「行ってきます」 なにかが吹っ切れたように、今まで住まっていた家から駆け出していく背中。彼女は床に伏せったまま、そのうしろ姿をずっと見送った。 彼女はこれからいつも通り、薬草を売りに行くのではない。もっと遠くへ行くのだ。 朝日を受けて輝く銀髪を視界の中に留めながら、彼女は過去を思い出した。 思えばリーネはもともとこういう道を辿る運命にあったのかもしれない。 それを期に、リーネに実の両親が死んだ本当の理由や、彼女が何故記憶を失っているかを打ち明けようとも思った。 いや、だが話さない方がいい。今話してしまえば、リーネの強い精神はあっという間に崩れてしまうだろう。 「それに私には、もう一人いるしね……」 リーネが養子として家族になると同時に入れ替わり出て行った実の息子が、隣国で職を持って一人前になって、そろそろ帰ってくる予定だ。 彼はリーネの代わりに、この年老いた身体の面倒を見てくれるらしい。 本当に子供には恵まれた、と、すっかり静かになってしまった我が家を寂しく思いながら、彼女は薄く微笑した。 序章 -09 「ああ、ありがとうございました。ここまで見送って下さって」 ハロルドは何度も何度も、ジョンの家の人々を前に深くお辞儀をしている。 ジョンの妹弟は母親にすがりながら、嫌だ別れたくないと咽び泣いている。ハロルドはかなり気に入られてしまったらしかった。 まだ太陽が昇り始めた早朝だと言うのに、街は少しずつ活気を帯び始めている。 朝食の支度でもしているのだろうか。どの家からも生気があふれている。 ジョンの家の前には、我が国の王子を一目見ようと衆が集まり始めた。 城付近でしか見ることのできない立派な馬も珍しいようだった。 そうしてまだ周囲の人々へなにかとお辞儀を繰り返すハロルドを尻目に、サーンは颯爽と馬に乗り込んだ。 「おいハロルド、早く城に帰るぞ」 「……って、王子が早いんですよ!」 「看守も早朝なら寝惚けてるだろうしな」 馬が朝の光を受けて興奮したように嘶く。 城に入ることができるかどうかは運次第だが、王妃候補は見つかった。それだけで十分だろう。 まだリーネが王妃になることを承諾しないのが少しばかり心配だが、あとでもう何度か説得しにくればいい。 それかもう一つか二つの名案を練ってからの方がいいだろうか。 「夜這いとか、どうだろうな……」 「王子ともあろう者がそんな言葉口になさらないで下さい」 「やっぱり説得か? 俺の一番苦手な分野だ」 「仕方ありません。王妃候補様にはそれなりの考えがあるんですよ」 とりあえず王妃候補がいたと言う事実は立証されたのだ。 ラザロスも両手を挙げて喜ぶに違いない。これで怒声が飛び交うこともない。 ジョンが泣き叫ぶ妹弟を宥めながら、はあと溜め息をついた。 その顔はいつもとは違い珍しく苦笑している。 「ったく……また来いよ、特にそっちの召使いな。お前たちは城の人間と思えないほど馬鹿って分かったからな」 「その言葉そっくりお前に返す」 まったく最後まで憎まれ口を叩く少年だ。しかしそれが彼なりの別れ方なのだろう。 サーンとジョンは同じように口の端をにっと吊り上げた。 「じゃあな」 もう互いに互いの顔を見ようとはしなかった。 けれどそれでいい。心には清々しい、まるで今朝の風のような爽快感が漂っていた。 馬が嬉しそうに、久々に長距離を走り回れるとあってか軽やかに駆け出す。 さあ、どうにかしてあの感情露な国王を説得しにかからなくては。あとは、そう、「仕事」だ――。 「王子様!」 しかしサーンたちが走り出してすぐに、馬の前に突然人間が飛び込んできた。 サーンは驚いて咄嗟に手綱を引く。幸いその誰かのすぐ手前で、馬は足踏みして静止した。 いったい誰が現れたのだろうかと身を乗り出してみれば、ちらちらと朝日に輝く長い銀髪が見えた。 サーンは一瞬、そこにいるその人物を見間違えたと思ったくらいだった。 「……リーネ?」 息を切らして、荒く上下する肩から綺麗な銀髪が流れ落ちる。 彼女はきっとここまで全速力で走ってきたのだろう。 リーネの家からジョンの家まではかなりの距離がある、息が切れるのも頷ける。 「あの……言いたい、ことが、ありまして……」 なにかを言おうとしているが、言葉が途切れ途切れになっている。 そこまで無理をしてなにを伝えたいのだろう。サーンは疑問と、そして漠然とした期待を抱いた。 リーネは大きく息を吸い込むと、無理矢理姿勢を元に戻した。 どうやらその「ただの」深呼吸で荒い息は収まったらしい。さすが風を操る力を持っているだけある、とサーンは思った。 「ジョン、ごめんなさい……」 「なんだよ?」 