序章  -08









ようやくここまで来ることができた。
案外「上に行く」という一見単純そうに見える行動でも、体力的には辛いものがある。

それに今は自分だけが、崖の上に行くためにこの不安定な足場を支えているのではない。
リーネの左腕は、まだ幼いと言っても一人の少年を抱えていた。脚に圧しかかる重圧がいつもの倍になる。

「もう、ちょっと……」

リーネは荒く弾む息を抑えつつ、意識を強く保ち続けようと奮闘した。
岩を掴む右手は既に砂と泥まみれだった。言わずもがな、爪の中にも土が入り込んでいる。
そう言えばさっきサーンにこれが綺麗な手と褒められたのだったと、リーネはふと思い出して小さく笑った。

サーンは今頃どうしているだろうか。
思い起こせば、少年が崖に落ちたということがあまりに衝撃的で、うっかり彼を置いてきてしまった。
今度こそ完全に愛想を尽かされただろう。

(その方が、彼にとってもいいに違いない)

そうだ、サーンと自分とは元々違う身分なのだ。
王子にはそれ相応の地位と名誉ある少女が似合う。考えてみれば彼にこんな平民の、しかも最下層の娘など不釣合いだ。

リーネと少年の真下には、ぱっくりと大きく裂けた冥界への入り口が開いていた。
もちろん背後に支えなんてありはしない。下から吹きつける風に晒されて背中が冷える。

足元はほとんどが岩か土で、リーネは足場のありそうな場所を探してはすぐにそこへ足をかけた。
万が一でも足を踏み外せば、体勢を崩したそのまま崖下へとおさらばだ。
そうなってしまう前に、ほぼ垂直に近い崖を登り切らなくてはいけなかった。早く崖の上に出なければこの体力はすぐに底をついてしまう。少年を助けることができなくなってしまうだろう。

(動いて、足……!)

だがリーネの決心もむなしく、意識は瞬く間に薄れていった。
思ったよりも崖の中の湿度が高いためか呼吸は困難になり、それに影響されたのか、足も手も思い通りに動かなくなってきた。

遙か頭上から、人々の泣き声や淀み声がはっきり聞こえてくる。
恐らくこの少年の母親のものだろう、我が子を呼ぶ声さえも聞こえた。

「……お、母さん……っ」

少年の意識は危ういところだった。
落ちたときにかなりの衝撃があったらしく、命に別状はないようだが、未だに息は荒いままだった。

母の声を識別したのか、少年はリーネの左腕の中から空へ手を伸ばした。
彼の瞳には暗闇しか映っていないであろうに、その姿を、その仕草を見ているだけで、リーネは胸がつまって悲しくなった。

「上までもう少しですよ。頑張れる?」

少年は一回大きく目を見開いてから、手を引っ込めてこくんと頷いた。
頑張らなければ。絶対に生きて崖の上に行くのだ。

けれどリーネの視界はいよいよ霞んできた。
動け、と何度も念じる。それなのに身体の中でなにかがぷっつり切れたように動きが遅い。

誰かの声、多分崖の上にいる誰かが叫ぶ声がいったん頭の中をよぎるが、掴む間もなくあっという間に掠めてしまう。
どうやら本格的に意識が薄れてきたらしい。

(……歌?)

綺麗な、まるで誰かがすぐそこで歌っているかのような、手を伸ばしても届かない歌声がなぜか耳元で聞こえる。
いったい誰が歌っているのだろう。リーネは肩で呼吸しながら耳を澄ませた。

足場が見えない。岩を掴む手さえも痺れて感覚が失われる。
リーネは漠然と、そこにいる誰かに助けを求める。
せめてこの少年だけでも、暗い崖の中から明るい地上へ送り出すことができるのなら。


(なんでもします。神様――!)


澄んだ歌声が、ぷつりと消えた。

「リーネ!」

リーネは呼ばれてすぐにはっと意識を取り戻した。
気のせいであろうか。今、誰かが自分の名を呼んだ気がした。

ふと聞こえた声に驚いて上を仰ぎ見ると、視界の遠くに、ここにいるはずのないジョンの姿があった。
彼は息を切らして、真っ青な顔で崖の中を見下ろしている。
夢ではない、本物のジョンだ。思わず涙が零れそうになった。

いつの間にかリーネは地上へ、崖の裂け目までかなり近づいていた。
まだ数メートルの距離はあるが、本当にあと少しだった。

「リーネ、そいつをこのロープに縛れるか!?」

リーネの横にするりとロープが垂らされる。
リーネは小さく頷いてから足にすべての体重をかけて、恐る恐る崖の岩肌を掴んでいた手を離した。
そして急いで少年の腹部にロープをしっかり結ぶと、ジョンに向かって小さく手を振り合図する。

