それがどうしてなのかは分からない。 けれど自分の頭の中で、なにかが突然こう言った。ああ、そこに"私"がいるわ、と。 第三章 -12 風も停止しているというのに何故かふわりふわりと宙を舞う空也の髪が、彼の頬に触れたり離れたりを繰り返している。 彼の妖しげな瞳と雰囲気がこちらを向いているその異様な様を、音色はなにも考えられないまましばらく見つめていた。 しかし数秒も経った頃だろうか。空也が音色にしか分からない程度に、ほんの少しだけふっと笑んだ。 その時、どくんと、音色の身体の奥の奥の奥底で、何かに呼応するように心臓が一回だけ鈍く拍動した。 だがそれは異性を前にして心臓が高鳴ったわけではない。むしろ逆と言ってもいい。 まるで心臓を鷲掴みにされたかのようなその感覚は、全身に恐怖を感じさせるほど凄まじいものだった。 音色は空也の黒い瞳から視線を逸らせなくなった。それは大凡単なる「気」でしかないのだろうが、逸らした途端になにか取り返しのつかないことになりそうで、それがとてつもなく怖かった。 しかしすぐに、音色は視線を空也から逸らさざるを得なくなる。 それは日和が音色の腕をぐいと掴み、音色を庇うようにして前に一歩出たからだった。 日和はいつになく不機嫌そうな低い調子で、空也の立つ門の上を見据えて言った。 「何の用だ」 「あーいきなりそれかよ、面倒臭え。よくもまあそんな警戒心剥き出しで……まったく、人の話を聞く態度じゃねえな」 尚も門の上に立つ空也はそんな日和の態度に横を向いてふうと溜息を漏らすと、肩を竦めて見せてから再度口を開く。 「最後のお誘いだよ。だが、勘違いするな。これは泉の提案だ」 「さすが。頭の切れるご令嬢は違っていらっしゃる」 日和が皮肉っぽく返したが、空也も空也でそれを気にも留めずに横へ流すと鼻で笑った。 音色は一触即発という言葉が似合いそうな二人の姿を、冷や冷やとした心持ちで何回も見比べた。 「お前に協力するっていう話ならお断りだ。今までもこれからも」 華麗とも言えるほど日和はそれだけを吐き捨てるように言った。 一方の空也は眉一つ動かさない。するとすぐに今度はこちらへ、どことなく懐柔さえしそうなほど柔らかな空也の瞳が向いた。 「音色は?」 空也が優しくそう問うてきた途端に、ぐっと、日和の、自分の腕を掴む手に力が込められた。 分かっている。空也の提案に自分が乗ることを、日和は恐れているのだ。 以前音色が空也と出会った時、空也は確かに自分たちのこの神の力が欲しいのだと言った。 恐らく空也はこちら側の協力を求めている。今回時間を止めてまでこの場に来たのはそれが理由で間違いないだろう。 もちろん音色は、目的も判然としないままこの力を使うことを承諾するつもりはなかった。 しかしふと顔を上げたそこで、こちらに微笑み続ける空也の顔が目に入ってしまったとき、ぞっとした。 それは完全に自信のある「笑み」だった。 恐らく空也は、自分が日和の意見に倣おうとしていることを知っている。だがそれでも、彼には自信があるのだ。 音色が呆然と見上げる彼のその瞳が理由を雄弁に物語っていた。こちらを選ばなければどうなってもいいのかと、その「笑み」が確かにそう言っている。 ここで空也を選ばなければ、まずい。 音色は咄嗟にそう直感したが、しかしなおも強く掴まれたままの日和の手の温もりが心残りで、ますますどちらを選べばいいのかが分からなくなった。 「わ、私は……」 それでも音色は躊躇いつつなにかを言おうとした。が、最後まで言うことは敵わなかった。 それは本当に一瞬の出来事だった。なんの前触れもなく首根っこを誰かに強引に掴まれたと感じるや否や、音色の身体は勢い後方へと吹っ飛ばされていたのだ。 固く握られていたはずの日和の手さえ、呆気なく解かれてしまうほどの力だった。 あっ、と叫ぶ間もなく身体は地を離れて全体が浮遊感に包まれる。素早く動く周囲の景色に頭は追い付かない。 そして音色が次に感じたものは、辺りに響き渡るばしゃあという豪快な音と、視界いっぱいに水飛沫が舞うワンシーンだった。 それが、自分がたった今投げ出された先は緑木家の、先程まで見ていた白い石造りの噴水の中だと気付くのに大した時間は必要なかった。 何故なら音色はこの瞬間、透明な水面越しに大理石の白色を確認したのと、鼻から水を思いきり吸ってしまいむせ込んだからである。 立ち上がろうと手を伸ばす、が、その手は空しく水を掻くだけでどうにもならない。鼻とは言わず口からも大量の水がなだれ込んできて、息ができずに苦しくなる。 しかしいつも目にしていたはずのあの白く美しい噴水の内部はこんなにも深かっただろうか。 音色が若干混乱に陥りながらも頭の片隅でそんな危機感の欠片もないことを考えていたちょうどその時、またも異変はやってきた。 ―――ミ、ズ、ノ、カ、ミ、? 音色の耳に、前にどこかで一度聞いたことのあるようなないような、優雅で低い男の声が飛び込んできた。 BACK/TOP/NEXT 06/08/16 |