第四章  -03







ギリシャの中でもやや内陸部に位置する首都アテネから、国道に沿って車で南西へ走ること約一時間。
程なくして眼前に開けた風景に、それまでぼうっと車窓越しに外を眺めていた音色は思わず身を乗り出した。突然視界に飛び込んできたコバルトブルーの海はパンフレットやガイドブックで見た通り、いや、もしかしたらそれ以上の鮮明さで八月も間近な太陽の光を受け止めていた。
アテネ行きの機内から見下ろしたとき以来の海の青は、音色の眼球を一瞬にして焼き尽くした。

「わ……」

あまりにもすんなりと、喉から感嘆の声が出た。
今にも車外に飛び出したくなる衝動を抑え込んで、それでも音色は後部座席の窓のギリギリまで身を寄せると、手前に続く鮮やかなグリーンの植え込みの向こうに広がる地中海を眺めては目を輝かせた。

これから自分たちが泊まるアレンの別荘は、アポロ・コーストと言うギリシャ南西部の海岸沿いに広がるリゾート地にあるらしかった。
その証拠に、海が見えるようになって程なくして、エキゾチックな白い壁の家々がぽつりぽつりと姿を見せるようになった。

「トウチャク!」

アレンのビビッドレッドのスポーツカーが止まったのは、その白い壁の家々の中でも一際どっしりとした構えを持つ邸宅の前だった。
黒い鉄柵をくぐると邸宅の前まで白い砂利の道が延びている。道の脇には、いかにも南国を想起させるかのような濃い緑の木々が蒼穹に向かって真っすぐに枝葉を広げていた。
そのまま奥に進むと、大きな窓がいくつか嵌め込まれているのが印象的な建物が音色の目を引いた。別荘と言いきってしまうには少し規模が大きすぎやしないかとも考えたが、ところどころに長く風雨に曝されていたかのような風合いの木製のチェアが置かれているのが、なるほどこれはいかにも別荘だなと思わせる。

「すごいね、こんなところに泊まってもいいの?」
「ここはありがたく使わせてもらおう」

音色がほうと蕩けた目で別荘を見上げながら話しかけると、日和も苦笑して応えた。

『オーケー、それじゃあ準備に移ろう』

アレンに促されて、音色と日和はスポーツカーから降りた。
このとき、客観的に全体を捉えてみて分かったのだが、どこからどう見てもギリシャの閑静な保養地にしか見えない場所にどーんと赤いスポーツカーが居座っている状況は、あまりにもスポーツカーの放つ色彩が鮮明すぎて若干この場に似合っていないような気がした。
国道を颯爽と走っているときはそうでもなかったのだが、意外だ。

『ヒヨリー。そっちの荷物をリビングに運んでくれない?』
『この大きい紙袋か?』
『そう、それとあとそっちの段ボール箱も頼むよ』

日和とアレンがなにやら英語でやりとりしているのを聞き流し、音色は座席の奥のほうからスーツケースを引っ張り出してその場に立ち尽くした。
数時間前の自分がいかに些細なことでいちいち驚いていたのかがよく分かるところだなと思った。

『去年のニューイヤー以来使ってなかったから冷蔵庫になにもないんだよー』

依然としてアレンや日和の会話の内容は理解できない。
それでも、彼らがトランクからさまざまな調度品やら紙袋やらを引っ張り出しているのを見て自分も手伝わなければと思った音色は、そっと日和の傍に近寄った。

「あの、日和」
「ん? ああ、はいこれ」

音色は、急に手のひらに載せられた銀色に光る物体を見つめて目を白黒させた。

「え、これ……鍵?」
「そうそう。先に表のドアを開けておいてくれる? 俺らは先に食材を運んじゃうからさ」
「私もなにか運ぶの手伝うよ?」
「大丈夫、大丈夫」

日和に半ば強引に背中を押される形で、音色は自分のスーツケースとともに別荘の扉を開いた。
がちゃり、と、恐る恐る玄関の扉を開けると、ビーチがすぐそこまで迫っているためか、砂浜に打ちつけるさざ波の音さえもが部屋の中に響いてくるのが分かった。

本当にギリシャにいるのだな、と、思った。
外観をパッと目にしたときはすべてが白い石で造られているように見えたのだが、一旦別荘の内部に立ち入ってみると、とこどろころに木の温もりが感じられてこれまた意外な発見だった。建物自体は二階建てになっており、ただでさえ広い空間がさらに幅広く強調される造りになっていた。
さすがは日和の友人が持つ別荘である。音色は、むやみやたらにそこら中を汚さないよう慎重に歩を進めた。

