私はなぜいつものようにここに立っているの。 これから先どの道を進めば、私は「正解」に辿り着けるの。 どこから現れるのか、止め処なくあふれてくる疑問にはいつも決まった疑問しか答えてはくれなかった。 第三章 -17 学校から帰ってきたその足で二階にある自分の部屋に直行した音色は、部屋の内側を一目見るや否やその場に固まった。 これは、なんだ。なにがどうして、こんな状況ができあがってしまったのか。 『お、音色。遅かったな』 音色の到着に気がついたのか、ベッドや机に囲まれて、部屋の中央で堂々と胡坐をかいていた少年はぱっとこちらを向く。 同時に、彼の繊細な金髪がひらりと眩しく光った。 音色は突然のことに、返答もせず開けかけていた扉をバタンと勢いよく閉めると部屋の前で真っ青になった。 (な、なんで……!?) 言わずもがなである。自分の部屋にはたいてい誰もいない。 仮にいたとしても普通は家族の誰かだ。 それなのに今見た部屋の中央には、明らかに自分の家族でもなんでもない人間が座り込んでいた。 音色はなおもドアノブを握りしめながら、だらだらと全身に流れる汗を感じた。 万が一、これが本当のことだったとしよう。 そうであれば先程部屋にいた少年は、あの容貌と声からして一人しか思い当らない。 音色は数秒悩んでから、やはりもう一度この目で確かめようと、ゆっくりとドアノブを回した。 恐る恐る再び部屋の中を覗き込むと、やはりと言うべきか、数秒前と同じ少年が部屋の中央に座して、こちらに向かってひらひらと手を振っていた。 『どうした、音色? 顔が死んでる』 ははは、と緊張感なく笑う少年に、音色は扉を開けたままがくりと脱力した。 どさり、と、肩にかけていたはずの学生鞄が足元へ落ちたらしい鈍い音が聞こえた。 「な、なん……っ?」 『いやあ、久し振りだな』 音色は声が漏れないようすぐさま扉を閉めると、大量の疑問符を浮かべながら少年の元へ詰め寄った。 この金髪と服装、それに話し方からして間違いない。彼はどこからどう見てもサーンその人である。 「え、久し振りだけど、でもあの……!」 『もしかしてここって音色の部屋なのか? 意外と……あー、こじんまりしてるな』 サーンに気を遣われてしまった。 これでも一応八畳南東向きのいい位置にあるのだが、と言う現代日本人にしか通用しない言いわけは心の内にしまっておく。 音色はもうなにも気にするまいと決め込むと、お茶取ってきますとだけ言い残し、部屋をあとにした。 部屋の隅から、いつだったか買った折りたたみの小さいピンク色のテーブルを引っ張り出す。 その上に階下で淹れてきた二つの湯呑を置くと、サーンはぱっと笑顔を見せた。 守護霊に茶を出しても飲めるものかと思ったが、出さないよりはマシだと考えて今に至る。 「粗茶ですが……」 『これはどうも』 あち、と言いながら湯呑を手にしたサーンの動きを見ると、なぜか茶は飲めているようであった。 はて。どこからが彼らが触れられる境界線なのだろうと、途端に音色は首を傾げる。 しかし、未だにこの状況が上手く飲み込めないのでそれどころではなかった。 これがリーネが部屋で待っていたのなら理解できる。それなのにこの部屋で自分を待ち構えていたのは、日和の守護霊であるサーンだったのだ。 今日を境にして自分と日和の守護霊が入れ替わったとか? いや、まさかそんなファンタジーな。 「え、ええと……」 とりあえずサーンにここで待つに至った理由を直接聞こうと口を開いた音色だったが、そのときすぐに冷や汗を感じた。 日和と二人きりになったことはこれまで幾度となくあったことだ。だが、サーンと二人きりになるのは今回が初めてである。 会話が続かない自信は存分にあった。 サーンは日和の前世だが、例え外見は似ていようと性格はまるで違うのだ。 サーンと小さいテーブルを挟んでなにを話せばいいか思案していた音色は、しかしすぐにサーンがやってきたその理由を思いついた。 「あ、そうだ。リーネに用事? 待って、今呼ぶから……」 『違う違う。音色に用事』 意外な返答に、音色は驚きで目を瞬いた。 「私に用事、って……?」 『リーネがな、日和と話があるらしいんだ。それで音色を退屈させないために俺が来たってわけ』 「はあ……」 『リーネといつもなに話してる? 俺のこと? リーネは俺のことなんて言ってた?』 そのいかにもな自信はどこから来るのだろうか。 にこにことこちらを伺ってくるサーンに、音色はしどろもどろながらも口を開いた。 「う、うーん、リーネからあんまりサーンのことは聞かないけど……」 『それ地味にショックだな』 「ち、違うって! リーネは滅多に言わないだけでサーンのことは好きだと思うの! すごく!」 『へえ。どうして分かるんだ?』 サーンは興味津々でこちらの顔を覗き込んでくる。 自分のことではないのにどこか恥ずかしさを覚えながら、音色はぽつりぽつりと切り出した。 「だって……サーンはリーネを大切にしてくれたでしょ? それにたまにサーンとリーネが一緒にいるとき、リーネはすごく幸せそうな顔をするって言うか……あ、違うかな。