第三章 -18 最初に彼女の姿を目にしたとき、驚いた。 なにせ彼女の傍にいていいはずの音色の影などどこにも見当たらなかったのだから。 「ええと、リーネ、紅茶飲む……?」 『ありがとうございます』 リーネがにこりと可憐に微笑むのにほっとして、日和はリーネの前にティーカップを差し出した。 しかし守護霊は茶を飲めるものなのだろうか。 一応準備をしている段階で疑問に思ったのだが、手元になにもない方が失礼だと考えたので出すことにした。 これが家に誰もいないときで助かった。 こうして他人には見えないところに茶を出してさらに話しかけているなど、事情を知らない人間が見たら変に思われてしまうだろう。 日和はなんとなく、くるりと辺りを見回して人気がないことを再確認した。 午後の、ちょうど日の暮れかけた時間帯のこの蔵書室は薄らと赤みがかっていて、部屋の中央にあるこの一組のテーブルセットにまでも穏やかな日差しが伸びてきている。 そんな中で静かにティーカップを持ち上げるリーネの姿は、まるで絵画からそのまま現れたかのようだった。 『突然のことで驚かせてしまって、すみません』 「あ、いや……」 日和はしどろもどろになりながらも、机を挟んでリーネと対峙するように席に着いた。 音色とよく似た容貌で敬語を使われたりすると、なんだか調子が狂う。 「それで俺に話って……。サーンじゃなくて?」 『ええ』 へえ、守護霊でも一応触れられるものと触れられないものの区別はあるのか。日和はリーネの方をちらと盗み見ながら思った。 『サーンには私の代わりに音色のところへ行ってもらっていますから』 しかしリーネが茶を口にしたすぐあとで放った言葉に、日和はそれどころではなくなった。 リーネのその一言が終わるか終らないかのうちに、日和はガタンと勢いよく席を立っていた。 『日和。どうしました?』 「ごめん。ちょっと音色の様子を見に行ってくる」 こちらの言いたいことを察したのだろう。 途端にリーネはふっと柔らかく笑むと、肩をひょいと竦めてみせた。 『心配ありませんよ』 「リーネは知らないかもしれないけど、あいつって昔は本当に女たらしだったんだ! 街で噂になってなかったか!? それくらいひどいんだ!」 『ええ。噂は知りませんが、でもああ見えてサーンは軽率な行動は取りませんから』 「本当に冗談じゃなく! 音色と二人きりにしてみろ、リーネに似てるってだけでなにをしでかすか分かったものじゃない!」 『大丈夫ですよ』 このとき我を失いかけていた日和は、冷静沈着な素振りのリーネに影響されて平静を取り戻した。 渋々ながら、一度は立った席に座り直してから小さく深呼吸する。 とりあえず音色が単独でないことだけは幸いだ。百歩譲って、隣にいるのがあのサーンだとしても。 『それにしても……後世のあなたにそこまで言われるとは、その噂一度お伺いしたいですね』 言えるわけがない。 最高の地位と恵まれた容姿と言う武器のお陰でいつも周囲に集まってくる女性たちにサーンがどんな対応をしてきたかなど、言えるわけがない。 日和は話題を逸らすため、わざとらしくごほんと咳払いをした。 「そう言えばリーネやサーンって、俺たちから離れてどこまで移動できるものなんだ? 地球一周できたりする?」 『言われてみればそうですね』 話題変換は成功したらしい。今気づいた、と言わんばかりに目をぱちくりさせて、リーネはこちらを見た。 すぐにティーカップを置いたリーネは、頭上をきょろきょろと見回す。 『やってみましょうか』 そうとだけ言い残すと、リーネの姿は目の前からふっと消えた。 まさかこんなにも早く実行に移してくれると思っていなかった日和は、やや驚きながらもリーネが消えたあとの席を眺めた。 すると数秒後、消える前と同じ姿勢でリーネの身体はそこに戻ってきた。 『どうやらこの辺りの地域までのようです。それ以上行こうとすると弾かれました。音色の家は地域内でしたね』 「それじゃあ藤波市内ってことか……。ざっと半径三キロってとこかな」 それが単に藤波市内なのか、それとも自分や音色を基点として三キロなのかは考慮の余地がありそうだ。 