侍女が忙しなく動き回る、その傍らでしゃらんと澄んだ音を立てて、透明なティアラは白の額と重なった。 民から生まれたらしい稀な青い透明な瞳は、ゆっくりと見開かれる。途端に着つけ係の侍女たちはほうと息を呑んだ。 「まあ……とてもお似合いです王妃様」 「ええ、本当に美しいですわ」 「民も心膨らませているようですよ。さ、表へどうぞ」 そう口々に褒め称えるのは無理なかったかもしれない。 今の王妃も相当の美しさを誇っているが、この新たな王妃の美しさはまるで純真そのものだった。 真っ白な長い絹地のドレスの裾を持ち上げて、礼装を終えたリーネは大きな部屋の扉をくぐった。 ここが今日が、すべてが変わる契機の日だ。 序章 -10 今日はエターリア国の戴冠式が催される日だった。 戴冠式とは名の通り、大勢の民を前に王子が王に即位して、王妃を迎え入れる儀式のことである。 リーネが王室に入ってから早くも五日が過ぎていた。 エターリアの民は、彼女は本当に大丈夫なのかと危惧していたが、後日リーネの義母に送られた手紙には、王室での新たな発見やサーンの気遣いなどが事細かに書き記してあったと言う。 国の東端に位置する巨大なエターリア城に、いつもは訪れる人など少ないが、今日ばかりは多くの民が国中から挙ってつめかけていた。 数十年に一度の珍しい戴冠式のためか、それとも特に新たな王妃が大変美しいからなのか、早朝から歓声やらなにやらでうるさいほどだった。 リーネは部屋の外で待ち合わせていたサーンのうしろ姿を見つけると、声をかけて一礼した。 侍女たちが少し凝りすぎて、さらに豪華な装飾品を更に美しいドレスをと勧めてくるので手間取ってしまった。やはり王室には慣れない。 似合っているだろうか。生まれてから一度もこれほどまでに素晴らしい衣服に身を包んだことがないので、リーネは不安になった。 リーネが恐る恐る顔を上げると、いつもよりさらにかっちりした正装に身を包んでいるサーンが目に入った。 その絵画のような美しさに、リーネは思わず礼をしたそのまま見惚れてしまった。 「ああ、綺麗だ」 その場の雰囲気でさらりと言われてしまったが、これはかなり恥ずかしい。 リーネは差し伸べられた手をそっと取って、薄く染まってしまった頬を隠すように俯いた。 (やっぱり、場違いなような気が……) まずエターリア城に着いてから色々な変化が多すぎて、今までの五日間はよく憶えていない。 けれどどの場面でもサーンは優しかった。そして街で見せたような飄々とした態度は、城では隠しているのだと気づいて可笑しかった。 綺麗にセッティングされた銀髪がどこからか入り込んだ風に乗る。 もうすぐでテラスのある場所へと着く。戴冠式は城の上部にある、城外へ張り出した広いテラスで行われる予定になっている。 どくんどくんと唸る心臓の音が耳にまで届いてきた。 「若王様、若王妃様、こちらからどうぞ」 長い階段と長い廊下を通ったあと、大きな部屋に着いた。 人間の背丈の倍以上もある扉の前で待っていた侍女数人が、こちらへ深く一礼をしてから扉の取っ手に手をかけた。 扉がぎいと大きく軋んだ音を辺りに響かせながら両開きになる。 同時に眩しい太陽の光が入り込んできて、一斉に部屋中を満たす。 その中を、リーネはサーンに手を引かれてテラスへと歩き出した。すべてが変わって、そして始まるのだと分かった。 (……神様) リーネは不安を打ち消すため、祈った。 しかし足を踏み入れたテラスから垣間見た、眼下に広がる大勢の人間の姿を認めたとき、なにも考えられなくなった。 突然現れたどこまでも続く彼らの姿は、まるで際限を知らない無数の象徴のようだった。 リーネはそれまでの緊張を感じられないほど唖然としてその場に立ち尽くした。 城の周囲に寄せた彼らから送られる歓声は物凄かった。特に自分たちがテラスに姿を現したときの歓声は、耳の鼓膜をつんざくような迫力だった。 