――カミ。ミズ、ノ、カミ。

やはり聞き覚えのある声だ、と、音色は思った。耳にしたのはそう遠くないはず、恐らくは今年中のことだろう。
刺々しくなってしまった気分でさえ一瞬でふっとやわらげるような、どこか中性的な響きがその声には含まれていた。
しかし、どこで聞いたのかはまったく思い出せなかった。

それは誰に向かって言っているの?
音色はぼうっとする虚ろな思考の中で、どこからか聞こえてきたその声に問うた。

――ムロン、アナタ、ニ。ミズ、ノ、カミ、ハ、アナタ、ユエ。

返答はすぐに返ってきた。しかし依然として、その声が言わんとしている意味は理解できなかった。
言葉だけが、単なる記号として脳に刻み込まれていく。

――ミズ、ヲ、オソレル、コト、ナカレ。ミズ、ノ、カミ……。









第三章  -14









音色は突然我に返った心持ちで、はっと目を見開いた。
そこでは、分厚い水越しに揺れる淡い白や青が優雅にたゆたっていた。この光景を目にした音色は、同時に、自分は今の今まで目を閉じていたのだと気がついた。

だがそうなれば事はおかしかった。音色は、目を開くほんの一瞬前に人の姿を見た気がしていた。
どこからかわんわんと響いてくる馴染みある声の最後の一言を聞いたその直後、眼前に掠めるような速さで誰かの顔が映ったのだ。
青みがかった白のような銀のような色の長い髪を靡かせながら、こちらを見て哀しそうに目を細めていたのは、あれは、幻だったのか。

しかしそんな回想に現を抜かしている暇もなく、音色はすぐにぱっと口元を押さえた。
未だに音色の身体は水の中で、しかも仰向けになったまま自由がきかない。今まで忘れていたのが不思議に思えるほど、音色の息はここにきて一気に苦しくなった。

(……くっ)

水が手に、腕に、胴に、脚に絡まって思うように身動きが取れない。
体勢を整えようとすればするほど不安定になって、では足掻くのをやめた方がいいのかと言えば、それは言わずもがな溺死の道へまっしぐらである。

これは本当にまずい。音色がそう直感して、誰の助けもなく空しく水底へ沈んでいく自分の姿をちらと想像したとき、しかし異変は訪れた。
とん、と、それは軽く優しく、誰かの手が音色の背を水面に向かって押し上げたのだ。
途端に胸につまっていたなにかが解かれた感覚が走り、音色の手は水を突き破った。

「ごほっ!」

ばしゃあ、と、辺りに飛び散る水飛沫とともに音色は上体を起こした。
音色の手は今、しっかりと白い大理石の噴水の縁を掴んでいた。両足も疑いなく地についていた。
そうしてなんとか立ち上がった音色は、しかし身体を半分に折って激しく咳き込んだ。どうやら気管支に水が入り込んでしまったらしく、空気がそこら中にあるというのに上手く呼吸ができなかったためであった。

それでも強引に息を整えた音色は、いったい自分の周りでなにが起こったのかと顔を上げた。
完全に顔を上げる前に目に入った足元では、溺れかけたというのに、何故か噴水の水は音色の太腿くらいまでしか湛えられていなかった。

どうして自分はこの中で起き上がることさえできなかったのだろう。
内心小首を傾げながらも音色が眼前を見据えようとすると、その矢先、目の前で数回弾けるように軽く水飛沫が上がった。あまりにも突拍子もない音と衝撃に音色は驚いて後退した。

音色が尚もわけが分からないまま呆然とそれら一連の動きを見送っていると、すぐにどさりどさりと重い音を残して、噴水から数メートルも離れていない場所になにかが落ちる。
噴水の周囲の白い砂利の上には、濃い紫色に光るごつごつとした矢尻のようなものが転がっていた。

「……な」

なにこれ、と言おうとした。
しかし音色が最後まで言えなかったのは、咄嗟にある少女の姿が視界の中に入ったからだった。

誓ってもいい。確かに先程までは彼女の姿はどこにも見受けられなかった。
突然現れた空也に気を取られていたという可能性もあるが、それを抜きにしてもこの少女がどこかにいれば間違いなく目を引かれただろう。
白いラインの入った黒のセーラー服――明英学園中等部の女子生徒の制服だ――を身に纏ってこちらに鋭い視線を送ってくる彼女は、噴水から少し離れた場所に、音色と対峙するような形で静かに立っていた。

