昨日から降り続いた雨は今日になっても止むことはなかった。
それまでエターリアは日照り続きだったため特に不便なことはなかったが、この雨は不気味だとみな家の中に篭もってしまう。
城内でさえ誰一人として外に出る者はなく、侍女や召使いだけは慌しく部屋を行ったり来たりしていた。

しかしそんな強い雨の中の大通りを、エターリア城目指してただ一心に進む足があった。
麻の長いコートを頭からすっぽりかぶって進むその人影は、まだ幼い。

(神の御許へ……)

やはりこの身体では、エターリア国を守るようにそびえ立つ険しい山を越えるのに苦労してしまった。
だが時間がない。早く、早く神の御許へ行かなければ。









序章  -12









リーネは思わず振り返った。
その動きに合わせて、長い銀髪がふわと宙に広がってから肩の上に落ち着いた。

リーネが振り返った先にあったのは、王族専用の談話室だった。
どの部屋もそうだが、石造りの広い床の上に綺麗な調度品が並べられている。部屋の面積も半端なかった。

だが王族専用と言っても、今はリーネとサーン以外に誰もいなかった。
サーンの親であるラザロスとリディアは、権力を自分たちに譲ったからなのか、ここしばらく隠居生活を楽しんでいた。

「どうかしたか、リーネ?」

大きな窓の外では今でも雨が降り続いている。
窓から見えるエターリア国は、昼だと言うのに灰色の雲を背負っているみたいだった。
リーネはしばらく経ってから、隣にいるサーンに目線を戻した。彼は大きな椅子に腰かけながら本を広げている。

「あの、声が、聞こえませんでしたか?」

サーンはその言葉に本から顔を上げた。
青い瞳を数回瞬かせると、辺りにぐるりと視線を巡らせる。

「さあ、分からなかった。召使いじゃないか?」
「えっともっと、こう、鋭いような……」
「金切り声ってこと?」

それとは違うような気がした。
鋭いには鋭いのだが、耳が痛くなるような鋭さではなくて、心の奥にまで響くような声と言った方が正しいのだろうか。

リーネは首を傾げ考え込んでから、きっと空耳だったのだろうと首を横に振った。
それなのに、さっきの声は頭の中に木霊し続けた。

(誰かに呼ばれたような気がした……)

本当に不意を突かれた。
考え事をしていないときだったならば、きっとその声も拾うことができただろう。

王家に入ってから、ずっと自分の生い立ちばかりが気にかかっていた。
こうしてサーンと二人きりでいるときでさえ、頭の中は実の両親のことで埋まっていく。
街にいたときも考えたことはあったが、今ほどではなかった。

リーネはおもむろに立ち上がった。
少し気分を入れ替えるのも、今の自分にとっては必要かもしれないと思ってのことだった。

「私、少し城外を見てきます」
「この雨の中を?」

サーンは驚いたように、再度本から顔を上げた。
彼が驚くのも無理はない。この土砂降りの中を散歩しようなどと考える人間は、この状況を見てもまずいないだろう。

するとサーンはぱたんとそれまで目にしていた本を閉じた。
怒られるのだろうかとリーネが身構えていると、サーンは椅子から立ち上がる。

「よし。それじゃ、俺も行くか」
「え? 宜しいんですか?」

突然の言葉にきょとんとするリーネに、サーンは苦笑した。

「この雨の中を一人で行かせられないだろ? それにこの部屋、窮屈だしな」

言いながら、サーンはうーんと大きく伸びをする。
退屈凌ぎだと言うことは分かっているが、一番最初に自分を想ってくれたのだと考えると、それだけで嬉しかった。

談話室の大きな扉を開けると一直線に広い廊下が広がっている。
石造りの廊下の上には赤いビロードのような絨毯が敷きつめられていて、その上を、リーネとサーンは並んで歩き出した。

連綿と続く廊下の窓から垣間見えるのは、雨の中のエターリア国だ。
本当に異常な雨続きだった。この雨を制御するために、リーネは水の力を使えないこともなかったのだが、故意に自然現象に介入するのは好きではない。
力を使うタイミングはどうしても切羽詰ったときだけと決めている。この点に関して、サーンも理解してくれた。

