そしてなによりも精神的につらい。だからと言って直接手を下すのも躊躇われてしまう。 どうするべきか。しかし、退路を断たれて数分ともかからないうちに、解決策を出しあぐねていた音色の元に突如一筋の光明が差し込んできた。 「音色?」 音色は初め、その声を聞き間違えたかと思った。 なにせ日和は一階のダイニングルームでパーティを開いたまま、多くあるうちのどれかのソファでアレンとともに雑魚寝しているはずだったからだ。 だから、彼はどうあっても二階には来るわけないと考えていた。けれどこのときの音色は藁にも縋る思いで、扉の向こうから聞こえてきた声――日和の問いかけに慌てて答えた。 「えっ、日和?」 「どうかした? 今、悲鳴が聞こえた気がしたんだけど」 「えっと……ちょっと、その、虫が……」 もしかしたら自分のあの情けない声が階下まで響いてしまっていたのか。 音色は申しわけなくなりながらも、日和がここまで来てくれてよかったと心底彼に感謝した。 「俺が取ろうか?」 「ほんと? いいの?」 「入ってもいい?」 「え? あ、うん」 幸運にも部屋に鍵はかけていなかったので、音色はベッドから降りることなく日和の助けを得ることに成功した。 部屋の扉の取っ手がくるりと回り、この夜の静けさを象徴するかのようなゆっくりとした動作で扉は開いた。 顔には出さなかったが、音色はこのとき、ぎくりとした。 扉が開かれてすぐに日和の顔が見えた瞬間、ほんの一瞬だけその表情がひどく懐かしく感じられたのだ。 今までもことあるごとに感じたことはあるのだが、このときほど日和の姿がサーンとかぶることはなかった。土地柄のせいだろうか、なぜか気分が変な方向へ流されている気がする。 「どこ?」 「えっと、そのテーブルの下辺りに……」 「ああ、いたいた」 日和は明かりをつけることもなく音の犯人を探し当てると、ひょいと手を差し伸べた。 「おいで」 どんな生物が自分の睡眠を脅かしたのだろうと、日和の肩越しに音色もその音の主を一目見ようとした。 だが、日和の手のひらに予想以上に大きい物体が鎮座しているのを視界の端に捉えた途端、音色はさっと目を逸らした。 そう言えば、前にも日和は毛虫と難なく触れ合っていたっけ、地の卷属だからと言って。と、音色は数ヶ月前に行われた体育祭を思い出した。あのときも日和は自分の窮地を救ってくれたのだった。 そして今回も例に漏れず、日和はその虫らしきものをわざわざベランダに出てまで逃がしてくれたらしい。 ガラガラと大きな窓を閉めて無事ゲストルームへと生還した日和に、ようやく床に足をつけることができた音色はひたすらに頭が下がる思いで近づいた。 「よし、これで平気かな」 「あ、ありがとう! ごめんね、こんな夜中に……」 言いながら、音色は日和の顔を見上げた。しかし、そこで音色は、あれっと内心首を傾げた。 どこか遠くから、ブウンブウンと、まるで羽虫がゆっくりと飛び交うような低い音が聞こえてきたのだ。最初は遠いと感じていた音の距離も、次第に耳元で捉えられるくらいになった。 しかし、音色は分かっていた。この羽音は先程部屋で息を潜めていた虫のものではない。 では、そうでないのならいったいこれはなんの音なのか。 カタン、と、乾いた音がしたほうに反射的に目をやれば、日和の腕が音色の腰近くにあったエスニックな棚を掴んでいる。いつの間にか、音色は自分より背丈の大きい日和によって壁際まで追いやられていた。 そうしていとも簡単に、この奇妙な状況を回避するための逃げ場は失われた。 ぶわ、と、周囲の空気が一瞬にして異質なものへと変化する。 懐かしい匂い。整然と揃えられた数々の調度品に、暖かみのある蝋燭の照明。音色はなにかが変だと感じながらも、そのなにかに答えを出せないまま慌てて顔を上げた。 視線の先には、間違いなく日和の顔があるはずだった。 けれど、目と目を真っ直ぐ合わせて見下ろしてくる端整な顔を呆然と見つめながら心の奥底から湧き上がってきたのは、別の人物の名前だった。 (……サーン?) おかしかった。ここはエターリア国ではない。