(……うわ、美人さんだ)

音色は自分の髪の先からぽつりぽつりと滴る水を拭うのも忘れて、彼女の姿に見入った。
彼女の放つ雰囲気は中学生と言うには大人っぽく、また艶やかであった。
腰の辺りまで真っ直ぐに伸ばされた黒い髪は、彼女のどんな些細な動きに合わせてもしなやかに宙を舞う。白い肌の上に長い睫毛で縁取られた大きい黒の瞳は、まるで人形のようだ。

同性から見ても彼女は綺麗だと思えて、抜け目などどこをとってもあるはずがない。
しかし笑えばもっとその美しさが増すであろうに、今の彼女は眉間に皺を寄せて、ひどく怖い顔をしていた。音色はそんな彼女の表情に気づいたとき、背筋が凍えるのを感じた。

音色が彼女を見つめてからそれほど経ってはいなかっただろうか。
黒髪の少女はゆっくりと右腕を持ち上げた。その周りには、配管から空気が漏れたかのような不気味な音が飛び交い始める。

再び音色の眼前でパアンという音と共に水飛沫が上がった。
どうやら彼女が腕を振りかざすたびに、彼女の手が空を切るたびに、その軌道上から現れた硬質の物体が自分目がけて飛んでくるようだった。
しかしそれらは音色の身体の数十センチ前に瞬時に現れる水にぶつかって、力を失った風にことごとく地面に落ちていく。外見からして、飛んでくるのは当たれば重傷を負いそうな硬い石のようだったが、それが不思議と当たらないのだから音色はただ目を瞬いた。

「え、あの」
『水の守護範囲から出てはなりません』

この瞬間、彼女がなにをしてなにが起こっているのかが相変わらず理解できなかった音色は、とりあえず事情を知っていそうな彼女の元へ歩み寄ろうとした。
だが噴水を乗り越えて地へと足をつけた音色は、即座に頭の中で響いたリーネの厳しい声にたじろいだあまり立ち止まった。
そんな音色目がけて、濃い紫色の物体はまたしても勢いよく放たれた。

これでは当たる、と直感した音色は思わず目を瞑り、反射的に身構えた。
だがそうはならなかった。
いつの間にか音色の前には音色の身長以上もある巨大な円盤状の水の盾ができており、それが彼女の方から放たれた硬質の物体を広範囲に渡って受け止めていた。

「……リーネ?」

音色の真正面でふわりふわりと繊細な銀髪が舞う。風もないのに、どうしてか銀髪は緩やかに揺れ動く。
音色と水の盾の間には、これまたいつ現れたのか、リーネが立っていた。
その白く細い腕を黒髪の彼女の方へと突き出して、あたかも巨大な円盤状の水の盾を支えるかのようにして。

『仕方がありません。音色、あなたに私の力を預けます』

こちらを肩越しに振り返ったリーネの顔は、普段以上に真剣だった。

『今の音色、あなたでは彼女の攻撃をすべて防ぎ切れるとは言えません。けれど、私にもまだ力は残っています。私があなたに憑依することであなたは私の力とその力とを合わせることができる。あなたの持つ神の力は史上のものとなる』

音色はこのときふと、いつしかリーネとサーンの存在に関して疑問に思った事柄を思い出した。
リーネの口から、現世に呼び出される前の、白だけで構成される亜空間の話を聞いたときに薄らと感じたことだ。
「守護霊」とはなんなのか? 黄泉の世界から呼び出されてまで彼らはいったいなにを「守護」すると言うのであろうか?

