第三章  -19









黒板の上部に備えつけられているスピーカーから、本日最後の授業の終了を告げる鐘が鳴り響く。
それからしばらくして放たれた教師の「授業終わり」の一声で、教室で沈黙を守っていた生徒は一斉に口元を緩めて帰り支度を始めた。

(……終わった)

だが少なくとも音色だけは、そんな明るい雰囲気の中で一人前を向いたまま軽く息を吐いた。
他に雑念などない。
これから帰るのだな、とか、今日の夜はなんの番組がやるんだっけ、とか、そう言ったことはまったくない。ただ「終わった」その事実だけが頭の中にぽっかり浮かんできた。

最近、自分でも驚くくらい無気力なのが気にならないわけではない。
だがこの脱力感と疲労感がごちゃ混ぜになったような奇妙な感覚を、どう処理すればいいのかが分からないのだ。
周囲の生徒から一歩遅れて音色も机上の教科書とノートをまとめると、いつものように鞄に突っ込んだ。

「音色」

不意に後ろから聞き慣れた声が聞こえた気がして振り向く。すると案の定、ざわついた教室を背景にして、そこには帰り支度を終えた日和の顔があった。

「あ……な、なに?」

顔には出さなかったが、音色は突然の日和の登場にぎくりとした。
日和の顔を見て真っ先に昨日のサーンの行動を思い出してしまった所為か、返答がぎこちなくなる。
だがそんな音色の態度を不思議にも思わないで、日和はあくまでも普通の調子で言った。

「あのさ、このあと暇?」
「う、うん。暇」

どもりながらも音色が答えると、日和は咄嗟に辺りをちらと見た。
その日和の意味ありげな視線に気づいたのか、音色の隣で音色と同様帰り支度に勤しんでいた雫は、すぐににんまりと笑んでからさっと席を立ち上がった。

「じゃあね、緑木くん」

ぽん、と、日和の肩に手を置いてから、雫はひらひらと音色に向かって手を振った。
雫はそのまま自分の鞄を引っ掴むと、教室の後ろで待っていた光之となにやら談笑しながら教室を出ていった。
そうして雫や音色の近くにいた生徒が教室から消えたのを確認した日和は、空いた雫の席に、音色と対峙するような形で座った。

暇とは答えたものの、いったいなんなのだろう。
音色は日和が座ってから喋り出すまで、彼の一挙一動を首を傾げながら眺めた。
日和は座ってから一拍置いて、それまで伏せていた顔を上げた。

「いくつか聞いてもいいか? 答えにくかったら答えなくていいけど」

微妙に神妙な日和の声色に若干の恐怖を感じながらも、音色は首を縦に振った。

「いいよ」
「今、なにについて考えてる?」

日和が口にしたのは突拍子もない、かつ漠然とした問いだった。
音色はすぐには答えられずに視線を斜め上方に彷徨わせた。

「……あまり、なにも」
「本当に?」
「うん」

先程授業終了の鐘が鳴ったときはたんに「終わった」と思ったが、今は特にこれと言って考えごとをしていたわけでもないので、多少自信ありげに頷いた。
日和は机上に視線を落とすと、しばらくしてから再度顔を上げた。

「じゃあ、もう一つ。今日ずっと音色が落ち込んでるように見えたのは、これは俺の推測だけど、空也と宵宮に関係があるから?」

音色は黙って日和の顔を見つめ返した。その顔は真剣だった。
教室ではまだ片づけをしている生徒や、ぺちゃくちゃと談笑している生徒もいるはずなのに、なぜかそれらの音が一瞬自分の周りから遮断された。

落ち込んでいる? 誰が?
音色はまたも日和の言っている言葉の意味が分からずに自問したが、答えを見つける前に、日和の視線から「落ち込んでいる」のは自分なのだと悟った。

この今も肩にのしかかる脱力感を落ち込んでいると捉えられたのなら、客観的にはそうなのだろう。
だがここでイエスと答えるには、それは少し違うような気がした。けれど空也と泉のことを考えると、さっきまで自分に纏わりついていた脱力感にも似た感覚が訪れるのも確かだった。
なんと言えばいいのだろう。音色は散々考え抜いた挙句、日和の視線に耐えられず瞳を伏せた。