廊下は談話室に入る前よりもしんと静まり返っていた。
侍女や召使いたちも、彼らの部屋でこの雨が上がるのを待ち続けているのだろう。

「え……?」

しかしリーネはなんとなく見た窓の外の一角に、ありえない人物を見て驚いた。
一瞬だが、窓越しに見た城の外に誰かがいたような気がしたのだ。
リーネは驚いて窓の傍に駆け寄って、もう一度その姿を探すために目を凝らした。

「どうしたリーネ?」
「いた、いました!」

見間違いなどではなかった。誰かいる。
うしろから同じように覗き込んできたサーンに、リーネはその方向へ指を差した。

城の高い場所に位置するこの廊下からはよくその外見が分からないが、それは大人にしては小さすぎた。
麻のフードかなにかを頭から全身にまとっているために男なのか女なのかさえ分からない。
だがその誰かは、今も雨の中に真っ直ぐ立っていた。

(誰?)

リーネはふとそう思った。
しかしリーネのその思いに反応したかのように、それはちらとこちらを見上げた。まだ幼い少女だった。
フードから覗く銀髪と銀色の瞳を備えた彼女は、幼い顔つきをしていた。まだ十歳くらいではないだろうか。

街で育ったリーネなら分かる。あんな目立つ容姿の少女、街にはいなかった。
貴族のことになると分からなくなるが、服装が簡易なことからして貴族ではない。

――神、よ。

少女の口が少しだけ開いてゆっくりと動く。
かなり距離があるというのに、そんな少女の声が聞こえた気がした。幼いながらも強い凛とした声が耳に残った。

その瞬間、リーネは身体中がぐんと浮くような奇妙な感じに包まれた。
なにかとてつもなく強い力に前後左右、絶え間なく抑えつけられているような圧迫感に、苦しくて息がまともにできなくなる。骨がみしみしと軋んでいる。

(このままじゃ……!)

このままではすぐにでも圧力に耐えられなくなる。
だがそれらはなんでもなかったかのように、数秒後、するりと身体から離れていった。

今のはいったいどうしたことか。なにが起こったのだろう。
やっとのことで重圧を含んだ苦しさから解放されたとリーネが一息ついたとき、代わりに耳に飛び込んだ辺りの音を疑った。

「ここは……?」
「おい、どうしたって言うんだ」

隣に立っているサーンが驚嘆の声を発した。
今リーネとサーンが立っているのは、城の門前だった。振り返ればそこには暗雲を背負ったエターリア城がそびえている。
頭上からは叩きつけるようにしきりに雨粒が落ちてきた。

リーネとサーンは間違いなく雨の中のエターリア城前に立っていた。
そして、目の前には麻のフードを頭からすっぽりかぶった少女がいた。
おかしい。自分たちはさっきまで上の階の廊下から、この場所を見下ろしていたはずだ。

さっきの浮遊感と圧力も不思議でならない。なにもかもが分からないままだ、と、リーネはちらと少女の方を見た。
自分が彼女を見ることを予期していたかのように、灰色の髪と瞳をもつ少女と視線が出会う。
途端に心臓になにか冷たい鋭利なものがぐっと突き刺さった感じがした。

「審判を」

ふっと、それは目では捉えられない速さで、少女の姿がリーネの視界から消えた。
今、彼女はなにを言ったのだろう。
リーネはそう考えたが、呆気なくその考えは別の考えにより打ち切られてしまった。

いつの間にか、目の前には消えたはずの灰色の瞳がある。麻のフードがはらりと落ちて、少女の姿が露になる。
長い銀髪だ。けれど自分のものよりもっと濃い、瞳の色と同じ綺麗な銀色だった。
彼女の服装はフード同様、麻で作られたのだろう簡易なものに変わりなかった。

