なぜリーネとサーンがこの時代に「守護霊」として呼び出されたのか、それがずっと頭の片隅でつっかかっていた。 しかしこのときの音色の心の奥で、その疑問と答えとはぴしゃりと繋がった。 きっと、神は予想していたのだ。 セルガとサラの後継者はきっと自分たちの考えから離反するであろうと、そして彼らはセルガから諭されたやり方で、力ずくでも自分たちを丸めこもうとすると神は知っていた。 だからこそ神は、自分たちを守護する者としてリーネとサーンを現世に呼び戻したのだ。 第三章 -15 泉の言葉が音色の頭の中で、まるでなにかの呪文のようにぐるぐると巡っている。 いい加減笑わせないでちょうだい。その言葉が泉の口から放たれた瞬間、初め音色はそれが外国語のように聞こえた。すぐにその意味するところが理解できなかったのだ。 しかし数秒後、泉の言わんとしていたことが呑み込めたとき、音色は呆然とした。 数メートル先に対峙している泉の姿が、真正面に捉えているはずなのにどうしてか小刻みにぶれている。 (……そんなはずない) これは夢だ。そうでなければ、きっと自分の悪い妄想だ。 誰もが振り返るような容姿を備えている上に、その身を取り巻く環境までもが恵まれている彼女が、そんなこと――。 「わたくしがそんなことを言うなんて、思ってなかった?」 音色は驚いて視線を泉に合わせ直した。 たった今考えていたことをずばりと当てられて、汗を吹き出しそうな勢いで心が変に焦り始めるのが分かった。 「図星のようね。……まあ、仕方ないわ。そう思われても仕方ないもの」 ふふ、と薄く笑った泉は、だがしばらくするとやおら目を伏せた。 「でも、わたくしは嫌なのよ。そうやっていい子ぶってるあなたも……大っ嫌い」 不意に、泉の真っ直ぐに伸ばされた右腕がこちらに向かって振り下ろされた。 すると間髪入れずに、彼女の周囲に一瞬にして現れた先の尖った紫色の岩石が、音色の身体目がけて放たれる。 今度こそ刺さる。今まで以上に猛スピードで迫ってきた物体を追うことができず、覚悟を決めた音色は反射でぱっと目線を逸らした。 しかし途端に身体中に違和感を覚えた音色は、すぐに顔を上げた。 この感覚はいったいなんなのだろうと、音色は突如自分を襲った違和感に首を傾げた。これは岩石が身体に当たった衝撃ではない。いやそればかりか、物体と思われるものはなに一つ自分の身体に触れてさえいない。 目蓋を開いた音色は、そこで反転する世界を見た。 いつもの世界とはまったく正反対で、今や頭の上に緑があり、脚は薄青い空に向かって伸びていた。 そうして緑の中にはなぜか日和の邸宅がぽっかりと浮かんでいた。ああ、日和の家ってこんなに大きかったんだ。音色はちらとそんなことを考えた。 それが自分の身体が空を高く跳んでいた所為なのだと分かったのは、首を思いっ切り巡らせたときに目に入った、緑の絨毯の中でこちらを目を丸くしながら見上げる泉の姿を捉えたからだった。 泉のその顔は、今までこちらへ向けられていた憎悪などと言う感情をすべて引っこ抜いたかのような、真っ白な表情だった。 それは逆にこちらが驚いてしまうほど、今にも泣き出しそうな顔をしていた。 だが音色は、泉の表情の変化に驚きつつもすぐに我に返った。 なぜ自分の身体が一瞬のうちに空高い場所にあるのかが、まったく分からないのである。 ――でもね、でもね。ちょっとでいいんだよ。風さんみたいにふわっとだけでもいいんだよ。 そう言っていたのは、確か過去の幼い自分だっただろうか。 球技大会で倒れたときに思い出した自分の声が、遙か彼方の響きを持ってして耳元で再生される。 しかしいくら空を飛びたかったとは言え、人間である限り現実になるはずがない。 それなのに今自分は悠々と、まるで棒高跳びの選手のような恰好で、どうしてか放り出された空の中から地上を見下ろしている。 「空を飛んだ」と言うよりは「舞った」の方が表現としては適切かもしれない。けれど滞空時間はひどく長かったような気がした。 これも神の力の所以だとでも言うのだろうか。 