「……分からない。ごめん」
「そう」

日和の素っ気ない返答が、俯き加減の音色の耳にも聞こえてきた。
やはり意味が複雑になっても言うべきだっただろうか。
音色が一種の後悔にも似た感情を抱き始めた頃、しかし日和がそれまでとは打って変わって比較的明るい調子で喋り出した。

「俺さ、本当は明英学園に行く予定だったんだ。ほら、この市内にある私立の」

突然出された話題の先が見えない。音色は恐る恐る伏せていた顔を上げた。
日和は音色が彼の方を見ると同時に、少しだけ困ったように笑った。

「引っ越しが決まったのは今年の春先だったかな。なにしろ急で、東京で中学三年目を送ってもよかったんだけど、俺一人本家に残るのは耐えがたいものがあって……」
「本家?」
「あ、いや。それはたんに東京にある家の呼び方」

日和がなぜか慌てる素振りを見せたので、音色は素直に数回頷くだけに留めた。
深く追及されないことに日和も安堵したようだった。

「結局なんだかんだあってこっちにくることに決めて、それですぐに明英学園の入学手続きに行ったんだ。試験は前もってパスしてたから」
「ああ、それは……」

すごいね。音色は明英学園の偏差値を思い出してしみじみと呟いた。

「それで手続きに行ったとき、偶然見かけたんだ。夜霧空也を」

この瞬間、空也の名前を出されて表情が硬くなった音色に気がついたのか、日和はピッと人差し指を立てて数回横に振った。

「でもさ、想像してみて。空也が校庭で、普通に体育の授業を受けてるんだ。しかもちゃんと体育着を着てさ。制服もまともに着てないあいつが、だよ? 今考えるとなんか可笑しいよな」

音色は日和の言葉通りに体育の授業を受ける空也の姿を黙々と想像していたのだが、最終的に脳内に出来上がった空也のイメージがあまりにアンバランスで、思わず口元が緩んでいく。
そうして結局ぷっと吹き出してしまった音色だったが、それを見て日和もひょいと肩を竦めた。

「俺はそのときはもう空也がセルガの後世だってことは知ってたから、明英に行くのを躊躇ったんだ。宵宮も明英にいるってことは分かっていたけど、まさか彼女がサラの生まれ変わりだとは思ってなかったし」
「それで咲が丘にしちゃったの?」
「俺とあいつの出会いは最悪も最悪だったんだよ。向こうは初対面なのに敵対心剥き出し、と言うか、いけ好かない態度でさ。明英に行ったら殺されるって思ったね」
「ええ? でも空也君のこと下の名前で呼んでるじゃない」
「『夜霧』ってなんか呼びにくいんだよ。発音的に」

なにそれ。音色が苦笑したのを見て日和も笑う。
だがそのあとで、二人の間に一瞬の沈黙が訪れた。
音色は視線を自分の手元に移した。プリーツの入った濃い緑色のスカートの上で自分の指をいじくる、その様子を他人のことのように眺める。

ふと、先日見た泉の泣き出しそうな顔が脳裏をよぎった。
自分の力が欲しいのだと言った空也の表情が、自信を纏った姿と共に蘇ってきた。
音色はこの沈黙をもてあそぶようにそれらを交互に回想してから、少し逡巡したあとで静かに口を開いた。

「日和は……駄目だと思う? 空也君と宵宮さんとは、もう仲良くできないと思う?」
「うーん、難しいだろうな」

日和は溜め息交じりに答えた。

「ただ、いつかは理解しなきゃいけない気がするんだ。そりゃ確かにあいつはいけ好かないやつだけど、多分裏になにかがあるんだと思ってる。それさえ突き止めれば、俺たちは同じ方向を向くことができるんじゃないかな」

難しいと言いつつも、いけ好かないと言いつつも自分の意を汲み取ってくれた日和に、音色はこのとき救われる思いがした。
バタバタと次々教室を出ていく生徒の足音を聞き流しながら、音色は自分で自分の指をぎゅっと握りしめた。

「私もできれば、仲良くしたい」
「……そうだな」
「日和は、どうすればいいと思う?」
「がんばる」
「がんばる?」
「そ、諦めたらそこで終わるしね。それに万が一俺たちが諦めたとして、空也たちは再度なんらかのアクションを起こしてくるだろうし、例え起こらなくても俺たちの後世にいつかまた神の力が引き継がれて、そこで俺たちと同じようにあれやこれやと悩む人間が現れるだろうから。俺は、それだけは引き継がせたくないんだ」

