ひとたび街を歩けばどこにでもいそうな普通の容姿、普通の性格。
しかし彼女は常人の見えないところに"なにか"を隠し持っている。正体は分からないがそれだけは自信を持って言えることだった。
そしてそれは、ここ最近どうしてか単独行動をし始めた「彼」についても言えることであった。

以前まで、もっと言うとこの藤波市に住居を移すまで、彼は誰から見ても従順すぎるほどにいい子だった。
それなのに数ヶ月ほど前から彼は自主的にあれこれ動くようになった。しかもそれがなんなのかを他人には明らかにはしない気配で、ずっと彼の成長を見守ってきた自分としてはなんだか寂しいような悔しいような、ちょっとくらい構ってくれてもいいんじゃないかと思わせるくらいとにかく複雑なのである。
これが成長期と言うものなのか。しかしそれにしては彼はあまりにも大きすぎる責任感に押し潰されそうになっているようにも見受けられた。

いやあね、疑り深くなって。歳の所為かしら。
ふと一瞬でいろいろな可能性を考えてしまった女は、ここに越してきてから少ない暇を見つけてはせっせと手を入れてきたお手製の花壇を眺めながらやにわに呟いた。
するとほぼ時を同じくして、彼女の周囲に生い茂る裏庭の木々が風に揺れた。
彼女の頭上に降り注いでいた夏の木漏れ日も、ちらちらと激しく点滅を繰り返し始める。

「……あらあら、今日は訪問者が多いわねえ」

彼女が回想をやめてくすくすと微笑しながら車椅子ごと振り返ると、花壇から少し離れたところに一人の老年の男が真っ直ぐ立っていた。









第三章  -22









今日はなんの予定もない休日だと言うのに、男は普段と変わり映えのしない黒のスーツに身を包んでいる。
だが彼のその几帳面さが、いかにも現在の緑木家当主の気に入るところらしかった。
そうしていかなるときも冷静沈着に物事をこなす彼が、今まで音色がいたはずの場所から一歩も動かずにこちらへ意味ありげな視線を送っているように思えるのは、恐らく自分の気のせいではないだろう。

「いつもは日和につきっきりなのに、どう言う風の吹き回しかしら?」

女が口元に薄い笑みを湛えたまま問うと、老年の男、倉石はいつもの穏やかな調子で口を開いた。

「いえ、本日佐々木は休みをいただいておりますから。僭越ながらあと数日間はわたしが兼任です」
「分かっているわ。ただの皮肉よ」

こちらの機嫌を損ねまいとする模範通りの回答に、女はこれ見よがしに深い溜息をついた。

「いつから見ていたの?」
「たった今し方参りました。流水様がなかなかご到着なさらなかったものですから」
「日和の周囲まで監視も抜かりなし、ね」

どこか心配そうな表情を見せる倉石に気づいた女は、ふふと目を細めて見せた。

「大丈夫、少しお話をしていただけよ。いい子ですもの。なによりも私のこと、『お姉さんですか?』って」

女は思い出し満足そうに笑む。
しかし倉石が尚も黙ったきりでいるのを察知すると、不満げにむっと眉根を寄せた。

「なにか返してくださいな」
「いえ、『奥様』。大変お喜びのようで、わたしはなによりです」
「だって顔見知りはみんな私のことを知っているんですもの。楽しくないわ」

ぷうと、まるで子供のように頬を膨らませて彼女が言う。その表情は見る者によっては本当に子供のように映ったに違いない。
だがしばらくして、でも、と、なにかを思いついた様子で彼女は宙を見つめた。

「面白い子ね、あんな子が日和の傍にいるなんて……そうそう、あの子でしょう? 日和のお気に入りって」
「はい」
「それにしては、うーんなんと言うか、『普通』ね。驚くくらいに」
「流水様はとてもお優しい方です」
「倉石がそう言うのならそうなんでしょう」

だが、彼女は確かに"なにか"を持っているのだ。
隠しているのか? 隠す気がないのか? それとも隠そうとはしているのか?
理由がなんであれ、その隠し事は少し表に露呈しているような気がするがいいのだろうかと思う。自分に頼ってこようものなら助言を与えることもできるのに。

「日和があの子と、なにをしているの?」
「分かりません。ですが流水様と懇意になられてから、日和さんも奥様の蔵書に興味を持たれているようです。恐らく流水様の趣味が奥様と合うのではないでしょうか?」
「あら、それは素敵」

