まただ。また、「彼女」の姿を見ていた間の記憶だけが抜け落ちている。
音色は自分の頭の中に現れたあの澄んだ声を思い出そうとしたが、なぜか鍵がかかったように思い出せなかった。

(……光の、下)

泉は自分のことを、最初から光の下に生まれた人間だと言った。だが、光の力を持つのは自分ではなく日和だ。
彼女がそう認識せざるを得ないくらいに、自分は、あまりにも彼女の瞳に楽観的に映っていたのだろうか。
音色は泉の怒りに震えた眼差しを思い出した。あれは、尋常な感情ではなかったと思う。

空也と泉がいなくなってしまう前に、もっと彼らと話しておきたかった。
特に泉とは、自分が高く飛翔した際にまるで自分一人だけ取り残されたかのような哀しい顔をしていた泉とは、どうしてそんな顔をしたのかが聞きたかった。
理由は判然としないのだが泉のあの表情を見た瞬間、音色は彼女を助けたいと、いっそのことそう感じていた。

窓辺から音色の部屋へ入り込んできた夜風が、ベッドの上で体育座りをする音色の頬をそっと撫でる。
ややあってからその風の中の優しさに気づいた音色は、顔を上げるとどこへ向かってと言うわけでもなく微笑んでから、また膝に顔を埋めた。









第三章  -16









「ちょっとちょっと。なに、あれ」

球技大会の興奮も冷め、球技大会の振り替え休みの喜びもようやく収まった月曜日、若干時間ギリギリに登校してきた日和は、教室に入るなりすぐさま雫に腕を引っ掴まれた。
わけが分からずも日和が雫に強引に教室の後ろまで誘導されると、雫は意味ありげに教室のある方向を見やった。
雫の視線の先を追うと、窓際の席についたまま顔を伏せている音色の背中が見えた。

「背後に重いものを背負ってるみたいに暗いわね。で、理由は知ってる? 幼馴染君」
「まあ、いろいろと……」
「いろいろ? やましいことじゃないでしょうね?」
「それは保証する」

確かにここ数日の間、音色や自分にはいろいろとあった。ありすぎたのだ。
まさか空也と泉が二人揃って会いにくるとは思ってもみなかったし、神の力を使うことも想定外だった。
それと駄目だしでつけ加えるのなら、また音色が「あの状態」に陥るとはこれっぽちも考えていなかったのだ。

恐らく音色の身体にも、それなりの負荷がかかっているに違いないだろう。
なぜなら神の力を使ったのとその疲れからきた寝不足とで、日和も本日絶不調だった。

「じゃあいいわ。理由は訊かない」

日和が言いわけを渋ったのを悟って、雫はあっさりと引いた。

「それにしても、あの音色の落ち込みようは久し振りね」
「そうなのか?」
「前もなにかが原因で悩んで、三日くらいあのままだったし。あ、そう言えばそのときの原因知らないわね」

雫はそこで一つ軽い溜め息をついた。

「音色って、他人に相談しないのよ。だから最後までなにが原因で悩んでいるんだかこっちはちっとも分からないの。相談してくれてもいいのに……」
「ああ、なるほど」

雫の言葉がよく分かる気がした。
考えてみれば音色と出会ってまだ数ヶ月だったが、この期間に音色は多くのものを一人で抱えていた。
例えば出会ったときも、真珠のネックレスのことを律儀に他人に漏らすまいとしていたし、自分たちと同じく神の力を持つ空也のことでさえあまり自分から話そうとはしなかった。

自分一人の力で、この数百年にも渡る因縁を解決しようとでも思っているのだろうか。
そうだとしたらそれはあまりに無謀な話だ。特に空也と泉と言う頭脳明晰な二人が協力している今、音色が一人で突っ込んでいったところで玉砕するか、逆に相手に取り込まれるだけである。

日和は再度、音色の背中を見た。
彼女の背後には未だに暗雲のような陰気なオーラが立ち込めている。
たまに音色に話しかける人がいても、肝心の音色の方は「うん」とか「そうだね」とか、たとえ笑ってもそれが心から笑っていないと一目瞭然の状態だった。

「ごめん。ちょっと用事」
「いってらっしゃい」

雫に断りを入れてから、日和は学生鞄を持ったまま、自分の席を素通りして音色の方へと向かった。

「お早う」
「……えっ」

日和がそれとなく声をかけると、まるで自分が来たことが意外だと言わんばかりの反応で、音色は椅子からやや跳び上がるとこちらを見た。

「あ、お、おはよう……」

声をかけた瞬間は真っ直ぐにこちらを向いた音色の視線は、すぐに周囲をふわふわと漂った。
やはりなにかに悩んでいる、と、日和は直感した。

「具合はどう?」
「私は、大丈夫……」
「本当? それならいいけど、もしなにか気になることがあったら――」

ちょうどそのとき、清々しい音でホームルームの開始を告げる鐘が鳴った。
数秒後、担任教師である中田が教室の前の扉を、ガラ、と開ける。
毎度毎度お決まりの劇のように、教室中に散らばって各々談笑していた生徒たちは慌てて自分の席へと戻る。

日和は心の中でチッと舌打ちをしてから、しかし表情には出さずに音色の席から離れた。
だが自分の席に戻りかけた日和の腕を、後ろからなにかが強く引いた。

「……あの、私本当に大丈夫だから!」

それはまるで、自分自身に言い聞かせているかのような言葉だった。
日和が振り返ったそこには、咄嗟のように日和の腕を掴み立ち上がった音色の切迫した顔があった。
その表情は、どこかこちらに有無を言わせないような迫力さえ備えていた。

音色の気迫に圧された日和が曖昧に頷くと、音色はあっさりと日和の腕を離した。
それから小さく、ごめん、とだけ漏らした音色は、浮きかけた腰を再び椅子の上に落ち着ける。

驚いた。まさかこれほどまでに強く迫ってくるだけの気力が今の音色にあるとは、考えもしていなかった。
音色は神の力を使うどころか、一瞬でも「あの状態」になったのだ。きっとその負荷は大きく、それに悩みごとも抱えているはずだった。
日和は半ば放心状態になりながらも、窓際の一番後ろにある自分の席へ戻った。

(大丈夫、は、口癖なんですか?)

他の生徒と同じく自分の席についた日和は、中田が教壇に立つ姿を眺めながら、自分より教壇に近いところで座っている音色に心の中から問うた。













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06/09/12