ここは日和やアレンのような裕福な家庭がギリシャに持っている別荘地の一つ、その中の一室なのだ。 頭では分かっているつもりだった。しかし、音色が次に瞬きをした瞬間、周囲の風景がすべてエターリア国の城内のものと取って替わった。 音色は、ああ、と、ここにきてようやく理解した。今も耳元でブウンブウンと絶え間なく唸っているこれは、無意識下においてかつての記憶が現実に浸食してくる音だ。 今までなにを勘違いしていたのだろう。自分の名はリーネで、彼もまたサーンだったではないか。 音色はゆるゆると感情が絆されていくような奇妙な感覚に身を委ねながら、壊れ物を扱うかのような手つきで腕を掴んできた大きい手にそっと指を這わせた。 だからここで自分たちが口づけを交わそうともそれは至極当然のことであって、なんら疑問に思う箇所はないのだ。 懐かしい匂い。そう、確かに自分たちはここで生を紡いだ。嬉しかったことも泣きたかったことも恐怖したことも全部、彼と一緒に体験した。 ずっと、ずっとこうしたかった。“身体を失ってから”できなかったことが、ようやくここにきて実現するのだ。そう思った。 なんの前触れもなく彼の澄ました顔がゆっくりと近づいてくる。けれど拒否しようとは思わなかった。 だって自分たちは今まで何度も何度もこうして愛を確かめてきたのだ。それが、なにを今更――。 そうこうしているうちに、あと少しで彼の吐息が感じられる距離にまで互いの顔が迫っていた。だが彼の気配を間近に感じた刹那、肌が触れるより先に、ちくり、と、彼の髪が頬を掠めた。 「…………日、和」 その場に相応しくない者の名を呼んだ自分の声に驚いた音色は、はっと正気を取り戻した。 音色と日和を取り巻く環境は、つい数十秒前までの、ギリシャの別荘の一室に戻っていた。 今、自分たちはなにをしようとしていたのか。音色は唖然としながらも、日和の手が確かに自分の腕を掴んでいるのを見た。 少しの間だったが、自分たちの思考回路はもちろんのこと、周囲の風景をも巻き込んで過去に意識が飛んでしまっていた。 完全に言葉を失った音色と同じく日和もしばらくは目を丸くさせていた。 しかし、日和はすぐに腕を掴む手にぐっと力を入れる。そのまま人形のような芯のない状態の音色の身体を引き寄せると、額に軽く口づけた。 「おやすみ」 音色の頭上でそう小さく言い残して、日和はそれ以上なにをするでもなく部屋をあとにした。 彼の「おやすみ」に対して、音色が言い返す間などまるでなかった。一人部屋に残された音色は、ぱたん、と、静かに扉が閉じられたそのどことなく寂しげな光景だけを見送った。 先程の異様な雰囲気の変わりようもそうだったが、今の日和の行動の真意はなんだったのか。 次々に降ってくる理解不能な事案に思考回路がショートしそうだった音色は、しかし日和がゲストルームから立ち去って数秒後、唐突に、あ、とある考えを思いついた。 今の記憶の逆流みたいな感覚は自分だけが感じたもので、日和が自分の腕を掴んでいたことも額にキスをしてきたことも、もしかしたら外国風の挨拶の仕方なのかもしれない。なにせここはギリシャなのだし。 すぐに思いついたにしてはまあまあ筋の通ったに理由づけに、なるほど、と、音色は一旦は納得しかけたが、いや、そんなわけがないだろう。とすぐに思い直した。 勝手な予想ではあるが、日和もこちらが正気に戻ってすぐは少なからずあの状況に驚いていた。と、すると、互いに予測不能な事態だったわけで、しかし、だがそうなるとあのキスの意味は――。 そこまで考えた音色は、顔が一気に赤くなったような気がした。 明日は日和の顔を直視できないかもしれない。音色は寝巻の袖口で口元を抑えながら、まだどことなく彼の温もりが残っているような気がして、震える手を額にそっと差し伸べた。 この場所、ギリシャに来てから、どこか自分はおかしいと薄ら感じてはいた。 それはまるでサーンの記憶が時を超えて現在の自分と違和感なく癒着したかのような、妙にすんなりとこの異国の風土に身体が馴染んでいくかのような、言葉で言い表すならそんな感じだ。 音色が寝ている二階に足を向けたことに理由はない。