どこからから雨音が聞こえる。
小さくても強い雨粒がしきりに窓を叩く音、その音でリーネは目を覚ました。

しかしなにか変だ。だいたい、こんな間近にこんなに綺麗な青と金色があっただろうか。
リーネは寝惚け眼でそれらを見返す。青い瞳はじっとこちらを見ている。
そしてそのすぐあとに、リーネは頬になにか暖かい感覚を覚えた。

「目は覚めましたか、妃様?」

一瞬の間、意味不明な沈黙。次第に飲み込めてきた、場の空気。

「きゃああああああ!」

王家に王妃として入って早五日目。城での生活にはまだ慣れません。









序章  -11









ぽたぽたと、金髪の先から水が床に滴り落ちる。
綺麗に磨かれた石造りの床の上に、次第に小さな水溜りがいくつかできていく。

いや、まさか自分の部屋に彼がいるとは思わなかったのだ。
だって昨夜はしっかり鍵をかけたはずだ、間違いない。
リーネは跳ね起きたベッドの上で、頭からずぶ濡れになったサーンを恐怖と共に凝視した。

「あのさ、リーネ……」
「すっすみませんすみません!」
「いや、そんなに謝られる謂れはないんだけど。むしろこっちの非?」

サーンは苦笑しながら、服の裾をぎゅっと絞る。
しかしこちらにも非はある。たった今、思い切り力を使ってしまったのだ。

どこからともなく現れた大量の水はサーンの頭上から勢いよく流れ落ちた。
それが自分の力によるものだと理解できたとき、もはやサーンは今のような状態になっていたのだった。

「どうかなされましたか!?」

さっきのリーネの悲鳴を聞きつけたのか、一人の侍女が慌ててリーネの部屋に駆け込んできた。
そして部屋中の床が水浸しになっている異様な光景に唖然とする。

「ま、まあ! これはいったい……」
「ああ、どうやら花瓶ひっくり返したみたいで。悪いですけど、タオル持ってきてくれません? あと雑巾も」
「はい。承知しました!」

侍女は一瞬呆けてから、急いで返事をして戻っていった。
サーンはもういっそ上着を脱いで、その上着ごと固く絞り始めた。

どうやら防御反応が出てしまったらしい。
自分になんらかの「神の力」があると自覚してから、その力を制御しようと思いが先に立ったのが不運の始まりかコントロールが利かないのだ。

今まで風の力だけが自分の持つ神の力だと思っていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。
王家に入って数日後のこと、食事の席でふと水が入っていたコップを落としてしまったとき、それらは見事時間が止まったような形で宙に浮いてそこに在り続けた。
リーネは自分でも知らないうちに水を操っていた。まさか風と水の、二つもの力を持っているとは驚きだった。

では他の神の力はどんな性質を持っているのだろう。
サーンもリーネ同様二つ持っていた、地と光だ。光の方は実際に見せてもらったことがあったのだが、それらは驚くべき美しさを持っていた。
そしてそれらはエターリア国王であるサーンにとって必要不可欠なものでもあった。

(……私も頑張らなければ)

ふかふかのベッド、綺麗に整えられた大きな部屋。今までこんな豪華な部屋に入ったことなどなかった。
それなのにこんなたいそうな部屋を自分用として宛がわれたのは、その使命のためなのだと強く言い聞かせた。

街で必死に生活を営んでいる人々よりも恵まれた生活をする代わりに、ここでサーンがするように「仕事」をしなければいけない。それが王妃の務めだ。
本来の国王や王妃はこんなことはしないだろう。
しかし力を持って生まれた者ゆえの、義務なのだ。

「頬にキスも、油断してられないな」

どうやら上着を絞っても水気ははけられなかったらしい、目の前でサーンが更にアンダーシャツを脱ぎ始めた。
リーネは軽く頭痛を覚えて額に手をやった。

これからは異性が目の前で着替えても平気になったりするものなのだろうか。
いや、異性と言うより彼と婚約してしまったのだから平気にならないといけない。
そこまで考えて未来に若干の不安を覚え、さらに頭痛。

