第四章  -02







『ヒヨリー! 久しぶりだね!』

日和と顔見知りだと言うその彼は、日が地平線を目指して大分沈もうとし始めた頃、清々しいほどの笑顔を携えてやってきた。
人懐っこい笑顔に、キャスケット帽の下からちらちらと眩しい金色の髪を覗かせて、人通りの多い空港ロビーを突っ切って駆け寄ってくる姿はまるでどこかの飼い犬のようだ。
しかし、一方の日和は真顔でばっさりと彼の挨拶をぶった切った。

『遅い!』
『それ正気? 愛車をぶっ飛ばしてここまで五時間で迎えにきたんだよ? もっと称えてくれよー』
『と言うか、お前が空港を間違えていなければこんなことにはならなかったんだよ……』

こともあろうか、日和が手慣れた英語で外国人と流暢に会話している。
彼の雄姿は機内やカフェでさんざん目にしてきたはずなのに、まるでそこにいるのは自分が知らない日和のようだった。音色は、おお、と二人が早口の英語でやり取りしているのを、彼らから幾分離れた場所で眺めた。
もちろん英語のテストの結果が芳しくない音色には、彼らの話している内容はまるで理解できない。

『ところで、その荷物なに? お土産買うの早くない?』
『ああ、さっきアクロポリスに行ってきたんだ。暇だったから』

金髪の彼が、ひょいと日和の手にしている紙袋を覗き込む。
実は、ほんの数時間前までは空港で暇を潰そうと考えていた音色と日和だったのだが、どうやらアレンが到着するまでに時間もかかるし折角だからと、日和の案内でアテネの一大観光地と言っても過言ではないアクロポリス周辺を散策していたのだった。

音色にとって初めての海外観光地が、かの有名なパルテノン神殿だったのはかなり幸運であったと言えよう。
青い空を背景にして白い神殿がくっきりと浮かび上がる見事なコントラストは、恐らく一生かかっても忘れることはできないだろう。たった数時間の観光だったが、それくらいにアテネの街は美しく、また荘厳であった。
ただ、やはり日和の友人を置いて自分たちだけ悠長に観光してしまったことには、未だに罪悪感を覚えているのだが。

『アクロポリスまで? ヒヨリ一人で?』
『え? いや、彼女と……』
『彼女?』

しかし、なにやら日和の一言で、それまで仲睦まじく談笑していたアレンの視線が、会話の輪から一人外れていた音色に注がれる。
そうしてそこで、今初めて音色の存在に気づいたと言わんばかりの彼の瞳と音色の瞳とがばちりと合った。
かと思えば、すぐにアレンはぱあっと頬をほころばせる。

「ハジメマシテ。アレン・スタンフォード、デス」
「あ、初めまして! 流水音色です!」
「ネイロ!」

アレンのそのいかにもな外見に日本語と言う組み合わせは、とても意外だった。
日本語が話せたのか。音色が驚いていると、こちらの考えを読み取ったのか、ヒヨリのお陰で少しだけ、と、アレンはつけ加えた。

『ヒヨリー』
『……なんだよ』

アレンが、口元に意味深な微笑を浮かべながら日和の肩に腕を回す。

『聞いてないよー? 友達連れてくるって言うから誰かと思ったらガールフレンドとは、ヒヨリもやるねえ。可愛い子じゃないか』
『まだガールフレンドじゃない』
『まだ?』
『……頼むからいちいち揚げ足を取らないでくれ』

本当に仲がいいんだなあ、と、音色はこちらに背を向けてひそひそ話し始めた二人を見て少しだけ笑った。
アレンは自分たちより年上に見えるのに、年齢や国などお構いなしに気さくでいい人そうな印象だ。

だが、ふと、日和とアレンが仲睦まじそうに言い合っている姿を見て、音色は、あれ、と、首を傾げた。
いつかどこかで、こんな光景を見かけたことがあった気がする。が、あともう少しのところで思い出せない。

「ん? どうしたの、ネイロ?」

しかし、ぱっとこちらを向いたアレンの顔を見て、音色はすぐにそれをどこで見たのか思い出した。

「アレンさん、日和と仲良しですね!」
「デショー? オレと親友ダヨ!」
「調子に乗るな」

二人の性格は面白いほどに前世と正反対なのだが、いや、だからこそ。
音色は目を細めた。そうするとどことなく、前世の彼らの姿が数百年の時間を超越して現在の彼らの姿に重なってくる。

――ああ、これは王妃候補様、いかがなさいました?

