第三章  -13









音色の腕を掴んでいたはずの手が無理矢理解かれたのは、本当に一瞬の出来事だった。
日和が事の次第に気づいて背後を振り返ったとき、既にそこに音色の姿は見受けられず、何故か数メートル先にある大きく真っ白な噴水からは、自分の家を背景にして空に向かって勢いよく水飛沫が噴出したところだった。

なにが起こったのかは定かではない。が、音色が突然背後から消えたのは彼女の意志ではないと日和は直感した。
空也がここにきた以外になにかが起こり始めている。そんな不安にも似た焦燥が、瞬く間に身体中を戦慄させた。

「音色!」

あの水飛沫の中にいるのは間違いなく音色だと、考えるよりも先に声が出ていた。
日和はすぐさま噴水の方へ駆け寄ろうとした。しかし次の瞬間、不意に現れた高い声に足が止まった。

「聞くまでもないことです。どうせ流水音色は緑木日和側なのでしょう?」

突然湧いたかのような可憐な声に、日和は視線を空也側に戻した。
空也の立つ黒い門の前には、いつの間にか一人の少女が右腕を宙に翳したままの姿勢で立っていた。

見間違えようもなかった。どうあっても見間違えるはずがなかった。その少女は確かに、宵宮泉だった。
泉はいつしかのパーティで出会ったときの容貌とまったく変わらず、今は私立明英学園の制服を着て、澄ました顔をしてそこに佇んでいた。
なぜ彼女がここに、と日和が考える間もなく、泉は口を開いた。

「流水音色はわたくしが引き受けます。空也様は緑木日和の説得をしてください」
「説得、ねえ……。ま、多少は荒くなりそうだけどな」

可笑しそうに噛みしめて笑う空也の傍で、ふっと泉の姿が消える。
これはまずい。日和はすぐに嫌な予感を覚えて、再び音色がいるであろう噴水の方に身体の向きを変えた。しかし日和が振り返った先には、さっきまではなかったはずの空也の姿が、割り込むようにして悠々とした体でそこにあった。

日和は一旦驚いたものの、すぐさま今は自分の後ろにある黒い門を背中越しにちらと見た。
案の定門の上から人の姿は消えていて、代わりに正面の、自分から数メートル離れた場所には尚も変わらぬ姿の空也がいる。
日和が途端に眉をひそめたのに気がついたのか、空也はふっとこちらを嘲るような笑みを浮かべた。

「……冗談だろ。こっちは今日球技大会だったんだ」
「お前の予定なんぞ知るか。こっちだって忙しいんだよ」
「時間を止めているのに忙しいもあるか」

日和が相手の反論する余地も与えない言い方をすると、空也は浅く息を吐いて肩を竦めた。
それは、また始まったよ、とでも言いたそうなうんざりした顔だった。

恐らく自分がなにを言っても空也はそこから退こうとはしないだろう。
しかし先の彼らの会話から推測するに、音色の元へ向かった泉がどういう手段で彼女を「説得」をするのかも気にかかった。それに泉のあの登場のタイミングと恰好、恐らく音色を噴水まで投げ飛ばしたのは泉に違いない。
どうにかしてどうにかするしかない。この苦境で思い切り力技めいたことを考えた日和の耳に、しかしふと空也のどこか拍子抜けしたような声が飛び込んできた。

「ああ……そういや意外だったぜ。てっきりお前は、こっち側につくと思ってたからな」

その言葉に、日和は少し遅れてからゆっくりと空也の顔を見た。
いったい空也は今度なにを口走ろうというのか。日和がそのまま無言でいると、空也はこちらを真っ直ぐ見てから声を潜めて言った。

「お前、なにをそんなに善者ぶってる?」

挑戦的な空也の口調に、互いの間に流れる空気がますます険悪になる。だが空也はそんな雰囲気を無視して続けた。

「お前は確かに『こっち側』の人間だ。それは間違いじゃないだろう? それなのに、お前の守護霊はどうだか知らないが、肝心の当人はせっかく手にしたこの力を大人しく神に返すだと? この力をわざわざ自ら進んで捨てろっていうのか? ……ハッ、利なんかこれっぽちもありゃしない」

まるで無知な者をたしなめるかのごとく人差し指を向けて、空也は日和に畳みかける。

「お前は俺たちと『同じ』なんだよ、勘違いするな。なにせ十分な金と地位があっても手に入らないものがある。お前も含めて俺たちは常にそれを欲しがってるんだからな。でも決して手に入らない――そうだろ?」
「……お前がなにを言ってるのか、分かりかねるな」

日和がやっとのことで口を挟んだが、その反論が気に食わなかったのか空也は顔を歪めた。

「おい、しらばくれるなよ。この国でトップの御曹司様がなに抜かしやがる」

空也は今まで以上に語調を強めると、日和との間合いを詰めてから吐き捨てて言った。

「お前は本当は、この力を手放したくはないんだろう? むしろ、もっと増えればいいとさえ思ってる」

どこか誘惑めいた空也の言葉を、日和は冷静な表情で受け止めた。
しかし空也の口から紡がれる言葉のひとつひとつが、自分の意志とは反対に、心の奥ではぴたりぴたりと吸いついていく。
それはまるで頭の中を乱雑に引っ掻き回されるような感覚だった。

