序章  -13









「城内を?」

王家の毎朝恒例である朝食風景である、長く大きいテーブルにサーンと面と向か合って座っていたリーネは、彼の言葉に顔を上げた。
サーンは馴れた手つきで一枚肉にナイフを入れている。いつもとなんら変わらない朝食の席だった。

「そう、"城内散策"。まだ城のことそんなに知らないだろ? 今日はゆっくり見て回ったらどうかと思ってさ」

そう言えばここ最近はなにかと忙しかった。
王家に入って婚儀を済ませて、すぐに一通りの礼儀作法を覚えて、さらに数日前にはウィリネグロスと言う少女まで現れた。
とてもではないが、城の散策とは無縁の慌しい生活だった。

それにエターリア城は広大な面積を持つ。
未だに城の門から自分の部屋までしか道程が分からないのは、さすがにいけないだろう。

「はい、そうしてみます」
「助かるよ。俺――」

サーンは、そこではっとしたように食べる手を止め、辺りに視線を巡らせた。
広い食事の間の壁伝いには、今もずらりと侍女や召使いが並んでいる。

少なくともサーンは、ラザロスとリディアの前では王室語を話している。
だがこうしてリーネとの会話や公以外の場所では極普通の、少々荒い言葉遣いになっているが、ラザロスに知れればすぐさま言語教育のやり直しをさせられてしまうだろう。

「ええと……いや、僕は今日仕事にかかり切りになるから」

(仕事……)

恐らくサーンは今日一日中、その「仕事」で部屋に篭りきりになるだろう。
エターリアの街から帰ってきて一回取りかかったらしいのだが、仕事のあとのサーンは本当に疲労していた。
だがこればかりは仕方がない。あれはかなりの体力と精神を使ってしまうのだ。

だから彼に心配をかけてはいけないのだと、彼と一緒になってまだ日は浅かったがリーネは既に分かっていた。
リーネは肯定の証にテーブルの向こうのサーンににこと笑んでから、こくんと頷いた。







窓の外から数羽の小鳥のさえずりが聞こえる。
まだ朝食をとってからそれ程時間も経っていないからだろうか、廊下の人通りも少ない。

こうして一人で歩いているエターリア城は、なんだか本当に広く感じられた。
いや実際の総面積もかなりあるはずだ。それに回廊はまるで迷路のようだから、一歩間違えば迷ってしまうかもしれなかった。
本当はサーンに誰か侍女と行動したらどうかと提案されたのだが、自立するためにも探検は必要だろうと、リーネは単独行動を貫いた。

「大きいステンドグラス……」

幸か不幸か、やはり道に迷ってしまったようだった。
けれど偶然出くわした廊下の突き当りで、リーネは天を仰いだ。

そこは吹き抜けになっていて、天井には色取り取りのステンドグラスがはめられていた。
ちょうど顔を出した太陽の光を透かして、綺麗な女人とその周りで戯れる妖精たちの絵が浮き上がる。
リーネは思わずその光景に感嘆した。

他にはどんな部屋があるのだろう。
道が分からないのはこの際仕方がないことなので、リーネはとりあえず元きた道を戻ろうと踵を返した。

だがそうして振り返ってみて、さらに続く長い廊下に思わず絶句した。
迷子になったら誰か見つけてくれるだろうか。リーネは少しの間だけ考え込んでから、ここは前向きに行こうと決意して、やはり前に足を踏み出した。

「駄目よ!」
「でも、このままじゃ……」
「危険よ! それより早く誰かを呼んでこないと!」

どこからか切羽つまった声が聞こえて、再び歩き始めていたリーネは小首を傾げた。
複数の、どちらもまだ若い女の声に、リーネは声のした方へと視線を巡らせた。
するといつの間にか、横には大きな両開きの構造になっている扉があった。どうやら声はこの向こうから聞こえてきたらしい。