「あ、そうだ! 音色!」

自分の名を呼ぶ聞き慣れた声に、ダイニングルームまで進んでいた音色は玄関先まで踵を返した。

「なに?」
「俺とアレンは一階を使うから、音色は二階の部屋を使って」
「一人部屋? いいの?」
「逆に俺らと一緒だとまずいだろ?」

ぷっと吹き出す日和に、あ、そうか。と、音色は改めて自分の立場を思い知らされる。
この場所で女は自分一人だけだったのか。アレンはともかく、日和とは長く行動を共にしていたせいでまるで性別を超えた関係のような感覚でいた。と、言ってしまうと、日和には悪い気がしてしまうのだが。

「アレンが言うには扉が開いてて綺麗なほうがゲストルームだってさ。他に分からないことがあったら遠慮なく聞いて。アレンが前もって片づけてくれたみたいだけど」

荷物を抱えながら説明してくれた日和に、ありがとう、と大声で伝える。元いた場所まで戻った音色は、大きいスーツケースを抱えて、ダイニングルームの奥にあった階段を上がって二階へ向かった。
二階に上がった音色は、すぐに二つの扉を見つけた。短い廊下の両脇にそれぞれ一つずつ木製の扉がついていて、右側の扉は閉じられていたが左側の扉は開いたそのままストッパーがかかっていた。
恐らく左が自分専用のゲストルームなのだろう。音色は、よっこいしょ、と、最後の力を振り絞って、スーツケースを二階の踊り場に持ち上げた。

しかし、音色はゲストルームに入って真っ先に、異様な光景に目を奪われた。
もちろんゲストルームは広くて清潔感があり、パンフレットなどでよく目にするリゾートホテルの一室さながらの豪奢さだった。
けれどそれ以上に強烈だったのは、扉を開けた真正面にバルコニー付きの大きく縁取られた窓が設けられている。その窓に向かい合うようにして、目が眩むほどに繊細な銀色がいつの間にか部屋の中央に佇んでいた。それはどこか夢のような幻想的なワンシーンだった。

「リーネ?」

日本を飛び立って以来、すっかり姿を見せていなかったリーネが今なぜか目の前にいる。
音色の記憶が確かならば、リーネが音色の呼びかけもなく自発的に姿を現したのはこれが初めてのことかもしれなかった。
呼びかけてからややあってこちらに振り返ったリーネの表情には、どこか薄らと温かい感情が満ちていた。

『ついに、ここまで来たのですね』

口元をふっと緩めて、呟くようにして言う。
そのリーネの一言の真意をすぐに理解した音色は、静かにリーネの横に歩み寄って、彼女と同じように窓の向こうに広がる青々とした地中海に目を移した。

「うん。分かるよ」

リーネはなにも返してこなかった。音色もそれきりなにも口にしなかった。
けれど、互いになにも言わなくても分かった。なにせ、私は私なのだ。私はリーネで、リーネは私だと、音色はこのとき強く思った。

ずっと違和感があった。リーネは自分の前世だと言うのに、自分とはまるっきり異なった存在であるかのような感覚。記憶は受け継いでも、肝心の心までは引き継げていないと常々感じていた。
しかし、ギリシャに来てあちこち歩き回った頃だろうか。温暖な気候がエターリアと似通っているせいもあったのかもしれない。
この場所に来てしばらくしてようやく、音色はリーネがエターリアで見聞きしていたことが自分の経験の一部であったと認められるようになった。嬉しかったことも泣きたかったことも恐怖したことも全部、リーネが感じたことは確かにいつしかの自分が抱いた感情だったと、音色はそう思えるようになった。

あのときとは身体も時間もまるで異なっているけれど、それらを超越して確かに“私”はこの場所で生きた。
そうして熱量を伴ったギリシャの風を肌で感じるとき、どこからともなくエターリアの匂いが鼻孔を掠めていく気がするのだ。

それからリーネはなにも言わずに姿を消した。
ただ、リーネの表情が終始穏やかだったのが、やはりギリシャに来たことは間違っていなかったのだと証明されたかのようで、音色は少し嬉しくなる。

そのあと、日和がげんなりとした疲れきった顔をして二階まで音色を呼びに来た。なんでも、アレンが食材を買い込みすぎて室内に運ぶまでに相当手間取ったらしかった。
その日はアレンと日和と一緒に小さなパーティを開いて、飽きるまで食事をして笑い合った。ようやく寝床に入ることができたのは、日付が変わるか変わらないかくらいの頃になってからだった。













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2013/02/09