ビキビキと、両手足が灰色の地面を介して大地の中に呑み込まれていく。 しかし完全に呑み込まれてしまってはこの身体自体が消滅する。そうなれば本末転倒だった。 城の中の何段もの階段を下りた先、暗い日の光さえ差さない無機質な地下部屋に、サーンは仕事のときだけ篭った。 この日も朦朧とする意識を必死に繋ぎ止めていたが、ふと走った何者かの気配を感じてサーンは無理矢理顔を上げた。 いつの間にかこの部屋の扉の前には、灰色の長い髪と同じく灰色の瞳を持つ少女が無表情で立っていた。 「ウィリ……ネグロス?」 この部屋は親以外に誰も知らないはずだ。リーネさえも知らない。 しかし何故かそこに立っているウィリネグロスは、数秒こちらを見つめたあと、ついてこいとでも言うように踵を返した。 序章 -14 ごぼごぼと目の前で泡が渦巻いている。 強い水にぐいぐい引っ張られるかのようにリーネの身体は流されていく。 やはり想像した通り、湯船の中は混沌と化していた。 水が互いにぶつかり、普通でも息がつまる水圧をさらに高める。しかし不思議と息苦しさを感じることはなかった。 恐らく数メートルも潜った水中にいるというのに、むしろ居心地がいいと言うべきだろうか。 だが今はそんなことに気を留めている暇はないのだ。 一刻も早く落ちた侍女を助けて、自分自身も上に上がらなければならなかった。 この息もいつまで持つか分からなかった。たとえ今は楽だとしても。 「……っ」 薄暗い水に半ば強引に引っ張られるようにして、リーネは奥へ奥へと進んでいく。 水の力のお陰でなんとか完全に引き摺られずに済んでいるが、普通の人間ならばすぐに失神してしまうだろう勢いに感嘆する。 だがそれよりも気がかりなことがあった。 リーネは水の中に飲まれまいと意識を強く保ちながら、ずっと考えていた。 果たして湯船の中は、人間が数メートルも潜ることができるほど深かっただろうか。 さっきからどんどん下方に流されているが、まったく地面が見えてこなかったのだ。 こんなに深くては、いつも湯船の底に足が着かないではないか。 やはりこれは変だと、リーネは毎晩の湯浴みを思い出す。 確かいつも侍女に案内を頼んで、あの両つがいの扉を開けて浴室に入り、さらに長い階段を下りて湯船へ――。 (階段!) リーネは、はっとして目を見開いた。 そうだ。階段のことをすっかり忘れてしまっていた。 さっき上にいた侍女が縁に手をかけていた場所、あれがてっきり湯船の縁だと思い込んでいたが、違ったのだ。 あれは下方に造られている湯船へ進むための「階段の縁」だ。 湯浴みをするときも、振り返ってみればそうだったではないか。 長い階段を下りて湯船まで辿り着く。下方に造られた湯船に行くためには、長い長い階段を下りなければいけないのだ。 つまり階段の縁まで水が迫ってきていたということは、あふれ出した水の深さが何メートルにもなっていたからである。 リーネは流され行く水に揉まれる中で、肩越しに背後を振り返った。 混濁する水の向こうに、薄らと石造りの段がいくつか見えたような気がした。 (でも、溝は……?) さっきから同じくこの言葉も引っかかっていた。 侍女の一人が溝に落ちたと彼女たちは言っていた。けれど肝心な溝の意味するところが分からない。 リーネは必死に湯船の構造を思い出す。 あちこちに張り巡らされた溝、自分が気づかなかった溝。 (……もしかしたら、排水路?) そう考えると合点がいく。なにもかもが一つに繋がる。 侍女が落ちたのは、きっとあふれ出した水をはけるための排水路に違いない。 先程見た給水口は見るも無残に崩壊していた。そのため排水路を確保しようとして、恐らくは落ちたのだろう。 リーネは今までより深く潜り、必死に辺りに目を凝らした。 十分な深さがある、もうそろそろ排水路に近づいてもいい頃だった。 