「……熱、あるんですか、妃様?」
「なっないです!」

どうやら額に手を当てていたので熱があると勘違いされてしまったようだった。
こちらを覗き込んでくる彼に驚いたリーネは、驚いて顔を上げた。

また顔が熱くなっているような気がした。
ここのところ、サーンに不意に近づかれてしまうと恥ずかしくてどうしようもなくなるのだ。

「そこまで顔を赤くしなくても」
「なってしまうんです!」
「そんな、戴冠式の夜はそれはもう濃厚な時間を過ごしたと言うのに……」

悲しげな表情をしてふっと物思いに耽るサーンに、リーネは思わずむせ込んだ。

「な……っ!?」
「チッ、まだ慣れないのか。こりゃ辛抱強く行かなきゃだな」

サーンはリーネのベッドの端に腰かけながらぶつぶつと呪文めいた言葉を呟いている。
いけない、これでは彼のペースだ。
このまま引き摺られるととんでもない方向に話題が発展してしまう。リーネは聞こえていない振りをした。

「若王様、若王妃様、失礼します」

さっきよりも多い、数人の侍女がタオルや雑巾を手にリーネの部屋に駆け込んできた。
リーネは他人の介入にほっと胸を撫で下ろした。

油断しているとその隙につけ込まれてしまいそうだ。
いくら婚約してる身であろうとも油断は禁物だ。いや婚約してるからこそ、うかうかしてはいられない。

確固たるリーネの心情を知らないサーンは侍女となにやら会話をしている。
彼女たちの持ってきた着替えを受け取ったサーンは、着替えながら思い出したように振り返った。

「な、そう言えばリーネ」
「……はい。なんでしょうか」

サーンは少し言葉に詰まってから口を開く。

「この前さ……あ、大分前か。俺たちが最初に出会ったときだよ。あのとき現れた光の中に人の姿とか見えなかったか?」
「あ、はい」

そう言えばあれには本当に驚いた。
ただ彼に手を取られただけだというのに、直後に不思議で幻想的な金色の光がどこからともなく現れるとは、まるで夢のようだった。

だがそう彼に言われてみれば、光の中で薄ら人の姿が見えたような気もした。
しかしそれはおぼろげな記憶のうちの一つでしかなかった。
何日か前のことだったと言うのに、城内での生活が目まぐるしくて、過去の些細なことなどすぐに忘れてしまうのだ。

「でさ、そのときに『母様』って言ったの、リーネだよな?」

サーンの突拍子もないその一言に、リーネは目を丸くした。

「……え、そんなこと言ってましたか?」
「ああ、てっきりリーネの母親の幻影とかかなと思ってたんだけど」

リーネは当時を思い出そうと必死に記憶を手繰り寄せる。けれど曖昧な過去は結局変わらなかった。

「私は、実の両親のことさえ覚えていません。ただあるのは義母様との思い出しかなくて」
「なにも?」
「はい、どうしてここに住んでいるのかとか、なにも……。でもあのときは確か、ふと両親がいた頃を、覚えてもないのに思い出したような気がして……」

リーネはそれきり言葉に詰まってしまった。
思えば物心つく以前の記憶がすっぽり抜け落ちているようだと感じたのは、これが初めてではない。

幼少期の出来事は忘れているものだと聞くが、それにしてはあまりにもなさすぎる。
単に忘れてしまって思い出せないだけならばまだ踏ん切りがつくのだが、なにか受け入れ難いものがそこにはあった。

義理の母に、実の両親について聞いてみたことがある。
彼女は少し困ったように笑ってから、リーネの実の両親は遠い昔に死んだのだと、いつもそう言っていたからそれが真実だと思っていた。
少し潤んだあの瞳は今でもやはり忘れられなくて、いつももう聞くまいと思わせた。

「じゃあリーネ、あと少しで朝食だから」

着替えを済ませて部屋をあとにするサーンに一礼する。
輝かしい金髪が見えなくなって、部屋を片付ける侍女たちの姿も消えて、部屋は元通りひっそりと静まり返る。

(本当は、なにがあったの……)

真実を知りたい。
それがたとえどんなに過酷なものでも、知りたい。

この力の秘密ももしかしたら分かるのかもしれない。
けれどいったい、ここにいる誰が教えてくれると言うのだろう。













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05/09/13