リーネは、ええっと、なんかサーンがそこにいて当たり前の表情をするって言うか、上手く言葉にできないんだけど、本当にそんな感じで……」 音色がテーブルを見つめながら話していると、なにか頬に触れるものを感じた。 ふと顔を上げる。そこにはこちらに手を伸ばして、真っ直ぐ自分の瞳を覗き込んでいるサーンがいた。 深い海のような青色の瞳だと、音色も同じく彼の瞳を見つめながらそう思った。 どうしたと言うのだろう。先程までの明るい雰囲気は微塵もなく、どこか憂いを帯びた表情のまま彼はこちらを無言でずっと眺めている。 その表情に一瞬、日和の面影を見た。 「……な、なにか?」 『いや。音色って本当にリーネにそっくりだなと思って』 サーンの長い指が音色の頬の上を静かに滑る。 真顔でそう言い切られて、音色はぼっと顔を赤くした。 「え、いやいや……。私、リーネみたいに美人じゃないし」 『そう? 俺は似てると思うんだけどな。そうやって照れて下を向くところも』 ふっと笑うサーンにますます恥ずかしくなって、音色はただ俯くことしかできなかった。 普段リーネはサーンとこんな会話をしているのだろうか。 だとしたら今以上にリーネを尊敬するだろう。こんなにも恥ずかしい言葉の羅列など、聞いているだけで照れてしまう。 『じゃあ、俺と日和は似てる?』 唐突なサーンの言葉に、音色は今しがた見せられた憂いの表情を思い浮かべて、ぶんぶんと強く首を縦に振った。 「それはもう! すごくそっくり」 『へえ』 音色の力いっぱいの反応に、サーンは予想外とでも言いたげな顔をするとなにやら考え込んだ。 『そうか、なら試してみるか』 音色の頬からサーンの指が離れる。 音色があれと思っていると、なぜだろうか、いつの間にかサーンは音色の横にいた。 ますますなにが起ころうとしているのかが分からない。 音色が唖然としながら目を白黒させていると、とすんと音色の横に座ったサーンはにこりとひどく形式的な笑みを見せた。 その笑みに背筋がぞっと凍った。反射ですぐさまその場から後退しようとした音色の肩を、しかしサーンの腕がそれ以上の速さで伸びてきてとらえた。 「えっ」 視界がぐるんと反転する。 身体が仰向けに倒れた感覚が全身を襲ったが、頭は床に打ちつけられることなく、なにか柔らかいものに受け止められた。 音色が閉じてしまった目蓋をこわごわと持ち上げると、部屋の照明を逆光にして、サーンが覆いかぶさるようにして目の前にいた。 その表情は先程垣間見たときとまったく同じで、彼にしては珍しく真剣さが感じられるものだった。 この状態が飲み込めないこと以前に、音色は彼のその表情が気にかかった。 「……サーン?」 いや、これは誰だ? 音色は咄嗟に自問した。 サーンか? それともまさかとは思うが、日和なのだろうか? 音色は目の前の人物について混乱する頭を傍らに、サーンの顔を茫然と見上げた。 サーンが顔を近づけてくる。その映像が、記憶の底にある前世のものと一致する。 彼は誰だ? いやその前に、自分は誰だ? 今自分が立っているのはエターリアか? それとも現代の日本なのか? サーンの金髪と青い瞳はかつての自分が目にしたものだ。彼からの暖かい抱擁も、接吻さえも知っている。 だがそれはこの目をこの身体を通したものではない。 そう、今自分が立っているのは。私は――。 「サーン」 音色の呼び声に、サーンはぴたりと動きを止めた。 「私はリーネじゃない。あなたも、サーンであって日和じゃない」 音色は手を伸ばした。そうして指先でつっと触れたサーンの頬は、少し冷たかった。 けれど音色はよかったと思った。やはりここにいるのはサーンで間違いなかったのだ。 サーンはしばらくそのままの体勢でいたが、ふっと笑ったのを境に、すぐに身体を起こすと同時に音色に手を差し伸べた。 音色はその手を取って、半ば強引に引っ張られる感じで起き上がった。 『日和と似てるって言っただろ?』 「言った、けど……それは『同一』ってことじゃない、から。ここにいるサーンは他の誰でもないサーン一人だけだと、私は思うから……」 これも上手く言えないんだけど。音色は言ったあとで、悩みながらそうつけ加えた。 サーンは音色のその言葉に苦笑した。 『難しいな』 「そう?」 『ああ。でも、安心した』 安心とは、どういうことなのだろうか。 音色がその意味を聞こうとサーンの方を振り返ったとき、既に身体にはサーンの腕が回っていた。 これはまずいのでは。音色がさっと血の気が引く音を聞いたのと同じくらいのタイミングで、サーンは音色の頬に軽く口づけた。 『そろそろ時間だな。じゃあな音色、また話そう』 サーンは部屋の上方を見つめるとなにかを悟ったらしい。 あとご馳走様、と言いながら笑むと、顔を真っ赤にして固まる音色を尻目にサーンはその場から消えた。 リーネに怒られないといいけど。 音色はサーンが消えたあとの床を見つめて、さっきのサーンが日和でなくて本当によかったと考えながら、今もばくんばくんと高鳴る胸を落ち着かせようと試みた。 BACK/TOP/NEXT 2010/09/04 |