確かに、この人智を超えた力を神に返せなかったリーネたちの存在が現世にまで引きずられていることを考えると、その可能性は否定できなかった。
いつか解決しない限り、この神の魂をめぐる連鎖は永遠に続いていくのだろう。

やはりがんばるしかないのだろうか。いや、がんばらなければ駄目なのだ。
音色の心のどこかに、ぽっとやる気の炎が灯った気がした。それは先日、泉のあの泣きそうな顔を見たっきり失っていたものだった。
がんばる。しばらくしてからぽつりと小さく呟いた音色に、日和もすぐにオーケイと返してくれた。

「俺でよければ相談相手になるよ。俺はそれを重荷でもなんでもないって思うし、話し合ってこそ俺らのこの問題は解決するんだから」
「うん、分かった」
「本当に?」
「大丈夫、頼るよ。あ、もちろん日和の悩みも聞くよ?」

自分の悩みを一方的に相談するなんてとても申しわけない。
ゆえに音色は思い出したように日和のこともつけ加えたのだが、途端に当の本人はうーんと考え込む仕草を見せた。

「あーそれなら、今まで薄らと疑問に思ってることがあるんだけど……」
「なに?」
「いつの間に音色が空也と親しげに名前を呼び合う仲になったのか知りたい」

突然の日和の言葉に、音色は責められているわけではないのにたじろいだ。

「えっ、そ、それは空也君にそう呼んでって、言われた、から……?」
「ふーん?」
「本当は呼び捨てでいいって言われたけど、初対面で失礼かなって思って、それで『空也君』ってことで」
「でも俺は呼び捨てだけど?」

解せないような顔でこちらへ身を乗り出してきた日和に、音色は焦った。
自分の話はどこも破綻していないはずだ。
それなのに日和には見えない身体の内側で、心臓がバクバクと激しく鼓動を繰り返しているのが分かる。

「だ、だって! 日和も下でいいって言った!」
「でも俺の場合、『失礼だー』って思わなかったってこと?」

日和がわざと澄ました顔をして問うてくる、そんな珍しい表情を見せられて、心の奥がこそばゆいような痛いような複雑な感覚に襲われる。
なんだか話題があらぬ方向に向かっている気がしたが、その微妙な駆け引きがどうしてか心地よかった。
音色は顔が赤くなりそうになるのを必死に抑え、それでも恥ずかしさがまだ心には残っていたので、顔を伏せながら苦し紛れに言った。

「日和は、その、信頼できるから……っ!」

言い終えてから、ちら、と、日和の顔を盗み見る。
すると日和もやや顔を伏せて少し可笑しそうに、見方を変えれば嬉しそうに笑っていたのは、たんなる自分の見間違いだろうか。
音色はそんな日和を見て、今まで以上に全身を駆け巡る歯がゆさを覚えた。

「よし、じゃあ行こう」

日和が鞄を持ってさっと立ち上がる。音色はそんな日和の行動についていけず、ただ目を瞬かせた。

「行くって、どこに?」
「ちょっと見せたいものがあるんだ」

見せたいものとはいったいなんなのだろう。
音色が不思議に思いながらも残っていた帰り支度を済ませると、終わるのを見計らっていたのか、日和の手が伸びてきて音色の腕を掴んだ。

わっ、と、咄嗟に口から驚きの声が飛び出る。
その声に気づいた、教室に残っていた数人の生徒の視線を受けながら、日和と音色は半ば小走りになる形で教室をあとにした。
上履きが廊下のリノリウムの床の上に差しかかった途端、キュッと甲高い音を立てた。

「こけたらごめん!」
「こ、こけないで……!」

ふざける日和に内心慌てながら、音色は自分の腕を今もなお掴んでいる日和の手を見た。自分の指より大きくて長い指だと思った。
廊下でも下校中の生徒が物珍しそうに自分たちを見てきたが、もう周囲の生徒の姿など視界のうちに入ってこなかった。
音色は自分の手元から、ややあって学生服を纏った日和の背中へと視線を移した。

(……幸せだ)

ただ、そう思った。
心拍数はきっと、標準を軽く超えてしまっているだろう。だがそれでほとんど構わなかった。
音色は目の前で揺れる明るい色の髪を目にして、どうしてか幸せだと感じた。理由が見つからなくても、この感情がここにあるだけで十分だった。













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2010/12/20