空也は知っているのだ。些細ではあっても、本当は自分が神の力に固執していると言うことを。
同類であるからこその一致。立っている基盤が似ているからこそ、似た者の心の底が推測できてしまう。
だからこそここで日和は言い返すことができなかった。たとえ理由を見つけて言い返したとしても、ふとした拍子に自分の本心が現れてしまうのではないかと思ったから、だから言えなかったのかもしれなかった。

金があっても買えない、他人が羨むような地位があっても足りない、どんなに最高だと謳われる名誉でも凌ぐことのできないそんな新しい「なにか」が欲しい。
意識しなくとも、もしかしたら自分はそんなエゴを絶えず心のどこかにしまっていたのかもしれない。
今の生活には不自由しない。むしろ余りあるほどだ。だがその余剰分をどこに費やしていいのかが分からなかった。

そんな中で突然現れた神の力は、その漫然とした日々を打ち破るには画期的なものだった。
やはり心の底では、空也の言う通り、自分は今までの生活に変化をもたらした神の力を手放したくないのかもしれない。
だから今自分は、空也の言うことに異論一つ唱えることさえできないでいるのではないだろうか。

「日和、お前が俺たちのように欲望を顕わにすることができない理由を教えてやろうか? それは、お前の隣には音色がいるからだ」
「……違う」
「違わねえよ。現に音色はお前たちの守護霊の味方だ、潔いくらいのな。だがお前はどうだ? 彼女のようになれるか? 神のため世界のためにと、己を犠牲にできるご立派な覚悟があるっていうのか? 『お前』に?」

これは罠だ。これは誘導尋問だ。
日和が心の中でそう呟きながら葛藤するとともに、同じ言葉が頭の中で、誰かの声色で繰り返される。

確かに、最初はそうだったかもしれなかった。少なくとも神の力への執着があった、こればかりは認めざるを得ない。
しかし前世の記憶を見て、自分の前世だという者の言葉を聞いたときから、もはやそんな執着は薄れ始めていたのもよくよく考えてみれば事実であった。
ゆえに自分は今この位置に立っている。そうでなければとっくの昔に音色を捨てて、もしくは音色を必死に説得でもして引き連れて、空也と泉の側についている。

――で、結局、お前はどうする?

自分とよく似た容貌の少年が、自分以外には知られない場所からひっそりと囁く。
どくん、と、その拍動で全身から汗が噴き出るかと思うくらい心臓が鈍く唸った。

「……だったら」
「あ?」

揺らいでいた心がこの瞬間にしっかりと定まった気がした。
やはり自分は、この力を元あった場所に返すのだと自覚したとき、自分のこれから歩んでいく道が輪郭をはっきりとさせて眼前に現れた。

「俺にお前たちと同じ意志があるっていうなら、俺だけを狙ってくればよかっただろう。何故音色まで狙う? 彼女の方が誘惑しやすそうに見えたか?」

たとえ根っこが似ているとしてもあえてそれを振り切ろう。
善者ぶっていてもなんでもいい。それが自分が正しいと思った選択であるならば、迷わずその方向へと突き進んでやる。
それは、もう自分は空也や泉たちと違う選択をしたのだと暗に示すための言葉であった。

日和はあくまで普通に、いやそれ以上の気迫を持ってその言葉を口にした。どこにもおかしい点などない、真剣そのものであったはずだった。
しかし空也は日和のその言葉にきょとんと目を見開かせると、しばらくした後で急に腹を抱えて笑った。

「ああ、そう言うことか……! 知らないならお前に話してやる義理なんかねえよ」

日和が突然の空也の様子に唖然とする前で、空也は目尻の涙を拭いながら笑いの尾を引く声で言った。

「俺が音色を狙う理由? そうだな、俺の興味ってところだ。あれはなにも知らない目だからな。吐き気を催すくらい純粋で、俺たちが立つこっちの世界なんてまったく知りやしない」

そこで空也は一回深呼吸をすると大袈裟に笑うのをやめて、折っていた身体を元に戻し、にいと口元を釣り上げた。

「俺色に染めたらどんな風になるのか、興味があるんだよ」

その瞳は、疑いようもなく空也の本心を映していた。
音色はいずれこちら側にくるとでも言いたげなその素振りは、逆にこちらが疑問を抱いてしまいそうなほどの自信に満ち溢れていた。

「さて、問題」

日和がそんな空也に対してなにかを言おうとした寸前、空也は鷹揚に両手を広げた。
日和は開きかけた口を閉ざした。どこからかしとりしとりと嫌な気配がやってくる。

「泉は本気だ。本気で俺の考えに賛同してる。……そこで、お前たちに残された最良の道は?」

空也の腕に纏わりつくようにして、急にこの場に現れた真っ赤な炎が勢いよく踊り散る。
それは緑木家の庭の芝生をすべて覆い焼き尽くしてしまいそうなほどの火力と熱気だったが、不思議と地面に接していても空也の周囲に留まるだけで、燃え広がることはなかった。

このとき、ふと日和の頬にも柔らかいものが触れた。
それはぱきぱきと乾いた音を発して、日和の身体を取り囲みながら徐々に成長を遂げていく。
日和は空也を見据えながら、今も自分の足元から次々と芽を出し大きくなっていくそれにそっと人差し指で触れた。

「最良の道? 自分の信じた道を行くことの他にまだあるっていうのか?」

空也は日和のその言葉に、面白いものでも見たかのような顔つきになって目を細めた。
相対峙する二人の傍には、いつの間にか各々の持つ神の力が、今にも相手に切りかかりそうな構えのまま具現化していた。













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06/08/18