だとしたら、こんな人間には到底できないことを無意識のうちに行ってしまう自分たちは、まるで人間ではないみたいではないか。 恐らく地面から数メートルは跳んだだろうか。音色の身体はそのまま重力に従って落下していく。 そして足がふらつきながらもなんとか着地に成功し、必死に息を整えようとする音色を、離れた場所から泉が睨めつけた。 「……本領発揮、と言うことね」 泉の口元が怪しく歪む。 もはや先程垣間見たどこか呆けたような顔ではなく、さらにこちらへの怒りを露にした顔つきで泉は吐き捨てた。 「いいでしょう。あなたが盾突くのなら、こちらだってそれ相応の力を出すまで……」 その言葉が終わると同時に、泉は手元で小さくなにかを呟いた。 すると彼女の背後からは、彼女の身体にすり寄りつつも一斉に黒い霧が吹き出し始めた。 「あなた程度の人間に、わたくしが負けるとでも思って?」 つり上がった瞳が真っ直ぐに音色を射る。 そこからは今までにはない、ただ自分を懐柔しようとするだけでは飽き足らない泉の思惑が見て取れた。 彼女の周囲に漂うのは単なる霧ではなかった。一条の光も通さないほど濃い色をした漆黒の闇だった。 「大嫌いよ……。あなたみたいに、最初から光の下に生まれた人間なんて!」 自分の身体から、力と言う力が抜けていく気がした。 音色は威嚇してくる泉に対し、もはや恐怖も、喚くことも考えられなくなった。 神は言った。神が神であるために、自分たちの中にある神の魂を一所に集めて宇宙へ戻らなければならないのだと。 けれどこれでは、神の力を持っている泉を見つけたはいいが、一つにすることができないではないか。 音色はまるでどこか暗い場所にぽんと放り投げられたかのような孤独と絶望を感じた。これでは、また歴史が繰り返されてしまう。これでは、リーネだけでなく自分たちまでもが、神の力に囚われ続けてしまう。 ――ああ、私、が……。 突然、頭の中のとても遠いところから、リーネではない別の女の声が響き渡った。 本能的に、音色の全身にぞわりと鳥肌が立った。 誰だ? そう問わずとも、音色はすぐに分かった。 この声色は間違いない。今までに数回、この声を聞いてきた。そのたびに言葉では表しきれない感情を覚えたのだ。間違えようがない。 ――私、が、そこにいるのに。ああ、それなのに。ああ、どうして。 自分の意思にかかわらず、可憐な声色は音色の頭の中で勝手に嘆きを紡いでいく。 音色は即座に頭を抱えた。 「ま……っ」 待って。出てこないで。 音色は必死にその声に向かって語りかけた。けれどその女の声は甲高い声でアアアアと漏らすだけだった。 音色が触れるところから大地がざわざわと揺れていく。 まずは音色の足元の草花から、次に周囲に聳える木々、果ては世界のすべてへと、頭の中の声に呼応するように世界が揺れる。 「待って……っ」 私がどうにかするから。私がどうにかしてみせるから。 大丈夫。空也や泉はまだこちらと決別したわけではない。説得すれば分かってくれる可能性だって十分にある。 音色は精一杯そう説いた。 だが頭を抱えながらふと閉じた目蓋の裏に、ぼんやりと誰かの姿が映った。 それは遠くからこちらへするりと近づいてきて、両手を差し出したかと思うと音色の視界をがしりと掴んだ。 ――コウタイ、よ。 高い声の誰かはそれだけを口にすると、音色へと己の顔を近づけた。 このとき音色は不思議と、わけが分からないまま泣きたくなった。 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。ここで「コウタイ」してはいけないリーネだってあんなに叫んでいる。 お願い待って。私がこの状況を解決するからあなただけは出てこないでお願いお願いお願い。 輪郭が曖昧な顔が強引に音色の顔を飲み込もうとする最中、音色は意識が薄れるギリギリまでその声に懇願し続けた。 「……出やがった」 日和は片眉を跳ね上げて、なにやら小さく呟いた空也を見た。 今まで二人の間には一触即発の空気が流れていていたのだが、空也は唐突に力を解放するのをやめると、日和などお構いなしに周囲をぐるりと見回した。 