第四章  -01







人々が足早に行き交う空港ロビーには、色と光があふれている。
さすが空港と思わせるような高い天井に、その土地のお土産をずらりと並べた異国情緒感が漂う数々のショップは見ているだけでも十分楽しめそうだ。
その傍を、様々な国籍を持った人々が談笑しながら通りすぎる。やはりビジネスマンより観光目的の人のほうが多そうだった。

そんな明るい雰囲気の中、音色はガチガチに肩を強張らせていた。
目に入る人々はみんな楽しそうな顔をしているのに、音色と言えば空港内に設けられているお洒落なカフェの隅の席に座ったまま、そこから一歩も動こうとはしなかった。
よく分からないまま注文してしまった手元のアメリカンコーヒーは既に冷めているはずだ。それでも、音色はカップに口をつけることさえ躊躇った。
どうか、早く「彼」が戻ってきてくれますように。音色は先程からそればかり願っていた。

「音色」

遠くから聞き慣れた声が聞こえる。
音色はぱっと顔を上げると、まるで捨てられた子犬のような心情で、人々の合間を縫って遠くからこちらへ歩いてくる「彼」の姿を見守った。すっかり見慣れた明るい髪の色が、このときの音色にはありがたかった。

「日和……どうだった?」
「あいつ待ち合わせ場所間違えてたんだ。道理で話が噛み合わないはずだよ、さっきようやく電話が繋がってさ」
「その、アレンさん、だっけ? 大丈夫なの?」
「え? ああ、平気平気。すぐ来いって言っておいたから」

そう言う意味ではないのだが。そもそも日和の友人であるアレンと言う人は、すぐに別の空港まで迎えに来れるものなのだろうか。
ぶつぶつ言いながら向かい側の席に座る日和に、それでも音色はなぜかほっとした。
未知の土地で知り合いが身近にいると言うものは存外にも心強い。

「それより音色、なにか食べる? それとも別の飲み物注文しようか?」
「え? あ、えっと……」

音色が頼んだアメリカンコーヒーがあまり減っていないのに気がついたのか、日和が肘をつきながら、ふ、と優しく笑む。
緊張していたから、とは、とてもではないが恥ずかしくて言えたものではない。
けれど柔和な日和の顔を正面からまともに受けて、音色の心臓はばくんと大きく拍動した。

「じゃ、じゃあ軽目のものとか。あればでいいよ」
「分かった」

頷いて、カウンターに注文をしにいく日和のうしろ姿を眺めながら、音色はふうと大きく息を吸い込んだ。
なぜあんな顔をするのだ。ああ言う顔は、普通ならばすごく大切な人に向けてするものではないのか。そう思うと同時に、あの表情を向けられたことに音色は少し嬉しさを感じる。

振り返ってみれば日和は機内でもそうだった。
航空会社を海外のものにしたためか、ほとんどの客室乗務員が外国人の綺麗なお姉さんと言う人生初の状況に、主に食事の面で戸惑っていた音色を、十五歳にして既にバイリンガルであった日和が横から甲斐甲斐しく手伝ってくれたのだった。
これが自分一人の旅行でなくて本当によかったと、音色はしみじみ思う。

(……旅行、か)

これがたんなる旅行であったならまだ自分は楽しめたのだろうか、と、ふと考える。
とうとう自分たちは来てしまったのだ。音色はカフェの席から見える、全面ガラス張りの壁の外に視線を移した。何機もの旅客機が、滑走路の上をゆっくりと動いているのが見えた。

ヨーロッパの南東に位置する、海に囲まれた美しい都市アテネ。かつて文化と政治の中心地として栄え、その遺跡は現代にも残る。特にギリシャ神話関連の遺跡が多い。
なぜ自分たちがアテネの空港に、しかも二人きりでいるのかと言うと、それは夏休みに入る前に話していた「エターリアを探す」と言う目的のためである。
旅行の詳細な日程は日和が立ててくれたのだが、大雑把に言うと、まず到着日である今日はアテネで一泊し、明日からはドナウ川の下流から上流までを、日和の友人であるアレンの案内の元巡っていくと言う、なんだかちょっとした旅行プランとなっている。
しかし今回は「エターリア国と思しき場所を見つけ出す」と言う使命が課されており、また音色の両親が五日以上の友人同士の旅行には難色を示したため、日程はかなり限られている。

そこまで回顧した音色は、途端にずきりと胸の奥に痛みを感じた。
一応親の了承は取ったとは言え、その理由は「友達の別荘が外国にあるから遊びに行く」と言うかなり大事な部分を誤魔化したものなのだ。つまり、日和が男だとは言っていないのである。

自分でもよくOKを出してもらえたと思う。しかしそれは、夏休み前から毎日しつこいくらい行った音色の懇願の成果に他ならない。
その代わり、旅行の出発前に自由研究以外の宿題は終わらせることを条件に出されたのだが、音色はこれをあっさりと承諾した。もちろん宿題は夏休みが始まってから出発するまでの一週間の間、毎晩遅くまでかかって終わらせることができた。

これ以上問題を増やさないためにも、とりあえず、最後まで日和が男と言う事実が露見しないことを願うばかりなのである。
親の心境を考えれば自分でもやや戸惑うところではあるが、エターリアを探すのに日和一人だけ行かせるわけにもいかない。それでは他人任せもいいところである。
それになにより日和とは前世を分かち合っているのだ。なんらかの形で、音色も彼の力になりたかった。

「お待たせ」

窓の外を眺めていた音色は、日和の声にぱっと正面を向いた。
日和はテーブルの上に、美味しそうなジャンクフードやサンドウィッチが載ったプレートを次々に置いた。

「わ、すごい」
「もうお昼だしね。一応朝食は機内で取ったけど、当分アレンも迎えに来ないしここで済ませよう」
「え、いいのかな?」
「いいんだよ。まったく、向こうがアテネって言ったからアテネに来たのに、なんでテッサロニキに行くんだか……」

音色はパラパラと手元にあったギリシャの観光案内を捲った。
アテネが海に面するギリシャのほぼ南に位置しているのに対し、テッサロニキはほぼ真反対とも言える北側にあった。
アレンと言う人は本当にすぐ来れるのだろうかと、音色は一抹の不安を覚える。

「こうなったら、俺らだけで先に勝手に観光しちゃおうか? アテネには結局半日だけしかいられないしなあ」

日和が傍にいることでようやく安堵感を覚えた音色がサンドウィッチを口に放り込む最中、突然言われた日和の言葉に音色は面食らった。

「ええ!?」
「はは、冗談冗談。さすがにそんなことできないって」
「それは……よかった……」
「でもほんと、あいつ何時にこっちに着くんだろう?」

見ず知らずの人を置いてきぼりにしてしまうのは、いくらなんでも良心が痛む。

「そう言えば、日和とそのアレンさんってどう言う関係なの? どこかで会ったとか」
「ああ、アレンとは小さい頃からの顔馴染みなんだ。よく親の仕事相手の子供と会ったりするんだけど、アレンの親も俺の親と親しくて、その一人」
「へ、へえ……」

成程、と、音色は冷めたアメリカンコーヒーをすすりながら納得した。
だがしかし、それならばアレンと言う人はもしかしたら日和と同じくらい名のある家の子息ではないのか?
ふと湧き出た疑問に音色はぎくりとしたが、あまり深く考えるのはやめようと腹を括り、ジャンクフードのプレートに手を伸ばした。













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2006/10/13