「誰か……っ!」

するとリーネの目の前で、その扉はいきなり開かれた。
大きな、身長の倍以上もある扉に弾かれそうになってリーネは驚いて後ずさる。
扉の向こうから吐き出されるように出てきたのは、エターリア城に仕えているであろう侍女の一人だった。

しかし彼女の様子がおかしい。
扉を開けた侍女はリーネを見つけるなり、ふらとその場に泣き崩れた。

「どうかなさいましたか?」

床に膝を突いて嗚咽を漏らす侍女に、リーネは焦った。

「お、王妃様! お助けください! 侍女の一人が溝に落ちてしまって!」
「……溝?」

顔を上げて、扉の横に掲げてあるプレートを目にして、リーネは初めてこの部屋がなんの部屋か気がついた。
この辺りはリーネ自身もよく通るが、気づかなかったのはいつも侍女に案内を頼むからだろう。
なにせこの部屋は、王族専用の浴室だった。

彼女は浴室の清掃担当だろうか。
しかしさっきの言葉の中の「溝」とは、いったいなにを意味しているのか分からなかった。

リーネは彼女に山ほど質問したいことがあったが、それよりも侍女が一人落ちた方が気にかかっていた。
助けを呼ぶ方が先だろうと判断したリーネは、彼女に他の誰かを呼んでくるよう必死で説く。
侍女もようやく冷静さを取り戻してきたのか、顔は青白いままだったが、リーネの説得に数回頷くと彼方へ走り去った。

(早く、急がなくては……)

リーネはすぐに浴室の扉をくぐった。
まだ日が高いためか、浴室はいつもより違った部屋に思えた。
けれどさすが王族専用とだけあって面積は広い、大浴場のようだった。

リーネがさらに奥へ進むと、床にはめ込まれたような湯船を見つけ、そしてその湯船の縁にはもう一人若い侍女がいた。
彼女も先ほどの侍女と同様青ざめた表情で、湯船の縁を両手で掴んだ前屈みの姿勢で中を覗き込んでいる。
浴室に入ってきたのがリーネだと分かると、彼女も途端に目に涙を浮かべた。

「お、王妃様!」
「事情は伺いました。その方は今どちらに?」
「……こっ、この、下に」

侍女が震える指で指し示したのは、湯船の中だった。
しかし中では水が荒れ狂ったようにぐるぐると渦巻いている。
侍女が掴んでいる縁の近くまで水が溢れてきている。一刻を争う事態だとすぐに分かった。

リーネは必死に水の奥に目を凝らしてみた。が、底があまりに深くてよく見えなかった。
それに溝に落ちてしまったらしい侍女がどこに流されてしまったのかさえも、皆目見当がつかなかった。

けれどこの中へ落ちてしまってからまだそう時間は経っていないはずだ。
ここで助けなければ本来助かるべき命も助からない。

「私が中へ」
「で、ですが王妃様……!」
「大丈夫です。必ず侍女の方を連れてきますから、ご心配なさらずに」
「危険です! そもそも給水口が故障しているので、水があふれ続けて止まらなくて!」

リーネがちらと横目で伺った先の、浴室への水を引く堰は今や見事に崩壊していて水が止め処なくあふれていた。
しかし諦めることはできない。ここでやめたらきっと一生後悔するだろう。

「溝はどの辺りに?」
「この中全体に複雑に入り組んで……で、ですが! 危険です!」
「ではあとからいらした方々に、この旨お伝え下さい」
「王妃様!」

願うのは、どうか水が自分に少しでも力を貸してくれること。
リーネは一瞬だけ目蓋を閉じて祈りを捧げてから、渦巻くその只中へ思い切って身を投げた。

ばしゃあと辺りに水飛沫が広がる。リーネの姿はあっという間に混沌とする水の中に消えていった。
あちこちで勝手に渦巻く水のせいで、最後の息の泡も見ることができない。
ごうごうと渦巻く水は、未だに勢いを増し続けていた。













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05/10/09