立ち止まってしまったまま動かないリーネに驚いたのか、サーンが顔を覗きこんでくる。 そう言えば彼は幼い頃からこんなにも大勢の民の前に顔を出しているのだった。今の彼には恐らく緊張などないだろう。 「大丈夫ですか?」 「はい、でも……夢のようで……」 胸がいっぱいで、それしか言葉にできなかった。 まさかこれ程までの人々が見に来てくれるなんて、考えもしていなかった。 青空を吹き渡る風が二人の間をすり抜けて、歓声を一瞬だけ掻き消した。 リーネは無意識にサーンの手を強く握った。するとサーンは、大丈夫と言って微笑んでくれた。 同じく大きな扉をくぐって、現国王と現王妃もうしろからその姿を現した。 サーンとリーネは同じタイミングで礼をして敬意を表する。 現国王であるラザロスは頭の頂に国王の証である金の冠を載せている。 それをサーンの母であり現王妃のリディアが、すっと手に取りラザロスに手渡した。 ラザロスは冠を手に、テラスから身を乗り出して眼下の人々に大音声で告げた。 「我が国の民よ、今日は歴史に名が残る日。このサーン・フラキトネスが王位を継ぐ日である!」 観衆は待ってましたとばかりに、わあと激しく沸いた。 その歓声はやはり凄まじいものがあった。 ラザロスは踵を返してサーンの方を向いた。 王冠は国王の手を渡って、十五歳を迎えたサーンの頭上へと落ちついた。 リーネは彼らの姿が眩しくて思わず目を細めた。この中に加われることが、とても嬉しかった。 ここでひとつの時代は終わり、新たな世界が創られ始めるのだ。 今までがそうであったように。今までそうやって新たな歴史を創り上げてきたように。 (え……?) だがそれまでの穏やかな空気はどこへやら、突然サーンがこちらに振り向いたと思った刹那、リーネは腕を掴まれて彼の方へ強く引き寄せられた。 咄嗟のことにリーネの頭の中は混乱する。 確かこのあとは王妃を迎え入れる儀式ではなかっただろうか。あまりにも自分の取る行動が遅かったのかもしれないと、とリーネの胸中には不安が広がった。 困惑するリーネを他所にサーンの顔が近づく。いつの間にか腰には彼の手が回されている。 しかしそんなことを考えたのは、ほんの一瞬の間だった。 すぐ目の前には、なぜか輝かしいほどの金髪がある。 それに理由は分からないが、息ができない。唇がなにか柔らかいものに塞がれているからだった。 テラスの下からは、ひゅーひゅーとなにやら囃し立てる声が聞こえた。 それがサーンに口づけされているからなのだと分かったのは、リーネがサーンから解放されてしばらくのあとだった。 ラザロスが額に手を当てて、うんざり表情を曇らせている。リディアは相変わらず美しい微笑だ。 「いっ……!?」 リーネは少し狼狽してしまったが、こんなことは今まで経験したこともない。まったく初めてである。 この場でうろたえなかったと言う方がおかしい。 サーンは面白いものでも見たかのように苦笑して、すぐにさっきまでの冷静さを取り戻した。 ラザロス同様、テラスから眼下の民へ向かって口を開く。 「今日からわたしが王となります。そして彼女、リーネを王妃として迎え入れます」 サーンが深々とお辞儀をしたので、リーネも慌てて深く一礼した。 二人が並んで礼をするなり、大きく暖かい歓声が辺りを包み込む。 嬉しさなのか哀しさなのか思わず涙が出そうになったので、リーネは頭を垂れたまま、零れ落ちそうになる涙をぐっとこらえた。 城の中から祝福の証として鳥が一斉に放たれた、その音でようやく二人は顔を上げた。 見事に真っ白な鳥が無数に風を連れて去っていく。 集まった人々はその光景にほうと感心した。 戴冠式が終わる。白い鳥が青空の中へ染まっていく。まだ見たこともないあの空の向こうへ、飛んでいくのだ。 そしてそれは新たに出発したエターリア国も同じことだった。 リーネはふと、そんな風景に向かって微笑んだ。