それははたして夢だったのか現実だったのか。 もしそれを仮に夢だと定義したのなら、これから起こることへのささやかな前触れなのか。 今となっては姿形をよく思い出せないのだが、音色は確かにそこに「人」を見た。 そこはかとなく既視感が漂う銀世界の中、青のような銀のような色素の薄い影が目の前にいて、たいした風も吹いていないのにゆらゆらと揺らめいていた。 その人物はなにも言わず、ただじっとこちらを見つめるだけだった。音色もしばらくは同じようにその影と向かい合っていた。 しかし、音色はあるときを境にふと、これはおかしいと思った。 今のこの状況ははたして夢なのか現実なのか。百歩譲って夢だと判断するにしては妙にその場の感触がリアルだったし、だからと言って現実と言い切ってしまうには現実にあるべき要素が圧倒的に抜け落ちていた。 だとしたら、これはいったい“なん”だ? 一瞬にして湧き起こった疑念が身体をいっぱいに包む。それでも分からなかった。 その答えは、のちに身をもって知ることになるのだけれども。 第四章 -05 「ポセイドン神殿?」 音色が言われた言葉を一字一句そっくりそのまま聞き返す。 するとまるで映画の始まりにでも出てきそうなくらい鮮やかで開放的な青空をバックにしながら、黒のサングラスをかけたアレンが運転席からイエスと言って振り返った。 金髪の彼の向こうには見渡す限り、空より格段に深い色をした地中海の鮮やかな海原が広がっている。 「ポセイドンって……なんだっけ。聞いたことはあるんだけど」 「ギリシャ神話に登場する海の神だよ」 音色と同じく後部座席に座っていた日和がそれとなく答える。 日本の、肌に纏わりつくような湿度の高い風とは違うどこかあっさりとした風が、一瞬ぶわと音色の衣服を舞い上げた。 「その、ポセイドン神殿? ……が、どうかしたの?」 「俺らが泊まっていた別荘の近くにあるんだってさ。穴場スポットらしくて日本人観光客はあまり足を延ばさないんだけど、ちょうどいい機会だから飛行場に行くついでに立ち寄ってくれるらしいよ。車に乗りながらのスピード観光だけどね」 「ホラ、見テ!」 アレンが指し示す方向に目をやる。すると、車の前方に薄らと見えてきた海岸線のやや突出した部分に、早朝のギリシャの清々しい朝日を浴びてなにかがどっしりと居を構えているのが分かった。 よくよく目を凝らしてみれば、海を臨むようにして切り立った崖の上に建っていたのは、パルテノン神殿に勝るとも劣らない何本もの荘厳な白い柱だった。 「へえ……。なかなかいい遺跡じゃないか」 「ウン、オレもあそこは好きダヨ! ノンビリできるしネ!」 日和とアレンが盛り上がっている。が、音色は胸の奥で心臓が鈍く拍動するのを感じた。 自分はなにかを忘れていやしないだろうか。まだギリシャに来て二日目の、しかも早朝もいいとこなはずなのに、この土地に来てから起こったとても重要なことを置いてきぼりにしてしまっているような不安が胸中に燻っている気がする。 それと、もう一つ。あのポセイドン神殿とやらを眺めていると、逆にどこかから誰かに見られている錯覚に陥るのだ。 音色は、日和やアレンに悟られないように視線をそっと神殿から外した。 だが、その見られている気配と言うものは、決して不快感を覚えるものではなかった。 譬えるならば、こちらが相手を視認していないにもかかわらず向こうはこちらを熟知しているかのような、そんなアンバランスさがとてつもなく気持ち悪いだけだ。その視線の大元には不思議と嫌悪感の類の情は抱かない。 どこからかやってきた風がそろりと明後日の方角を見据える音色の頬を撫でた。けれど、音色は二度とポセイドン神殿のほうを向こうとはしなかった。 そう言えば、ポセイドンとは海の神なのだと、日和は言った。海の神、とすると、水の卷属である自分になにかしらの関わりがあるのだろうか。 大した根拠もなく漠然とそんなことを考えていたそのとき、ふと音色の脳裏に一つの影がよぎった。 青色のような銀色のような色味をして、自分より一回りか二回りくらい大きい“なにか”。 