エターリア国の四方を塞ぐ山は、大の大人でも簡単には越えられないくらい急峻である。
それほどに険しく、そして標高が高いことから、ある季節には多くの雪が舞った。

けれどその山頂付近には、今、何百もの甲冑をまとった人間が立っている。
先頭の何十人かは馬に跨っている。他は歩兵だ。
更にそれらの一番前で馬に跨りエターリア国全土を見渡すのは、黒い髪を持つ少年だった。

風が出てきた。雲行きも怪しくなる。
少年の口元は、灰色の雲を背にふっと緩まった。

「……リーネ」









序章  -15









目の前の視界がいきなりすべて真っ白に染まる。
頭に手を持って行ってみれば、なにやらふわふわとした柔らかい感触がする。

リーネは頭の上に放られた真っ白なタオルを手に取り、急な展開に数回瞬きをした。
目の前でサーンが手際よく侍女からあれやこれやとタオル類などを仲介してくれている。

「ほら、それで髪乾かして。今他の侍女が部屋に着替え用意してるから」

浴室から一番近かったのが、国王が国政を取り仕切る国務室だったので、とりあえずそこで暖を取ることになった。
後先考えずに水の中へそのまま飛び込んでしまったので、頭から水をかぶったようにまだドレスが濡れている。

自室のように無駄に広くは無いが、それでもかなり大きい部屋だ。
国務室と言うだけあって、最低限のものが綺麗に整頓されている。
大きい窓からはエターリア国の街並みが見える。城内で起きたこの騒ぎには誰も気付いてないだろう。

「あー本当にずぶ濡れだな!もっと大袈裟に乾かさないと風邪引くぞ!」

ぼうっとしていたのが彼の目に留まったのか、サーンがずかずかと歩いてくる。
彼の腕が伸びてきてがしっとタオルごと頭を両手で掴まれて、そのままがしがしと髪を掻き回される。

リーネは慌てうろたえて、必死でタオルを抑えた。
だがサーンは、まったくと呟きながらタオルごと掻き回すその手を止めない。
気のせいか少し楽しそうな顔をしている。

「だ、大丈夫です。自分で出来ますっ!」
「ん。それならいいけどさ」

思ったより呆気なく、サーンがひょいと手を離したので拍子抜けしてしまった。
長い銀髪はすっかりあちこち逆立っている。
侍女たちがそれぞれ櫛を手に、このなんとも梳かし甲斐のある髪を整えようと迫ってくる。

リーネは丁重に断って、ただ梳かさないのもやはりいけないだろうと櫛を一枚だけ借りた。
同時に心のどこかでサーンが変だ、と感じた。
いつものようにスキンシップを取ってくることには取ってくるのだが、さっきの行動はこちらを避けているような。

じっとサーンの方を注視する。
彼は何か隠そうとしている。だがここで騙される訳には行かない。

(どこが、変……?)

今、サーンは窓の外に向かって大きく欠伸をしている。
未だに何か飲み込めない違和感を覚えて、彼のその後姿をじっと見詰める。

すると大きく伸びをした袖からちらと腕が見えた。その腕が何か変だ。
手の甲は異常なほど血管が激しく浮き上がっている。
しかもその腕のあちこちからはまだ、力を使った「名残」が浮き出ているままではないか。

サーンの持つ力の一つは地の力だ。
あまりにもその力に身を委ね過ぎていると、逆にその力に取り込まれてしまう。
さっきまでサーンは仕事をしていた。きっと中途半端のまま投げ出して来たのだ。

「サーン様!」

リーネは彼を逃すまいとして、咄嗟に駆けて行ってその腕を掴んだ。

「まだ、回復なされてないのでは……!」
「あ、いや平気だ。すぐ戻るよ」

彼はバレた、というなんとも気まずげな表情をしている。
そんな誤魔化しは通用しない。
リーネはじっと強くサーンの瞳を覗き込んだ。

傍目になにかいい雰囲気になると侍女たちは予感したのだろうか。
いつの間にか国務室から侍女の姿は消えていた。
そこまで気を回してくれなくてもいいのだが。むしろこちらが気を遣ってしまう。