その微笑みは風に乗って飛んで行った。 戴冠式の夜は城内での盛大な披露宴と決まっている。 一般人は立ち入ることはできなかったが、エターリア国の貴族は進んで出席した。 どこの部屋よりも大きなエターリア城の披露宴の会場は、今や数多の人々で埋め尽くされていた。 床はワックスを塗ったように光り輝いて、姿がそっくりそのまま反射してしまいそうだった。 頭上には金色に輝くシャンデリアの数々。壁には色取り取りの豪華な装飾。それらを見上げながらリーネは息を呑んだ。 「俺らも踊ろうか? リーネ」 メインホールの中央では今、大勢の貴族や王族の者が音楽に合わせて優雅に踊っている。 こっそり耳打ちしてきたサーンにリーネは、はい、と頷く。 リーネは彼に差し伸べられた手を取って舞踏の輪に加わった。 だがサーンがまたしても急にリーネの手と身体を引っ張って、広間の中心へと踊り込んだ。 周りの景色が一気にぐるぐると速く回転する。 「おっ王子様……!」 「リーネ、すごい顔」 サーンが目の前で苦笑している。 突然身体を持ち上げられた挙句に中央まで引っ張り込まれたので、目が回ってしまった。 リーネの白い絹のドレスの裾がふわと広がる。 その美しい様に見惚れて、周りで踊っていた物達は目を丸くして二人を眺めた。 やはりサーンを侮ってはいけなかった。彼の行動のひとつひとつが洗練されていると感じる。 高貴な人々の踊りには慣れていないが、リーネは少しずつ、サーンから教えを受けて踊りのステップを覚える。 王族はこんなことまでしなくてはいけないとは、色々と大変だと思う。 比較的踊りもましになった頃、リーネはちらと王座の辺りに目をやった。 さっきから嫌にそこだけが気にかかっていた。 ラザロスとリディアが気になったのだろうか。いや、それとは微妙に違う気がした。 優雅な踊りに身を任せながら、リーネはサーンの肩越しに王座にじっと目を凝らした。 どうやらラザロスとリディアの隣にもうひとつ席がある、それが自分の気にかかったようだった。 しかしその席にゆったりと座る人物を見て、間違いではないかとリーネは我が目を疑った。 本来そこにいないはずの人間がこちらを見ている。リーネは思わず破顔した。 「義母様……!」 王座にラザロスとリディアと並んで腰かけていたのは、紛れもなく今まで育ててくれた義理の母だった。 老齢で身体も弱っているはずの彼女がどうやってこの場所まで来たのか、ぱっとサーンの顔を伺うと彼は笑っていた。 義理の母は大きい椅子に深く腰かけて、こちらの様子を楽しそうに眺めている。 それだけで心が張り裂けそうなほど嬉しかった。 (義母様、私ここに来てよかった――) いつまでもいつまでも優雅な音楽が辺りに流れる。 こんなにも幸せな時間が、何故か永遠に続いていくような気がした。 そう言えばジョンは今頃、いったいどうしているのだろうか。 きっとたまに遊んでくれたあの家で、今も笑っているのだろう。 懐かしい、絶対に捨てることのない昔の思い出が脳裏に蘇ってきた。 戴冠式の行われたその夜は、城はおろか街でもお祭り騒ぎが続いていた。 あちこちの大通りからは、民が出てきて杯を交わしたり、踊りを踊ったり、歌を歌ったり。 街はまるで夜の中の市場のようだった。 (まさか、本当に王妃になるなんてな……) リーネは小さい頃から、なにか一般人とは違う雰囲気を持っていた。 まず仕草が優雅だ。そんな彼女に惚れた野郎も何人かいた。それはもちろん、自分も例外ではなかったわけで――。 街とは反対に静かな家の窓辺に腰かけて、ジョンはちらりと横目で街の大通りを見る。 いつまでも騒がしい風景とは逆に、夜空には何千何万の星が小さく無数に瞬いている。その風景の方が自分は好きだった。 無数の星を仰ぎ見ていたジョンは、すぐに弾かれたように目を細めて笑った。 「まったく、困った奴らだぜ」 BACK/TOP/NEXT 05/07/30 |