すると突然、それまで水が渦巻いて薄暗かった中に、白く光る布が視界の中に飛び込んできた。 それはゆらゆらと水にたゆたうようにして揺れている。 リーネはその布の端を掴んで、一気にぐんと潜った。 途端、そこはさっきよりいっそう暗くなった。まるで薄暗い海淵のようだった。 どうやらここが問題の「溝」らしい。 ただ溝とはいっても縦は人の頭が出るかどうか疑わしいほど深いし、横の幅も余裕で隠れられるくらいの広さがあった。 リーネが白い切れ端のような布を辿った先、そこには人間の顔があった。 若い女だった。間違いなく落ちてしまった侍女に違いない。だが彼女の意識はなく、目は優しく閉じられていた。 (見つけた……!) 力の抜けた侍女の腕を引っ張って水面に上がろうとする。だが、彼女の身体はどうしても持ち上がらなかった。 周りに視線を巡らすと、彼女の服の裾が溝の石の出っ張った所へ引っかかっていた。 これを外さなければ彼女は上には行けない。 唸る水に流されないように、リーネは石伝いに潜ってその布の引っかかっている部分に手を伸ばす。 焦りが生じそうになって、必死で落ち着くよう鼓動を鎮める。 なんとかして白い布を石の出っ張りから外すと、今度は侍女の身体が水に流され始めた。 リーネは一息つく暇もなくまた上昇した。ここで彼女が流されてしまっては、その姿を再度見つけることは難しくなってしまう。 水に押されて傾いていくその身体をようやくのことで受け止めたリーネは、すぐに水面を目指して泳ぎ始めた。 しかし水は潜ったときよりもさらに勢いを増していた。 まだ堰が故障しているのだろう。水の眷属であるリーネでさえ、上から絶え間なく叩きつけてくる水に怯んでしまった。 「……っ!」 それまで水の中は平気だと思っていたが、途端に息ができなくなった。 リーネはぐっと息を呑んだ。今まではなんの障害もなく楽だったのに、どうしようもない息苦しさが全身に広がっていく。 水圧に胸が締めつけられる。肺が押し潰されるように苦しい。 駄目だ、これではこのままでは二人とも助からない。 腕の中にいる侍女はまだ目蓋を開けない。リーネは焦った。 早く地上へ戻りたい。応急処置を施さなければ、彼女は二度と帰らぬ人となってしまう。 それは嫌だ。誰か、誰かここから出して。 (助けて……!) リーネは未だ意識の戻らない侍女を抱きしめて、強く強く願った。 どうしても助けたい。たかが人間一人の命だと言われてしまうかもしれない、けれど自分にとってそれはかけがえのない大切なものなのだ。 いったい彼女の命を、他のなにと交換できると言うのだろう。 ああ、幻視だろうか。さすがに意識も薄れてきたのだろうか。 気のせいかどこからか、閉じた目蓋の向こうに不自然に眩い光が見えた。 胸元にある母の形見の真珠のネックレスが揺れているような気もした。 突如現れたその小さく眩い光は、瞬時に勢いよく自分たちの身体を包み込んだ。 そしてどこからか厳かな、それでいて尊い鐘の音が響いてきた。 遠くから聞こえるような、ゆっくり厳かにそれは鳴り渡っている。 エターリア国にこんな音色の鐘はない。はて、どこの国のものだろう。 水がさっきとは違い穏やかにぐるぐる渦巻き、その間からいっそう眩い金色の光が漏れる。 『――よかった』 静かだ。水の流れる音も聞こえなければさっき聞こえた鐘の音も聞こえない。 ふっと息を吐いて、そのまま息ができることにリーネは驚いた。 リーネは恐る恐る目蓋を持ち上げた。 驚いたことに目の前には誰かが無言のまま立っている。眩しい、眩しくてとても長い間見ていられないほど輝かしい誰かが。 地に着きそうな長い髪は金色とも銀色ともつかない輝きを放って宙を舞っている。 人間なのだろうが顔が分からない。どこか輪郭がぼやけている、と言うよりは光っていた。 この世のものとは思えないほど清純な金色の光がその身体から発せられている。 