だがやはり二人切りでよかったのかもしれない。
ラザロスとリディア、そして自分以外はサーンの力や仕事の事実を知らない。

リーネはすっと彼の腕に触れた。
手は辛うじて回復したようだが、腕からはまだ小さな枝が張り出している。
それは間違いなく、仕事の後遺症だ。

心配そうにするリーネの気を和らげようと思ったのか、サーンがすっとまだ濡れたままの髪に触れる。
彼はいつでも優しい。本当はもっと、自分を大切にして欲しいのに。

「無理、なさらないで下さい……」

誰かが危険な目に遭うのは見ているだけでも辛い。
だから自分もついその場に飛び込んでしまう。

しん、と部屋が静まり返った。
どうやら今の言葉はサーンに効いたらしい。これで無茶をすることも無くなれば嬉しいのだが。

けれどあまりにも静か過ぎるのも、かえって怖くなる。
二人切りの時に何をされるか分かったものではない。そう過去の経験が告げている。
するとサーンはぽんと手をリーネの頭の上に置いてきた。

「無理はリーネも、な」
「あ、はい」
「あと『サーン様』って、そんな主従関係みたいな。俺って夫だよな?なら呼び捨てでいいからさ」
「……尽力はしてみます」

そう言われても、ついこの前まで遠い存在だった人間だ。
改めて言われてしまうと気恥ずかしくてどうしようもなくなる。

別に彼の名が呼び難いだとか、彼を伴侶として認めていないのだとかそういうことはまったく無い。
ただやはり気後れしてしまう。まだ妃として入ってそれほど月日が経っていないからなのだろうか。

けれどそんな自分はこの城の侍女や召使い、それに王族からも歓迎されている。
本当に嬉しい。まだ見ぬ未知の土地へ踏み込んだ自分にとって、それはとても助かった。
それにサーンは今回、仕事を投げ出してまで浴室に応援に来てくれたのだ。

(あれ……?)

サーンは仕事の時はどこか知らない場所へ篭る。
その彼がどうして浴室で大事になっているということを知ったのだろう。

「そう言えば、どうして浴室へ?そんなに騒ぎになってましたか?」
「ああ、俺も不思議なんだけど、ウィリネグロスが部屋に来て案内―――」

そこまで言って、ふとサーンはその場で考え込んだ。

「あいつ、リーネだけには懐いてるよな」

一瞬黙り込んで、真面目な顔で何を言うのかと思っていたら。
リーネは思わずその顔と口にした言葉とのギャップにぷっと吹き出した。

ウィリネグロスは仕えると言ったその日から、小さい身体ながらも侍女として働いている。
何か頼もうとすると、その前に彼女は用意をしている。

その予知とでも言うような行動が今でも不思議だ。
なのにウィリネグロスは、本当に城の前で会った時以降一言も喋らない。
年齢に似合わず無表情過ぎるのも心配になって、リーネは自室の近くにウィリネグロス用の部屋を設えたほどだった。

「……懐かれてるように、見えますか?」
「んー、なんか表情が柔らかいっていうか。それに俺といる時、あいつ無言も無言。何も喋んないぜ?」
「私の時もそうですよ」

確かに他人と比べれば多少懐かれているかもしれない。
けれど彼女はリーネの前でも言葉と言う言葉を口にしたことがない。

喋ることができないのではない。
城の外では、少しだけだが彼女はその幼い声で自分たちに色々と告げた。
これは単に憶測に過ぎないが、彼女はきっと必要な時以外は喋らないのだ。