ぱん、と、両手を合わせて女は小さく歓喜の声を上げる。
しかし一拍置いて、女の口の端は誰も知らないところでひっそりと釣り上がった。

「趣味? ……いいえ、違うわね」

その一言を、踵を返して邸宅に戻ろうとしていた倉石が聞き止めたのか振り返る。

「なにか仰いましたか?」
「ええ。独り言よ」

女はさらりとそれだけを口にすると、ゆっくりと車椅子から立ち上がった。

「そうそう、倉石。この車椅子だけど片づけてもらえるかしら。やっぱり外を見て回るのには窮屈だったわ」
「奥様がご所望されたのでは?」
「楽だと思ったのよ。でも歩いたほうが動きやすいわ」

かかりつけの医師から、あまり激しい運動はせずに出来るだけ安静にすることと常日頃から散々説かれている腹いせにと勢い車椅子を引っ張り出してみたのだが、これは少々やりすぎだった。
なにせ足を怪我しているのでもないのに腕だけですべての動きをカバーしなくてはいけないのだ。
先日診てもらったとき以降さらにあの口煩さが増してきて、近頃少しうんざりしていたのかもしれない。

「……あの子、面白いわね」

車椅子をどこかに引っ張っていく倉石の背中を見つめながら、女はぽつりと漏らした。
邸宅の裏庭に生い茂る木々や花壇に芽吹く数多の花々が、どこからか入り込んできた大量の風に揺れた。

倉石の黒のスーツが次第に遠ざかっていく。
だがそのとき、今いい例えを思いついたわと言わんばかりに、女は、あ、と小さく声を上げた。
これなら先程浮かんだ"なにか"を言い表すのにぴったりだ。そう、彼女の中にはなにかが"いる。"







やはり待たせてしまっていた、と、音色は緑木家の長い螺旋状の階段を上りながら項垂れていた。
やっとのことで音色が正面玄関の扉を開けるに至ったとき、同じく内側から玄関の扉を開けようとしていた倉石とちょうど鉢合わせたのだ。
あれは間違いなく、いつまで経っても玄関の扉をたたかなかった自分を待っていた。

いつもこうなのだ。少し興味が湧くとついついそちらへ足が向かってしまう。
ここ数ヶ月の間に起こったことだけを思い返してみても、その好奇心でどれほどの厄介事を引き寄せてしまったのか、反省するだけでも頭が痛い。
ひたすら到着の遅れを詫びるこちらに対して倉石はいつものように柔らかな態度で出迎えてくれたのだが、次回こそは寄り道などせず、定時通りに扉をくぐれるようにしようと、音色は小さな花束を持つ手とは反対の手で小さくガッツポーズを作る。
そうしてまたも懲りずに意識を新たにする音色の心の中で、ふと可憐な声が響いた。

『……あの、音色』
「え?」

素っ頓狂な声を出して思わず横を向くと、そこにはいつの間に現れたのかリーネの姿があった。
まずい、うっかり大きな声を出してしまった。
他人にリーネたち守護霊の姿は見えない。それは換言すると、傍から見れば自分は独り言をつらつらと喋っている不審者に見えると言うことである。

だが幸いなことに螺旋階段を上り切った周囲には広い廊下が広がるばかりで、誰の姿も見えなかった。
表に姿を表したリーネは最初は躊躇っている様子だったが、すぐに決心したように口を開いた。

『先程の、あの方は日和に縁がある人ですか?』
「うん、多分。私はそうなんじゃないかなって思ってるんだけど」
『そう……』

言いながら、リーネはぱっと背後を振り返りどこか遠くを見つめる。
その表情はどこか物惜しげだった。

「リーネ?」

彼女の切ない心の内が自分にまで伝わってくるようで、音色はなぜか焦ってリーネの顔を覗き込む。

『え、ああ、いいえ。大したことではありません』
「でも……どうかした?」
『私のよく知る人に似ていただけです。怖いものですね』

リーネは肩を竦めてから困ったように笑った。
だがあとになって思い返せば、このときもっと深くリーネの言い分を聞いてあげるべきだったのだ。
彼女が永遠に自分の傍にいてくれると言う保証はどこにもなかったはずだった。そんな誰にでも予想のできる簡単なことを、ほんの少しだけ失念していた。