日和が考え込み始めた傍で、リーネは再びティーカップを手に取ると一息ついたようだった。 『それで本題なのですが……どうやら音色の中に、カクがあるようなのです』 頭の中で三キロの範囲を考えていた日和の耳にリーネのなにやら神妙な声が届いたのは、リーネがこの場へ舞い戻ってきてからしばらくのことだった。 「カク?」 『ええ』 そこまで聞いた日和は、カクはどうやら「核」のことを指しているのだと悟った。 『生前、核は私の中にありました』 日和はじっとリーネの顔を見つめた。 なにを言おうとしているのだろう。今の伏せがちな彼女の目元からは、感情が読み取れなかった。 『核は主に神の力を持つ者が絡んだとき、ふとした拍子に現れるのです』 「現れる、って……もしかして」 『そうです。あなたも目にしたことがあるはず、あの姿は確かに神のもの』 日和はこの瞬間、なぜリーネが自分に会いにきたのかその理由を理解した。 『恐らく音色本人に、あまり自覚はないでしょう』 間違いない。リーネは知っている。 音色がこれまでに幾度となく異様な姿に変化したことを、リーネは分かっていたのだ。 いや、元々リーネは音色の守護霊なのだから察していて当然ではあるが、まさかその理由まで把握しているとは思っていなかった。 きっと今日、リーネはそのことを自分に話しにきたに違いなかった。 これは好都合だ。日和は今まで疑問に思ってきたことが一気に解消されるのではないかと言う高揚感にも似た感情が胸の奥で湧き上がるのを感じた。 「ごめん、リーネ」 『はい?』 「これはあくまで仮定の話なんだけど、空也が音色を狙うのは、その核が音色にあるから……?」 その問いに、リーネは真剣な目でこくんと頷いた。 『十中八九それで間違いないでしょう。核がある音色は、持たないあなたたちに比べて力への順応が早く、そして強くなる傾向があるようなのです。それ故でしょう』 瞬時に日和は理解した。 先日空也と泉が自分と音色の前に現れたとき、音色ではなく俺だけを狙えばよかっただろうと言った際の空也の不意を突かれたような表情。あれは、核の存在に気づいていなかった自分に対してのものだったのだ。 だから彼は笑った。あれは確かに、余裕がなせる笑みだった。 だがそうなるとどうしても腑に落ちない点があった。 日和の疑問を先取りするように、リーネが悩ましげな口調で語り出す。 『しかしどうして空也と泉がそれを知ったのかが分からないのです。セルガやサラは知らないはずです。もっと言えばサーンも知らない、私だけが知っていたのです。それも『頭に直接不思議な声が聞こえる』程度の認識でした。はっきりあれが彼女だったのだと分かったのは、私が転生して、音色の元に現れた彼女を客観的に見たときです。それなのに、どうして彼らは音色の元にあると分かったのか……』 「だよな……」 リーネでさえ知ったのは現世になってからなのだ。 それなのになぜ空也は核の存在を知っていた? いつ? どこで手に知れた? けれどいくらその出自を探ろうとしたところで、その答えに辿り着くのは今ではない気がした。 『ウィリネグロスは言いました。神の魂は私たちの魂と入れ替わったのだと。もしかしたらその際、魂と力は分かれても彼女本人は分裂しきれなかったのかもしれません』 「だから神の力を持つ四人のどれかに己を潜り込ませたと? それが前世はリーネで、現世では音色ってことか?」 『ええ、私とサーンはそう考えています』 リーネはいつになく真面目な顔をすると、少し声を潜めて言った。 『きっとこの先、核は幾度となく暴走します。音色は止める術を知らない、いいえ、真実を言うと止めようとしているようですが、止まらないのです』 恐らく核は元の状態に戻りたがっている。だからしきりに機会を窺っては表に姿を現したがっている。 『この前緑地公園で音色がすさまじい変化を遂げたでしょう。あれは彼女のほんの片鱗を受け入れてしまったため。対し先日この家を訪れたときは覚醒は免れました。あれは音色が必死に抵抗をし続けて、あなたがすぐに音色を正気に戻したため』 核、つまり神が目覚めるのも目覚めないのも、すべては音色次第と言うことだろうか。 