なにについて謝っているのか、サーンにも謝罪を受けた当のジョンもわけが分からなかった。 しかしリーネは俯いて、どこかすまなさそうにしている。 本当に彼女は思いつめているらしい。が、その心当たりがまったくない。 リーネはしばらくしてから顔を上げると、くるりとサーンの方に向き直った。 そこでサーンをちらと見上げると、少し躊躇ってから、決意したように口を開いた。 「王子様、先日は本当に失礼しました。この前のお話、私、お受けします」 「はああああああああああああああああ!?」 早朝から近所迷惑もいいところである。 反射的に出されたのであろうジョンの驚嘆の声に、近所の住民は驚いて家々の窓から顔を出した。 「わ、分かって言ってんのか? お前……はっ? なんでだよ、ってことは、アレか? え、王妃!?」 ジョンの思考回路は完璧に吹っ飛んでしまったらしい。 多分彼自身も自分で言っていることが分からなくなっているだろう。 ジョンの妹弟は言葉の真意が飲み込めずに目を瞬いていたが、ジョンの母親はまたも失神しかけた。 今のリーネの一言で、この地域界隈は完全に混沌と化したも同然だった。 サーンは横目でそれらを追ってから、すごい騒ぎになってしまったと珍しく冷や汗を背に感じた。 「本当に、ごめんなさい……」 混沌の中でただ一人ぽつりと呟くリーネに、ジョンはようやく我を取り戻したのか抱えていた頭を上げた。 「どうかしたのか?」 ふるふると首を横に振ってから、リーネはぽつりと呟いた。 「最初は嫌だったんです。私みたいな平民が王妃になるのは、間違いであるような気がして……」 「じゃあなんで」 「私にできることがそこにあるから、です……」 リーネはちらと顔を上げてサーンを見た。 その表情からまだ不安は拭いきれてはいなかったが、淡く青い瞳には強い意志がこもっていた。 どうやらリーネは自身の力を自覚したらしい。 いつかその莫大な力は明るみに出るだろう。しかしそれが公に知られても忌まわしきものとされないのは、王室だけだ。 そこではその莫大な神の力を、個人だけではなく国のためにも使うことができる。 「それに、王子様は人の痛みが分かる方ですし」 こちらの気分を下げないようにと、リーネは慌ててつけ足した。 その慌て振りが可笑しくて、サーンは思わず苦笑する。 しかしこれで交渉成立。彼女の意向はもう十分すぎるほどに分かった。 リーネを必ず幸せにしてみせると、サーンは誰にも知られないようひっそりと心に誓う。 いつから彼女に心まで奪われてしまったのだろう。婚約を二度も断られたとき、落胆する自分がいることに驚いた。 (本当に、いつから惚れたんだろうな) サーンは軽々と馬から下りた。 そしてリーネの手を引いてリーネの身体を引き寄せると、その頬に軽く口づける。 周りにいた民は一瞬にしてその光景に唖然とした。 ハロルドはまた頭を抱えて悶絶している。ジョンは思い切り身を乗り出した。 「お前は本当に王子か、この変態野郎!」 「うるさい。役得だ役得」 結婚に愛は関係ないと思っていた。特異な能力を持った者でも大して変わりはしないと考えていた。 そんな愛など、微塵も期待していなかった。 けれどこうして想い合う相手がいて、その存在がこんなにも近くにいる。 リーネは口づけられた頬を手で押さえながら、またも頬を赤らめている。 新婚生活にはかなり難がありそうだ。サーンは笑った。 「では行きましょうか、リーネ」 「はい」 手を差し伸べる、その差し伸べた手を、やさしく笑んでから取る手がある。 馬は二頭しか用意されていないのでサーンはハロルドに馬を下りるよう命じたが、リーネがそれは恐れ多いと仲介したので、サーンのうしろに落ち着くことに決まった。 「しっかり掴まってて下さいよ」 「はい。頑張ります」 サーンは腰に回されたリーネの手を優しく強く握った。 途端に背中に温もりを感じる。そこにリーネがいるのは紛れもない真実だった。 日は少しずつ山際から顔を出し始め、辺りを金色の光で照らし出す。 リーネは見た。振り返ったジョンや彼の家族、エターリア国の民が時と共に次第に遠くに消えていくその光景を。 一方で、街に残った彼らは去り行く王子と王妃候補の姿をいつまでも眺め続けた。 朝日を受けて馬に跨り駆け行く姿が眩しい。金髪や銀髪に光が反射して街は突如として輝く。 けれど、とてもではないがその姿を長時間凝視してはいられなかった。太陽が眩しい所為もあったのだろうが、もっと直感的に、目蓋の裏を焼かれるようなそんな感覚がしたのだ。 そう、彼らはまるでこの世に降り立った神のようで、そんな彼ら神の領域は美しすぎて眩しかったから。 BACK/TOP/NEXT 05/04/03 |