少女は、下から覗き込むようにしてこちらを見上げていた。
どうしてあんなに離れた場所から一瞬でここまで来たのだろうと、リーネは漠然と考える。

いくつもの疑問が奥から絶え間なく溢れてくる。
しかし突如現れた激しい痛みに、リーネは思わず顔をしかめた。

「リーネ!」

サーンの、隣で叫ぶ声が聞こえる。
何故かは分からないが、腹部が焼けるように熱い。

「……か、はっ」

体重を支えているのも、立っているだけでつらかった。
リーネはついに耐えられなくなって、膝からがくりと崩れ落ちて地面に手をついた。

腹部をさする、その手になにかがまとわりつく。
恐る恐る手のひらを顔の前に持ってくると一面が赤かった。夕焼け以上に鮮明で、身震いするほどの赤だった。

リーネが顔を上げると、そこには銀色の槍を持った少女の姿があった。
どこからそんなに大きなものを取り出したのだろう。彼女が手にする槍からは、ぽたりぽたりと今でも紅い雫が滴っている。

刺された。そう自覚するのに大した時間は必要なかった。
ずくんと腹部が悲鳴を上げる。
リーネは歯を食いしばり、痛みをこらえようと必死に腹部を押さえつけた。

(……なにか、違和感がある)

彼女に刺されたことには違いない。だが普通、外傷を負ったらその痛みは時間と共に比例するものではないだろうか。
リーネは心の中で首を傾げた。違和感がある。なにかが違う。

しかしどこからともなく響いてきた硬質音によって、リーネは再度顔を上げた。
顔を上げると、今まさにサーンが腰に帯びていた長剣を抜こうとしていた。
それでも少女はなに食わぬ顔でサーンの前に立ち続けている。

いけない、サーンはここで少女に報復するつもりだ。
リーネは咄嗟に腹部を押さえている手とは反対の手を伸ばした。

「待ってください……!」
「リーネ!?」

サーンの柄を掴む手をぐっと握る。当たり前だが、サーンは驚いて振り返った。

「どうして止めるんだ!」
「ま、待って……」

リーネは力を振り絞り、ふらりと立ち上がる。
けれど吐き気はさっきよりも感じなかった。やはりこれは変だ。

もう一度腹部の傷を確かめるために、リーネはそっと手で差された場所に触れた。
しかしそこにはなんの傷跡もなかった。
手にまとわりついているのも、頭上から降り続く雨と同じ透明な水に変わっていた。

「傷が、癒えてる」

サーンがぽつりと呟く。
その通りだ、と思った。傷跡がまったく見られない。刺される前と同じ形でそこにあった。

ただ唯一違う点と言えば、槍が刺さった部分のドレスが少々破れているということだ。
それだけが如実に現実を指し示していた。

「無礼をお許し下さい、神の方」

また聞こえてきた幼い声に、リーネとサーンは顔を上げた。

「神、の……?」
「はい。貴方がたをずっと探し続けていました。その異常なまでの回復力は、不滅を称する神のもの」

少女の言っている意味が分からない。
さっきから彼女は「神」ばかり口にする。その根拠はどこにあるのだろうか。

「我が名はウィリネグロス。これよりあなた方に仕えさせて頂きます」
「おい、ちょっと待て」

急に話が進みすぎている。サーンが慌てて待ったをかけた。

「仕えるったって、どう言うことだ」
「これから神を失った世界は混沌の中に落ちます。少しでも助力となるため、参りました」
「誰のためにだ?」
「もちろんあなた方、そして我々の主でもある偉大な御方のためです。偉大な御方の魂は、不慮の事故により本来のあなた方の魂と入れ替わりました。よって、私が仕えるべき方はあなた方なのです」

ウィリネグロスはその無表情の中で少し考え込むと、言った。

「我が主かどうか見極めるためとは言え突然の無礼、本当に申しわけありませんでした」

ウィリネグロスと名乗った少女は、恭しくその場に跪いて深く頭を垂れた。
その外見には似つかわしくない言葉遣いに、まだ少女だとはとても考えられなかった。
だがその日、結局ウィリネグロスが口にした言葉は、それで最後だった。

リーネとサーンは驚いて互いに目を見合わせる。
彼女が何者なのか、まさかエターリア国の険しい山を越えてきたなどと考えられるわけもなかった。

背後のエターリア城の中から複数の声が聞こえる。侍女や召使いが活動を再開したらしい。
今まで空に漂っていた黒い雲は風に流されるようにして東へ消えていく。薄い雲の切れ間から、一条の光がこの国に差し込む。

雨は、止んでいた。













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05/10/03