見るからに高価そうな黒のインターホンを押してから、ふう、と、一つ軽い溜め息をついて、音色は返答がくる瞬間を待った。
今日が異常に暑いせいだろうか、それとも今日が日曜日で、かつこの緑木家が静かな場所に位置しているためであろうか。
だがなんにせよ、このときの音色の周囲には人気がまるでなかった。

(そろそろエターリアに行く予定も立てないと……)

夏休みが始まるまであとわずかになっていた。
インターホンの向こうから返答があるまで、大きな緑木家の門を前にして、音色は夏休みまでの日にちを指折り数えた。するとちょうど左手の指全部がすっぽり手のひらの中に収まった。

日和とは夏休みが始まって早くにエターリアの場所を突き止めに行こうと話しているため、そろそろ真剣に考えないとまずいだろう。
そこまで思考が辿り着いたとき、音色はどこかワクワクする自分がいることに気がついた。
いつもならたんに「楽しみ」の一言で終わってしまう夏休みが、今年ばかりは充実しそうな気がした。

『はい、どちら様でしょう』

いつものようにインターホン口に出た倉石に、毎度毎度お決まりの台詞のように「流水です」と答える。
この家を訪れるのにもすっかり慣れてしまったなと、目の前で大きな門がゆっくりと開いていくその様を眺めながら、音色はしみじみと思った。

そう、慣れてしまったのだ。これまで費やしてきた日々に変化がないあまり、慣れざるを得なくなってしまったのだ。
恐らく、緑木家の蔵書を片っ端から漁ってはなんの手がかりも得られないことにも慣れてしまったのかもしれない。もしかしたらここには手がかりなどなにもないのだと、心のどこかでそう諦めきっているのかもしれない。
だからエターリアがあったと言われる場所に行って、リーネと出会った当初のような焦りを取り戻したいと思っているのかもしれなかった。
それはきっと日和も同じ心情だろうと言う気がした。

そうでもしなければこの問題は有耶無耶になったまま永遠に終結しないのではないかと、たまにそんなどうしようもない不安に苛まれるのだ。
それだけは避けたい。それだけはなんとしてでも阻止しなければと、その不安といつも表裏一体になって警鐘を鳴らしてくる声にも急かされる。

音色はいつの間にか、門からの長い道のりの記憶をすっ飛ばして緑木家の邸宅の前に立っていた。
本当に慣れたな。洋風の邸宅を間近で見上げながら再度そう認識する音色だったが、しかしふと、どこからかいつもはないはずの違和感を感じて、勢い辺りを数回見回した。

邸宅の裏からだろうか、なにかが動く気配がしたのだ。
音色は玄関前に設けられている数段の階段から足を外して、たった今違和感を覚えたそちらへ向きを変えた。

それはほんの好奇心だった。なにもやましいことはない、少しだけ様子を見るつもりだった。









第三章  -21









その気配の源は本当に邸宅の裏で合っているようだった。
音色はコの字型になっている邸宅の、正面玄関から見て左側より裏庭へと回ってみることにした。

ひょっとしたらそこでは倉石がなにか庭仕事でもしているのかもしれない。
ふとそんな可能性を思いついたが、しかしインターホンで応対してくれたさっきの今で外に出られるものなのだろうか。一応考えてみたが、倉石は予想以上にてきぱきと動き回るタイプなのかもしれなかった。
だがなんにせよ、いつもお世話になっている倉石に挨拶をするのは至極当然のことではないかと少々強引とも言える理由をつけて、音色はここから先へ進むのを正当化した。

(大丈夫。ちょっと、ちょっと見るだけ……)

やっとことで邸宅の左端まで辿り着いた音色は、高鳴る鼓動とともにひょいと壁から顔だけを覗かせた。
音色が裏庭だと思っていた場所は、周囲に木々が生い茂っているものの思っていた以上に開放的で、木漏れ日が眩しく、邸宅沿いに作られたお手製の小さな花壇にはぽつりぽつりと違う種類の花が植えられていた。
それだけでも十分にこのときの音色の興味を引く要素は満たしていたと言えよう。
しかし音色は、それ以上に輝かしいものに目を奪われた。