『さ、日和にそれを渡すのでしょう?』

リーネに急かされて、音色もやっとのことで本来の目的を思い出した。
いや、本当の本当の目的は、膨大な蔵書の中から「例の本」を探し出すのとエターリアを探し当てる旅程を組むのとだったのだが、この際細かいことは無視しよう。
うん、と、強く頷いた音色を見て安心したらしいリーネは、ぱちんと乾いた音を残して再び姿を消した。

そうして長い廊下を歩き続けた果てに辿り着いた蔵書室の前で、音色は深呼吸をしてからゆっくりと扉を開けた。
いっそきな臭いとでも形容してしまいたいような埃っぽい空気、けれど夏の匂いが鼻腔をくすぐる外の世界とはまるで違う穏やかな雰囲気が、この部屋にはいっぱいに充満していた。

玄関で出迎えてくれた倉石は、日和はここにいるはずだとわざわざ教えてくれた。
床は隅から隅まで絨毯で敷きつめられていたが、それでもなお足音を立てないように、音色はそろりそろりと本棚の間を縫って進んだ。

日和は確かにいた。それは音色が初めてこの蔵書室に足を運び、初めて彼お手製のシフォンケーキをご馳走になった場所でもある、この部屋のほぼ中央に位置する一組の木製のテーブルに肘をついたまま、じっと食い入るように一冊の本を見つめていた。
こんなに真剣な顔の日和を、今まで自分は目にしたことがあっただろうか。
音色ははやる気持ちを抑えながら、そっと日和の背後に回った。

「はい!」

音色は日和の肩越しに、裏庭で手渡された数本の小ぶりな花を差し出した。
すると日和はかなり驚いたようにぱっとこちらを向いた。

「……えっ? えっ?」
「ビックリした?」

日和は差し出された花と音色の顔とを、驚き顔で何度も何度も交互に見比べた。

「ビックリって言うか、この花……」
「ああ、これ? さっき裏庭で日和のお姉さんに会ったんだ。それで届けてほしいって言われたから」
「姉……?」

日和は視線を斜め下に泳がせたあとで悩むようにしばらく口を閉ざした。

「ごめん。俺、一人っ子だけど……」
「え? ……あ、そうか。じゃあやっぱり親戚の人だったんだね」
「ちょっと待って。音色、誰に会ってきたって?」
「だから、親戚の人でしょ? 目元とかすごく日和に似てたからすぐに分かったよ。髪がふわっふわで、優しくて、多分大学生くらいじゃないかな? 車椅子に乗ったお姉さん」
「その人がそう言ったのか?」
「ううん。私がそう訊いたら、答えは日和が教えてくれるって」

合ってる? そう問うた音色だったが、日和はますます黙り込んだ。
はて、なにか失言でもしただろうか。今の日和の眉間にはいくつもの皺が寄っている。

「…………母さんっ」
「え? なに?」

今の日和の言葉はよく聞き取れなかったが、再びあの輝かしい容姿と仕草を思い出した音色は一人浮かれた。

「ほんと綺麗だったんだよ。もう見たこともない美人で!」
「若作りなだけ……」
「いいなあ、あんなお姉さん! 私も上にお姉さんが欲しかったなあ」
「あーもうそれ以上言わないでくれ」

音色はなにやら頭を抱えて悶える日和に視線を移して、ぷっと吹き出した。
恥ずかしいのだろうか。むしろあんなに器量のいい人が身近にいることは誇るべきことだと思ってしまうのだが。

「そう言えば日和、この花好きなの?」
「え……ああ、マトリカリア?」

日和が伏せていた顔を上げる。

「マ、マト……なに?」
「マトリカリア。好きと言うか、なにかにつけて昔はこの花が傍に飾ってあったからかな、親しみが湧くと言うか」

音色から数本の花を受け取りふっと無意識に目を細める日和を見て、音色も笑った。
女は自分自身を「ひどい人間」だと自虐していたが、そんなことはない。と、思った。
これほどまでに日和に幸せそうな顔をさせる人は、きっとこの世界中で彼女くらいのものだろう。

「やっぱりお姉さんはいい人だよ」

音色がそう口にしたあとで、日和は再び机に向かって勢いよく俯いてしまったのだが、その理由を聞き出すのには数分とかからなかった。













BACK/TOP/NEXT(第四章)
2011/05/05