このとき日和は、尾骨から頭の天辺までを悪寒が一気に駆け上がっていくような不気味な気配を感じた。 『だから日和、あなたに核の目覚めを止める枷となって欲しいのです』 「その核が完全に目覚めると……?」 『これも推測でしかありませんが、恐らく、地球が彼女の重みに耐えられず、なにかしらの破壊行為が起きるでしょう。なにせ彼女は、地球一つで受け止めるには大きすぎるほどの存在なのですから』 日和はふう、と、軽く息を吐いた。 「……分かった」 音色が今回、この場にいない理由がなんとなくだが分かる気がした。 まずは様子見と言うところか。それが確信に変われば音色に話すことも視野に入れる。 きっとこれら一連の流れを今すぐ音色に話したところで、彼女に困惑を与えるだけだ。 これがもし自分だったら、もし核の受け入れ先が自分だったのなら、仮に話されたところで混乱するだけなのは予想がつく。そして混乱したあまり、これからなにをすればいいのか戸惑うだろう。 それがあまり他人に頼らない傾向がある音色ならば尚更のことだ。 「俺が止めます。もし核が目覚めることがあったとしても、この命に代えても止めます」 『ありがとう』 日和がそう言い切ると、リーネはやっと安堵の表情を見せた。 その顔を見て、日和もほっと胸を撫で下ろした。 『やっぱりあなたは、サーンと似ていますね』 「……え?」 『なにもそこまで嫌な顔をしなくても』 リーネがくすくすと笑う。そんな彼女に日和は怪訝な顔で詰め寄った。 「似てるって……どこが?」 『責任感の強いところですよ。とても頼もしくて、私はいつもサーンに寄りかかってばかりいました』 「いや、俺は……」 たとえサーンがそうであったとしても、自分がその要素を満たしているとは言い切れなかった。 自信はこれっぽちもない。彼の後世の自分が言うのも変だが、決断力も行動力も遙かにサーンの方が格上だと感じる。 生まれ育った時代と土地の所為だと言えばそれっきりだ。 しかしそれらを抜きにしてもサーンと自分は違ってしまっている。 神の魂を引き継いだはいいものの、根本的なところでずれているのだ。それはまるで、器は同一なのに、中身は全然別のものであるかのような感覚だった。 そんな自分に、音色からリーネのような信頼を寄せられるのかと問われれば分からないとしか答えられないだろう。 駄目だ。この前空也に会ったとき以来思考がネガティヴになっている。 日和は目頭を抓むように押さえると、首を数回横に振って雑念を取り払おうとした。 『リーネ、話は終わったか?』 ちょうどそのとき現れた天から降ってきたかのような声に、日和は反射的に顔を上げた。 リーネの横にはいつの間にか、サーンが立っていた。 「ああ、やっと戻ってきたのか……」 『俺がいなくて寂しかったか?』 「いや、むしろ心配だったよ。音色相手に変なことしてないかってな」 『変なこと?』 日和にしてみればほんの皮肉のつもりだったのだが、意外にも真面目に受け取ったらしいサーンは、一瞬考え込むそぶりを見せたあとで陽気に笑い飛ばした。 『ああ、してないしていない。約束はできないけどな』 「したのか!?」 『では日和、サーン。私はそろそろ音色のところに戻りますね』 リーネは静かに席を立つと、隣で取っ組み合いを始めた日和とサーンに向かってにこりと笑んだ。 『この茶葉、とてもおいしかったです。ありがとう』 「喜んでくれてよかったよ」 『ああリーネ、そのまま去るならちょっとこいつの俺の胸倉を掴む腕をほどいてからにして欲しいんだけど』 「黙れ。これからじっくりと話を聞かせてもらうからな」 リーネはサーンの頼みになにも答えずにただ笑み返すだけで、すぐに風のようにその場からふっと消えた。 リーネのいなくなった蔵書室で、サーンは、「いや、あれは不可抗力で」とか「別に悪気があったわけでは……」とかなにやらぶつぶつと呟いている。 これで彼女に頼もしいと言わせるのだから片腹痛い。いっそ、先程自分より格上だと思ってしまったのも撤回したい勢いだった。 明後日の方向を見やるサーンの横顔を一瞥して、日和は溜息を漏らした。 さて、拷問の時間だ。 BACK/TOP/NEXT 2010/09/16 |