ただ、ふと目が覚めて寝惚け眼のままぼうっと建物の中を歩き回っていたら、いつの間にかゲストルームの前まで来てしまっていた。 そこで偶然、扉の向こうで音色も起きていることを知った。さらに夜の月明かりを背景にした彼女の顔を目にすることができた。 しかし、そのとき垣間見た音色の表情や仕草、立ち居振る舞いなどはあまりにも前世を、リーネを彷彿とさせた。 気がついたときには、周囲の雰囲気までもが心なしかエターリアに取り替わっていた。自分の意識までもが別人に支配されているかのようだった。 そんな中で掴んだ彼女の腕は、なぜかリーネではなく音色のものだと分かった。理由は定かではない。 けれど、自分は未だ別人に意識を支配されているふりをし続けた。便乗したのだ。その状態で彼女に口づけてしまえば許されるのではないかと、頭のどこかでそう考えついたせいなのかもしれない。 だが、そんなのただの誤魔化しだ。自分が傷つかないように赤の他人の面を借りているも同然のことだ。 別人に成りすましたところで、当の本人が本人の意思をもって彼女に触れなければまるで意味がないことなのに――。 『……アレン』 『ん? どうかした?』 再び夜の静寂が別荘中に満ち始めていた。そんな中、ようやくのことで二階から降りてきた日和は、アレンが寝そべっているソファのある広いダイニングルームで足を止めた。 名を呼ばれて、いかにも眠そうな瞳を擦りながらもアレンは上半身を起こして日和のほうを振り向いた。 『頼む。俺を一発殴ってくれ』 『なんで!?』 アレンは、それまで湛えていた眠気が嘘のような素っ頓狂な声を出した。 彼には分からなくていい。この件にかんしては、音色でもアレンでも誰かに罰せられればそれでよかった。 きっと、これは一目惚れと言うやつなんだ。 初めて音色と出会ったとき、あの夢の中でしか訪れることのできない銀幕の世界で音色と邂逅したとき、あのときの自分は確かに、出会えた、と、思った。その感情は紛れもなく、一種の悦びだった。 けれど、当時は然程彼女に執着していたわけではなかった。 翌日、市立咲が丘中学校に登校してみれば夢で見た通りの姿の音色が同じ教室にいた。そのあとなんだかんだあって、場の流れで音色にリーネを召喚させた。 彼女のことを初めて心から「欲しい」と思ったのは、きっとそのときだ。 リーネを召喚させてすぐ、突然脳裏に刻まれた前世の記憶に耐えられなくなっている音色を介抱した。なぜなら、自分もサーンの記憶を受け止めたときはまず混乱したし、なによりも次から次へと瞳に涙をあふれさせる音色の姿が痛ましかった。 けれど、そんなこちらの考えを分かっているのかいないのか、音色は己のことではなく緑木日和と言う人間のことを気にかけてきた。震えるその手で、必死にこの学生服を掴みながら。 ――違う。悲しみは同じでしょ。緑木君も、辛かったはずだって、私はそう思うから……。 世界が一八〇度回転したかのような心地がした。 容姿や家柄に惹かれて“形だけ”の親切を取り繕って寄ってくる人間は多かった。しかし、自分のことをこれほどに気遣い、想ってくれる人が、今まで傍にいただろうか。そのとき初めて彼女を「欲しい」と思った。 愛しい。愛しい。誰の手にも触らせたくない。特に“あいつ”の手だけには触れさせたくない。だから閉じ込めてしまいたい。誰の手も届かないよう、自分だけの檻の中にしまっておきたい。この国に足をつけた瞬間からそんな変な感情ばかりが募っていく。 理解しているのだ、これが歪んだ愛情だと言うことくらい。それでもどうしようもないのだ。 転生するまでに数百年を要したためだろうか、それともこれが音色に向けることのできる愛の形だと言うのか。だが、この感情の根本にあるものがなんにせよ、初めて心からその存在を求めた彼女に嫌われない方法で彼女に触れたかった。 前世だから、とか、そんな括りは既に関係ない。 きっかけは前世だったかもしれない。それでも自分が「欲しい」のはリーネではなく、リーネの後世である音色でもなく、今の音色なのだ。 BACK/TOP/NEXT 2013/02/14 |