「……あら、どなた?」

誰だろう。その小さな花壇の前では、一人の見たこともない女性が銀色の車椅子に腰かけていた。
明るい色の髪は長くゆるやかにうねりがかかっていて、音色の存在に気づいたのか、こちらへ振り向いたときにふわりと揺れる様子はまるで天女のようだった。

「いらっしゃい」

にこり、と、彼女は目を細めて優雅に笑う。
まだ若い、自分より五歳から十歳くらい年上だろうか。それなのに全身からあふれる気品は明らかに年相応のものではなかった。

しかし音色はすぐにはっとした。
性別は違えど、彼女の目元や顔のパーツの細かな部分はどことなく日和のものとそっくりだ。
日和に姉がいたとは聞いていないが、もしかしたら従姉弟かなにかだろうか。そうだとしたらこんな美人の親戚がいるなど初耳だ。

「そんなところに立っていないで、どうぞこちらへいらっしゃいな」
「えっ」

再三の誘いを受けて、引き返せなくなった音色は恐る恐る裏庭へと足を向けた。
元はと言えば軽い気持ちで覗いてしまった自分が悪いのだが、それにしても急な部外者の登場を快く許してくれた彼女の寛大さに感謝した。
車椅子を使用していると言うことは、どこか具合でも悪いのだろうか。音色は彼女の元へ近づきながら考えた。

「こ、こんにちは」
「今日は」

しどろもどろになりながらも挨拶をする音色に、彼女は当初に見せた天使の微笑みのまま応える。
その雰囲気は、まるで住む世界まで別世界の人間なのだと思い知らされるかのようだった。

「あの、流水音色と言います。緑木くんには大変お世話になっていて……」
「あら、そうなの? あ、もしかしたら同じ中学の方かしら。ほら、咲が丘の」
「はい。そうです」

音色が頷くと、彼女はぱあっと頬を綻ばせた。

「じゃああなたなのね! 最近日和にできた彼女さんって!」

最初はなにを言われたのかがまるで分からなかったが、彼女の言いたいことを完全に理解したとき、音色は口から心臓が飛び出すのではないかと思うほど驚いた。

「ちっ、ちちちち違います……っ!」
「あら?」
「多分、それ、間違ってると思います。他の人と間違えてるんじゃないかと……」

なぜ自分がそう見えてしまうのか。
突然の不意打ちに顔を赤くさせる音色に対し、彼女はなんとも解せないような表情で小首を傾げた。

「でも倉石からは、咲が丘の同級生の女の子ととても仲がいいって聞いていたのだけど、違うのかしら?」

緑木家の人間のどこまでに自分の存在が伝播しているのだろう。
今度倉石と会った際にそれとなく訂正を入れておかなければ。

「と、とんでもないです! むしろ緑木くんに仲良くしてもらってることが奇跡です!」
「ええ? それはちょっと言いすぎよー」

くすくすと笑う彼女の姿を見て、ああ、やっぱり彼女は天使だ、と実感する。
緑木家の人間と言う先入観があったが、彼女の意外にも親しみやすい態度に緊張がほぐれたのか、音色はこれまで疑問に思ってきたことを口にした。

「あの、お姉さんは緑木くんのご親戚の方ですか?」
「え?」
「えっ?」

きょとん、と、こちらを見返してくる瞳に驚いて、音色も思わず素っ頓狂な声を出す。

「あ、すいません! もしかしたらお姉さんでしたか!?」

慌てて言い直す。が、彼女は尚も瞳を丸くさせたまま、呆気にとられた顔をしてこちらを見上げ続けた。
しかし数秒後に視線を斜め上に泳がせると、ああ、と、納得したように呟いた。