『音色、手を』

リーネが、水の盾を支えている手とは反対の手を差し出してくる。
音色は言われるがままに、伸ばされたリーネの手のひらに自分の手を重ね合わせた。

そうして互いの手と手が完全に触れたときだった。リーネの姿は突然ぶれたかと思うと、瞬く間に音色の眼前から消え去ってしまったのだ。
異変はそれだけでは収まらなかった。
一拍置いて、なんの変化もないのだろうかと思案した音色は、しかしぐっと強く胸元を押さえた。

今まで感じたこともない程の莫大な力が、心臓の辺りを中心とした身体の奥から滾々と溢れてくる。
少しでも四肢を動かそうものなら、その弾みでなにかを間違って破壊してしまいそうなほどの力だ。だからこそ、そんな力が自分には大きすぎて制御できない気がして、音色はたまらなく怖くなった。

音色は胸に手を当てたままちらと黒髪の少女を見た。
彼女は今や信じられないとでも言いたげな表情を浮かべていたが、一瞬で元の、こちらを拒絶するかのような冷たい瞳に戻った。
そうして彼女の両腕は再度、ゆらりと持ち上がった。

「ま、待って……っ」

休む暇をも与えないつもりなのか、彼女の腕は敏速かつ優雅な動きで空を切る。
腕の動きに合わせて、なにもない空間から生まれた濃い紫色の鋭利な石が次々と音色を目標に飛んでくる。

しかしこのとき、音色の腕もまた同じくらいの速さで動いていた。
だが音色自身は動かしているという実感はない。こんなに的確に、四方八方から飛び交ってくる物体を防ぎ落していく自分は、自分ではない。
そこで音色は悟った。今の自分の身体は、これはリーネが動かしているのだ。

リーネが消える間際に言っていた言葉が脳の片隅をよぎる。
私があなたに憑依することであなたは私の力とその力とを合わせることができる。そうリーネは言った。
その証拠に、音色の手は自分の意志とは関係なく勝手に動いた。黒髪の少女から放たれた物体を、音色は水の力を借りて弾き飛ばしていった。

だが、音色はこの現状を否定するかのように首を横に振った。違う。自分はこんな現実を望んでいたのではない。
自分はなにも彼女と敵対したいわけではない、戦いたいわけではないのだ。
なにせ彼女は、彼女もまた――。

「お願いだから……あ、あの……!」

身体を自分以外の者に操られながらも、音色は懸命に少女の方を向いた。

「宵宮さん!」

気づいたとき、音色は夢中で叫んでいた。
間違いない。彼女のその人智を超えた力が証明している。
彼女はまさしく、以前日和から聞いた、自分たちと同じ神の力の保持者である宵宮泉本人だ。

本当はその容姿を目にした瞬間から自分の中では分かりきっていたのだ。
なんと言っても前世の記憶の中にあるサラと彼女はそっくりだった。それはもう、怖いくらいに。

黒髪の少女、泉は、音色の発言に対しぴくりと片眉を跳ね上げると、すぐに振り回していた腕を止めた。
それはなぜ自分の名を知っているのだろうと言う怪訝な表情だったが、すぐに理由を思いついたらしく、なるほど、と納得した顔つきになった。

「ああ、緑木日和ですね」

浅い溜息をつくと、泉は呆気なく腕を下ろした。
そんな彼女の行動に音色はほっとして胸を撫で下ろす。身体を動かす主導権は、自分の方へ戻ったようだった。

「あの……」
「わたくしを呼び止めたと言うことは、こちら側に協力するという主旨でいいのかしら?」

しかし泉が音色に向けてまともに放った第一声は、未だに冷酷な響きを含んでいた。
それでも音色は、泉がこちらの意見を聞いていることに淡い期待を抱き続けた。
空也よりは彼女の方が幾分こちらの考えを分かってくれるかもしれないという、漠然とした自信があった。

「も、もちろん協力はするよ! でもそれは、私たちの力を神に返すってことで……」
「そう」

どもりながらもなんとか泉に理解してもらえるよう必死だった音色の言葉を、泉は容易く遮った。
そして音色を一瞥した泉は顔を歪めて、ごく短い間、そのままの表情でハッとこちらを嘲笑った。

音色はこの瞬間、どきり、とした。
同時に、筆舌に尽くしがたいどうしようもない絶望を纏った感情が、胸の奥からふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
音色のその直感は正しかった。泉はすぐに音色に面と向かうと、凄みのある、彼女にはまるで似つかわしくない声で吐き捨てた。

「いい加減笑わせないでちょうだい」













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06/08/20