最初はどう接していいのか分からなかった。
だから街にいた時と同じように、小さい子供を相手にする時と同じように接したら、これが功を奏した。

「私はただ、瞳を見るんです。瞳は多くを語りますから。何をしたいのか何を言いたいのか、大体は分かるんです」
「俺には百年かかっても出来そうにないな……」

サーンは、はあと大きな溜め息を付いて金髪を掻き上げた。
よかった。思ったより今日の彼は疲弊していない。

エターリアの街から帰ってきて最初に仕事を終えた時の疲れようは、凄いものだった。
なかなか朝食の席に顔を出さないと思って彼の部屋を訪れてみれば、彼はベッドに突っ伏したままぐったりとしていた。

いや、笑うところではないのだが。まるで遊び疲れて熱を出した子供のようだと思ってしまった。
それから数日は本当に熱を出して寝込んでしまったのには驚いたが、やはり地の力というものの対価は大きいらしい。

こんこん、と軽く部屋の扉を叩く音がする。
リーネはそれまでの回想を忘れて扉の方を振り返る。
扉の向こうから、侍女の一人が顔を覗かせて一礼した。

「王妃様、お部屋の方に着替えが整いました」
「あ、はい。有難うございます」

そう言えば着替えがまだだった。
このまま濡れていると、今度はこちらが熱を出して倒れてしまいそうだ。

国務室を後にしようとするリーネの腕をサーンが掴む。
何事かと振り返れば、彼にそのまま手の甲に軽く口付けられる。

「い……っ!?」
「お別れの挨拶ですよ、妃様」

悪戯っぽくにっと口の端を吊り上げている彼からは、何か只ならぬものを感じる。
いつもの事ながら、こういった彼の行動には未だ慣れない。
リーネは口付けられた手のひらを反射的に引っ込めて顔を赤くした。ああ油断していた。

珍しくすっと手を離されたので、リーネは慌てて礼だけしてそそくさと国務室を出て行こうとする。
けれどその時、なにかが胸に残って思わず振り返った。
振り返った先にいるサーンは、不意にこちらを見たリーネに対して不思議そうに目を瞬いている。

彼が遠くに行ってしまいそうで、ほんの一瞬だけ怖くなった。
だが単に自分の思い過ごしだろう。彼の力の弊害を心配し過ぎたのかもしれない。
リーネは何でもないのだと躊躇いがちに首を横に振って、国務室の扉をくぐった。







何故だろうか。違和感がある。
まるで違う国に迷い込んでしまったみたいだ。

国務室を出て、廊下の真正面から見たエターリア国が、いつもと違う色をまとっているように見えた。
どこかぼんやりとしていてまるで掴みどころが無いような。
リーネは無意識にふとさっきの浴室での光を思いだす。

―――あなたで……良かった。

あれはいったい誰の残像だったのだろう。
確かにそこに人間がいた。それなのに彼女はまた消えてしまった。

それに何故、何のためにそんなことを言ったのだろう。
良かったとはどう言う意味なのだろう。

答えの出ない、そんな途方も無いことを考えながら自分の部屋の扉を開ける。
部屋はきちんと整理されていて、ベッドの上には新たなドレスも用意されている。

風が窓の隙間から入り込んでリーネの気を引こうとしているのか銀髪を揺らす。
リーネが窓の外に目をやると、どうやらまた暗雲が立ち込めてきたらしい、黒い雲が流れている。
この前と同じように雨でも降るのだろうか。雨の少ないエターリア国では珍しいことだ。

リーネはドレスを着替えようとしたが、そのままベッドにばふと倒れこんだ。
何故かやる気が起きない。
ベッドの白い布に顔を埋めながら、リーネは頭の隅を探ってみた。

目蓋を閉じると不思議と懐かしい匂いが辺りいっぱいに立ち込める。
忘れたくても忘れられないような、そんな果てしない道が、目の前に開けるように。

「……誰?」

思考のどこかに、誰かの姿が映ったような気がした。
手の甲で目をごしごしと擦ってみたが、そこにあるのはいつもと同じ自分の部屋だった。













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05/10/20