「じゃあそれはちょっとの間の問題にしておこうかしら。もちろん回答は日和ね」

今のやり取りですっかり彼女の気分を損ねてしまったのではないかと心配した音色だったが、こちらを安心させようと、人差し指を口元に持ってきて笑んだ彼女の仕草に音色はまたも救われた。
彼女は徐に足元の花壇に目をやった。数多咲き乱れる花々の中でも特に白くて小ぶりな花が、今の彼女の視界に入っているらしかった。
ガーベラだろうか。それにしては少し花弁が小さすぎるような気がした。

「この花はね、日和が小さい頃に大好きだった花なのよ。真っ白で小さいのが可愛く見えたのかしらね。あの子運動も勉強も飲み込みが早いものだから、つい大人もいろいろなことに手を出しちゃって」
「……え?」

突然、それまでの花にまつわるものとは異なる話題を出されて、反射的に音色は彼女の方を向いた。

「でもやっぱり子供なのよね。日和ったらたまにぷっつり燃料切れするの。熱を出して寝込んじゃうのよ、可笑しいでしょう? 限界だったら限界って、ちゃんと言えばいいのに」

きっと周囲の大人たちの期待がそうさせなかったのかもしれないけど。
微笑みつつもそうつけ加えたあとで、彼女はやや前かがみの姿勢になって、車椅子の中からその白い花へと手を伸ばした。
そうして手近にある丈の高い花を数本摘まむと、彼女は愛おしそうにそれらを手元に引き寄せた。

「だからそんなときに、よくこの花を持ってお見舞いに行ったのよ。あのときだけは……ああ、この先はさっきの問題のヒントになっちゃうわね」

ちらちらと揺れる木漏れ日を受けて、白い花とともに儚く笑う彼女の姿は、まるで絵画の中から現れた本物のお姫様みたいだ。
そんな彼女に、音色も眩しいものを目にしているかのような心持ちで笑み返した。

「……優しいんですね」
「そうでもないわ。私なんてひどい人間よ」

笑ったままあっさりと切り捨てる。
そんな彼女のあまりの潔さに呆然とする音色に向かって、彼女は、はい、と、手にしていた数本の花束を差し出した。

「日和は周りが思ってるほど完璧じゃないから。完璧に思われたいだけで、その足りない分を必死に補おうとしているだけだから」

緑木家の邸宅裏に迷い込んだ夏の日の風が、足元から生温い空気を運んでくる。

「だから、今のあの子にこの花を届けてくれないかしら? 今も部屋でなにやら頭を抱えてるみたいでね、せっかく私がここにいるのに相手にしてくれないのよ。また熱を出す前に、忠告してくれる?」

音色は差し出された花束と彼女の顔を交互にしばらく見つめたあと、数回首を縦に振ってから受け取った。
小ぶりな花であるのに、手に取った途端に現れた強い香りが鼻腔をくすぐった。

「はい、渡しておきます!」

しかし音色が元気よくそう答えた瞬間、今まですっかり忘れていた日和との約束が音色の脳裏をよぎった。
しかもインターホン対応をしてくれたのは倉石だ。彼も未だに自分の到着がないことを疑問に思っているかもしれない。

音色は大急ぎで彼女と別れの挨拶を交わすと、すぐにくるりと踵を返した。
彼女から手渡された数本の花を押し潰してしまわないよう丁寧に優しく握りしめながら、そのまま小走りで裏庭を去る。
どうか自分の存在が忘れ去られていないことを願うばかりである。

(……あれ?)

しかし音色が正面玄関まで戻って、玄関の扉に手をかけようとしたとき、先程の彼女との会話がどこか謎めいたものであることに気がついた。
彼女はわざわざ日和の小さい頃の話をしてくれた。だが結局、彼女はなにが言いたかったのだろう。

恐らくあの会話の中で、自分はなにかを諭されたはずだった。
けれど肝心の論点を探ろうとしたとき、周囲のアスファルトからじわじわと熱気が立ち昇ってくるのに耐えられず、音色はすぐに考えるのをやめて玄関の取っ手に手をかけた。













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2006/09/29