炎は空也の周りから勢いよく消え去った。 日和はまだ力の解放をやめることはなかったが、空也がある一点をみつめたまま微動だにしないので自然と視線がそちらへ向いた。 こちらからいくらか離れた場所では、音色と泉が対峙しているのが見えた。 だが、明らかに音色の様子がおかしかった。いや、泉の状態も異常と言えば異常だった。なにせ彼女の身体を取り巻いていたのは、うねうねと動く闇の塊だったからだ。 それは、こうして自分たちが神の力を使ってぶつかろうとしたのを考慮すれば、十分にあり得たことだろう。 しかし泉が争う姿勢を顕にしていると言うのに音色だけはなんの力も使っておらず、そればかりか今はただ両手を頭にやって、顔を伏せたままぴくりとも動かない。 そこで日和はようやく気がついた。 音色がいる方向から、夥しい量の威圧感が漂い始めていた。 恐らく空也はいち早くその雰囲気を察知したのだろう。だがそれはもはや威圧感どころではなく、その場にいるすべての者に寒気を覚えさせるほどすさまじいものになっていた。 「泉、行くぞ」 日和は空也が言ったその一言に、なにを口走っているのかと驚いて彼の顔を見た。 泉にもその言葉は相当衝撃だったようで、ぱっとこちらを振り返ると目を瞬いた。 「え、で、でも……空也様」 「行くぞ」 有無を言わせない空也の語調に、泉はびくりと肩を震わせると黙り込んだ。 そうしてそのまま、彼女が出していた闇の塊は空間にすうと消えるようにして溶けていく。 「……なあ」 空也の、妙に間延びした声が聞こえた。日和は再び泉から空也に視線を戻した。 「お前らがそう言う態度なら、こっちにも考えがある。せいぜい『猶予期間』を楽しんでおくんだな」 こちらを挑発するかのような表情と物言いでそれだけを口にすると、空也はにやりと笑む。 するとなんの前触れもなく、空也の身体は霧になって辺りに散らばった。空也に倣うようにして、泉の身体までもが闇の残滓を残して消えた。 日和は力の解放をやめた。 途端に日和の身体の周囲に幾重もの枝を張っていた木々は、しゅうとか細い音を立てながら地面に戻っていく。 しかし日和は木々が地面に返るのを見届けるよりも早く、音色の方に向かって早足で歩き出していた。 音色は未だに頭を抱えて下を向いたままだ。しかし苦しがるでも、嘆いているわけでもない。 日和は音色に近づくと同時にすぐさま腕を伸ばした。 「音色」 ぐい、と、乱暴に音色の肩を掴んで顔を覗き込む。 するとほんの少しの間だけ遠くを見つめていたのか、どこか焦点が合わずに虚ろだった音色の瞳が、ぱっと普段のものに戻った。 「……な、なに?」 きょとんと、まるでこの瞬間になにが起こったのかを理解していないようにこちらを見つめ返してくる音色に、日和はとりあえず安堵した。 よかった。まだ、"取り替わっていなかった。" 周囲に音が戻ってきた。木々は風にそよぎ始め、囀る鳥たちは変わらぬ顔で辺りを飛び交う。 日和の邸宅を中心として、時は瞬く間に世界中を動かし始めた。 「あれ。空也君たちは……?」 「……あ、ああ。帰った」 それだけを返すのが、このときの日和の精一杯だった。 音色はすぐにその理由を聞こうとしたが、こちらの雰囲気を感じ取ったのか、言おうとしていたことを飲み込んだようだった。 なにも起こらずによかったと言うべきなのか、それとも空也たちと完全に決裂してしまったことを悔やむべきなのかは分からない。 だが日和は、もう今日は考えるのはよそうと思った。尋常ではない緊張に身を晒し、挙句神の力まで使ったお陰で身体中が悲鳴を上げていた。 日和はそっと、音色の肩から手を離した。離してはいけないような気がしたが、いつまでもそうやって触れているのも変な気がした。 同時に、いつか音色に「事実」を告げなければならないことも痛感していた。 きっと音色自身も気づいている。けれど自分の口からはっきりと言わなければならない。 彼女が時折見せるあの恐ろしいまでの変化と圧倒的な雰囲気は、まるで「神」そのものだ。 BACK/TOP/NEXT 06/09/16 |