しかし、その存在は音色にとってとても既視感があるはずなのにまるで答えが思い出せなかった。 なんだ? この記憶は、いったいどこで手にしたものなのだ? けれど、音色がいくら記憶の糸を辿ろうとしても望んでいた正解には辿りつけなかった。 もしかしたら、先程感じた忘れかけていたとても重要なこととは、この影ではないのか? それなのに、なぜ自分は思い出すことができないのだろう。 音色が自分の記憶を疑って勢い額に汗を感じ始めた瞬間、スポーツカーがキキッと甲高い音を立てて停止した。数秒遅れて、音色の身体はがくんと前方に倒れる。 「サテ、楽しい空ノ旅がスタートダヨ!」 いつの間に運転席から降りていたのだろう、車外から後部座席にひょっこり顔を覗かせたアレンはにっと笑んだ。 音色があれやこれやと考えごとを巡らせている最中に飛行場に着いたらしい。周囲の風景は、雄大な海岸線からどこまでも茶色の大地を見渡すことのできるやや開けた場所へと変わっていた。 『ヒヨリ、関係者と話つけてくるから出発する準備をしておいてくれる?』 『分かった』 アレンは早口の英語で日和に言づけてから、少し離れた場所にある白塗りの建物へと歩いていった。 「アレンさんは?」 「ああ。多分今日のフライトの確認かなにかだと思う。ここの関係者と話をしてくるから先に準備をしておいてくれってさ」 「あ、そうなの」 音色は短く息を吐いた。なにかを忘れかけているとしても、それが思い出せないのであれば仕方がないのだと自分に必死に言い聞かせる。 忘れるくらいのものならば然程重要なことではないとはよく言ったものだ。 「音色?」 だが、そうやって一人俯く音色の様子を、具合が悪いと思ったのだろうか。 表情をよく見ようと日和の指が視界の端に飛び込んできたところで、音色はようやく日和がこちらを気にかけていることを知った。 「酔った?」 「ううん。ごめん、なんでもないの」 「そう? 酔い止め、いる?」 「大丈夫。飲んできたから!」 「じゃあ平気だ」 とりあえず出ようか。そう言って先にスポーツカーから降りた日和の背を、音色はぼうっと見つめた。 完全に先手を取られた。突然見せられたポセイドン神殿に気を取られすぎて、もっと身近にあった問題を音色はすっかり忘れていた。 昨夜日和との間に流れたあの異様な雰囲気を忘れたわけではない。むしろ今もまだはっきりと覚えている。 しかし、今朝目覚めてから現在に至るまでの日和の態度は、昨夜の態度のみが異常だったのではないかと勘繰るほどに普通だった。 まるで音色の額に口づけをして「おやすみ」と言い残したことも忘れているかのような素振りで、あまりにもいつも通りにこちらに接してきたので音色のほうが戸惑いを覚えたくらいだ。 やはり、日和にとってあれは外国式の挨拶にすぎなかったのか。 (……なんだ) 次の瞬間、音色はどこか落胆する自分に自分で驚いた。 外国式の挨拶でなかったらどうだと言うのだ。仮にあの口づけに挨拶以上の意味があったとして、自分はどう応えるつもりだったのか。 音色は、ちら、と、もう一度だけ顔を上げて、遠ざかりつつある日和の背中を垣間見た。 昨夜はその身体がこちらを向いていて、その腕がこの腕を掴み、そして顔は吐息が感じられそうなくらいに近づいていたと言うのに。 ねえ、日和。と、思わず呼び止めてしまいそうなところをぐっと堪える。 薄々感じてはいた。気づいてはいた。 けれど、それは咲が丘中学校に在籍する他の女子生徒が抱いているものと似たような、もっと軽いものだと思っていた。 それなのに今この胸の中で蠢く感情は、そんな他人のものと代用が利くようなかわいいものではない。 日和。日和、ごめんなさい。音色は思わず心の中で深く懺悔した。 前世は前世、現世は現世でこれっぽちも関連性がないのに、昔と今は違うって頭では理解しているつもりなのに、どうしてか私はまだ日和に触れたくて仕様がないみたいなの。 BACK/TOP/NEXT 2013/11/10 |