その誰かはこちらを向くと、光に負けず劣らず薄く笑んだ。 『あなたで、よかった』 驚きのあまり、リーネは眩しいと言う感覚さえ忘れて見入ってしまった。 女だろうか。声色からしてまだ若い女のようだった。 長い髪に透き通るような声は、どこかで見聞きしたような容姿だった。 そう言えばサーンと出会ったときに現れたあの影に、少し似ているだろうか。 あなたはいったい誰なのか。そしてどうやってこの場にいるのか、ここはどこなのか。 リーネがなにかを口にしたくて声を出そうとすると、途端に光と彼女は風のように消えていく。 「待ってください!」 静かな微笑みが光の向こうに消えていく。 けれどまだなにも聞いていない。 もしかしたらこの力のことも、彼女は何か知っているかもしれないのに。 光に包まれていた風景が元に戻っていく。 白い光は収束していき、代わりに石造りの灰色やら装飾の金が辺りに広がった。 「リーネ!」 鼓膜を震えさせるような歓声が上がっていた。 リーネがはっと見上げれば、目の前の湯船へ続く階段の上に、何人もの侍女や召使いがこちらを見て手を取り合い喜んでいる。 リーネは一瞬呆けて、ここがどこなのか忘れてしまった。 水がないから分からなかった。今座り込んでいるのは水を完全に抜いた浴室、湯船の中だった。 風を感じて足元に目線を落としてみれば、座り込んでいるすぐ横には深い溝が下に口を開けていた。 さっきまで湯船を満たして階段の上方まで迫っていた水は、辺りから不思議なほどかき消されていた。 湯船へ水を引く給水口からの水も止まっていた。 「リーネ! 平気か!?」 上方から、先程も耳にした焦りを含む声が聞こえた。 ちらちらと、相変わらずその金色の髪が目に痛いエターリア国の若王は、本物のサーンだった。 彼の顔は珍しく一面蒼白で、階段の縁に手をかけてこちらへ身を乗り出していた。 だがサーンは今、部屋に篭って「仕事」をしているはずだ。そんな彼が何故この場にいるのだろう。 しかしどんなに考えてもこの場にいるだけで目立つ彼を見間違えるわけがなかった。 それでも未だに上手く事情が飲み込めない。 ぼうっとしてへたりこんでいるリーネを見かねたのか、サーンはすぐに階段を駆け下りてきた。 「……この方、を……早く」 こふっと腕の中で侍女が小さく咳き込むのが分かった。 大丈夫だ、まだ助かる。リーネは力を振り絞り侍女を抱きかかえた。 サーンのうしろから駆けてきた召使い数人は、まだ息がある侍女に驚いて彼女を抱きかかえていく。 これで医務室へ取り次がれるのなら安心だ。 呼吸も戻ったようだから、きっと元の生活を営むまでに回復できるだろう。 力を使った所為だろうか。足元がふらついてしまったリーネは、誰かの胸に倒れ込んだ。 顔を上げる余力さえ残っていなかったが、いつになく強い力で抱き締められて、倒れたのはサーンの胸の中なのだと分かった。 「よかった、本当によかった……」 サーンの声が近くに聞こえる。 冷え切っていた身体が、どこからかぽうと暖まってくる。 同時に、今までの疲れがどっと一気に押し寄せてきたが、なによりも彼の温もりに安心できた。 一人ではない。孤独ではない。 傍には確かに自分を見ている瞳がある。それがただひたすらに嬉しかった。 忘れてしまった過去を悔いることより、この目先の幸せを大切にしたいと、そう思えた。 リーネはそっとサーンの胸に顔を埋めた。 もう彼に一生触れることもないだろうと、あの状況の中でそう思ってしまったのに。 「ありがとう、ございます……」 現実は優しすぎて、だからいつも後悔ばかりしてしまう。 自分の知らないところで勝手に涙があふれてきた。それは拭っても拭っても留まることを知らなくて、仕方がなかった。 ああ、あともう少しだけ我儘が許されるのなら。 神様、どうかこの時間を永遠に刻んでください。 BACK/TOP/NEXT 05/10/16 |