恐らく日和はまだ気づいていないのだろう。
髪の色や言動こそ違えど、アレンの顔つきや佇まいなどは日和の前世であるサーンにつき従っていた彼――ハロルドそのものだ。

そうか、と、音色は心の底で合点した。生まれ変わっても、人は縁のある人のところに自然と行ってしまうのか。
それが幸か不幸かは分からない。けれど、音色は思わず目頭に熱いものを感じた。
きっとアレンは覚えていない。それでも彼らはまたこの時代で出会って、再び親密に話をしている。

よかった、よかったね。
誰が、なにが「よかった」のかは上手く説明できないけれど、音色はただひたすらにそう思った。
しかし、本当は分かっていたのだ。それは、“あのとき”強引に一国の歴史を閉じさせてしまったことに対する、自分が過去に犯した罪の意識がもたらすものかもしれなかった。

「と、ここでいつまでも居座るのもなんだし、そろそろ移動しないか? 日も暮れるだろうし」

うっかり涙が零れそうになるのを抑えて、音色は日和の言葉に顔を上げた。

「オッケー! チャンと愛車で来たからダイジョウブ!」
「『ちゃんと』俺ら二人も乗れるんだろうな?」
「ノープロブレム!」

アレンは挨拶をしたそのハイテンションのまま、空港の駐車場に音色と日和を案内した。
世界でも有数の観光国、アテネの国際空港の駐車場には、ありとあらゆる種類の車とさまざまな国籍のナンバープレートが、世界のモーターショーの如くずらりと揃っていた。
しかし、アレンが二人を案内したのは、その数ある車種の中でもとりわけ目を引くビビッドカラーの赤い車体の前だった。
アレンがさっさと車のキーを差し込んでエンジンをかける傍で、音色は呆然とその場に立ち尽くした。

「おお、オープンカーだ……初めて見た」
「これお前の車?」
「モチロン!」

このド派手な車を、アレン曰く北の都市テッサロニキから「ぶっ飛ばして」、遠く離れたここまで来たのか。
音色は、オープンカーでギリシャの道路を疾走するアレンの横顔を思い浮かべた。なかなか様になっていて否定するところなどなかった。

「えっと、今日はこのままどこに行くの?」
「ああ、アレンの別荘だよ。泊まらせてくれるらしい」

事もなげに言ってのける日和に、さすがは日和とその友人だと、音色は彼らに内心感心すると同時に感謝する。

「それにしても、アレンさん? 私たちよりちょっと年上なだけなのに、こんな車運転するなんてすごいね……」
「そうかな? と言っても、アレンは今年で二十だからなあ。他の同世代に比べてやや童顔ではあるけど」
「二十!?」

先程の、日和とアレンがなにやら言い争っている姿を思い出して音色は一人驚嘆した。
アレンが二十、と言うことは、自分たちと確実に五歳は離れている計算になる。それなのに日和のあのまるで光之に接するような態度は、まさしく親友であるからこそできる所作だ。
音色は、日和の交友関係の広さをしみじみと痛感した。

「ちなみにアレンは明日セスナを操縦する」
「えっ」

車のエンジンがかかって、音色と日和が車の後部座席に乗り込むなり日和が発した一言に、音色は本日何度目かの素っ頓狂な声を上げた。

「セスナって、あの飛行機のセスナ……?」
「ソウダヨ! ドナウ川周辺は車ジャ面倒ダカラネ!」

運転席からこれ見よがしに笑顔を振りまくアレンに、音色はただ引き攣った笑いを提供することしかできなかった。
面倒だから飛行機で、と言う発想はどこから来るのだろうか。
そもそもアレンが飛行機を操縦すること自体に突っ込むべきか。いや、はたまた飛行機で移動することをなんとも思わない日和とアレンの感覚を指摘するべきなのだろうか。
そうして、音色がなにが道理に適っているのか適っていないのかをぐるぐる考え始めたと同時に、アレンの運転するビビッドレッドのスポーツカーは彼の別荘に向けて悠然と出発した。













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2006/10/15