「上げて」

リーネの一言により、ロープが持ち上げられる。
どうやら崖の上には多くの民がいるようだ。彼らによって、少年はゆっくりと確実に上に上がっていく。

ロープによって上に進んで行く少年がちらとこちらを見たので、リーネは再び岩を掴んでいたが、それを離して小さく手を振って見せた。
はにかむ少年は、今この瞬間になにが起きたのかなにが起きているのか分かっていないのだろう。
それに少年が再度落ちたときのためにも、リーネは、まだ緊張を解いてはいけないと思っていた。

そうして少年がやっとのことで地に足をつけたとき、一気に山を揺るがすような歓声が沸いた。
泥まみれで顔も既に涙でぐしゃぐしゃの少年は、母に抱きしめられ頬擦りされている。

よかった。本当によかった。
胸中いっぱいに嬉しさと安堵感が広がったリーネは、ほっと胸を撫で下ろした。

だから、がくんと体が傾いたとき、なにが起きたのか一瞬判断に戸惑った。
地軸が傾いたのではない。周りはなにも変わっていない。
変わったのは、自分の方だ。

がらりと足場が崩れた、岩の崩れた嫌な音が耳に響く。
今まで岩を掴んでいた手が、いとも簡単に崖の壁から離れてしまう。

「リーネ!」

身体がうしろに傾いたとき、崖の上から身を乗り出しているジョンが見えた。
だめだ、もうすべてお終いだ。

(終わりだ。すべて、なにもかも……)

暗く黒い裂け目に引き込まれて落ちていく感覚がリーネの身体を襲う。
切れ目からわずかに差し込んでいた月明かりは、崖の闇に吸い込まれるようにして埋もれていく。
自分もまたその闇の一部となるのだと、リーネはすぐに理解した。

リーネは自分でも驚くくらい、落ちる速度が遅く思えた。
永遠にこのまま落ちて行くような気がした。

(義母様……)

自らの終焉に際して、驚くほど後悔はなかった。
ああ、今も昔も考えることは同じだ。リーネは少し嬉しくなった。

だが閉じようとした目蓋の向こうで、リーネはちらと、なにか輝くものを見た気がした。
あれはまるで、そう、金塊。そう言えばサーンも似たような色の髪を持っていた。

彼は、そう言えば彼の言葉の意味が分からなかった。
先程なにを言っていたのか、それさえも記憶の底に眠ったままで動かない。
けれどもうそんなことなどどうでもいい。忘れよう。

闇が身体に浸み込む。リーネがその冷たさを背に感じたとき、今まで感じていたものとは違う不可解な空気を感じた。
背後に異物がある、と思った刹那、背中になにか硬いものが触れた。

「え……!?」

それまで落下し続けていた身体が、なにかによって強引に押し上げられる。
ぐん、と、リーネの眼前の風景が一変した。

まるで早送りの映像を見ているようだった。
足場が崩れたとき以上の大きな音が辺りに木霊する。崖が、大地が、激しく揺れている。

「我が国の姫様は怖いもの知らずですね」

久し振りに浴びた月の光。懐かしい風の匂い。いつの間にかリーネがいたのはあろうことか、崖の上だった。
そして目の前に立ってこちらを見下ろしていたのは、サーンだった。
どうして彼がこんな場所にいるのだろう。さっき別れたはずではないか。

周りに集まっていたらしい人々は、驚嘆の表情で呆然とこちらを見ている。
はて、なにがそんなに驚くべきことなのだろうか。

リーネや周囲の人間の戸惑いもお構いなしに、サーンはこちらへすっと手を伸ばした。
数秒その仕草を見送ったあと、慌ててリーネは差し伸べられた手を取った。

「俺は地を統べる力を持っている。ちなみにあなたは、風の力を持っているんですよ」

手を取り地上へ下ろされる際に、サーンにこっそりと耳打ちされる。
リーネが驚いて彼の顔を見返すと、サーンは苦笑していた。

ふとリーネが背後を向くと、そこには湧き出たかのごとく崖の下から岩盤が張り出していた。
その岩盤の上にはふかふかの土が盛られていて、どうやらそれが自分の身体を支えてくれたらしかった。
先程違和感を感じたのは、これらが急に現れて自分の身体を受け止めたからなのだと、リーネは遅れ馳せながら察してなぜか寒気を感じた。

「分かりましたか? 力が」

リーネがサーンの囁きに顔を動かすと、彼がこちらを覗きこんでいた。
彼が言っていた「地を統べる力」と言う言葉を思い出して、頭の中でなにかが繋がる。

「……いいえ。まだ……」

実感はない。崖の上に出てこられたと言う感動さえも、まだない。
けれど足が震えている。それだけがこれが夢ではないと言うなによりの証拠だった。

「あの、ありがとうございました! 息子を……助けてもらって……っ!」

我が子を抱えた少年の母親に頭を下げられて、リーネは慌てて彼女の方に向き合った。
この場に集まったエターリアの人々。諦めないきっかけになってくれたジョン。そしてサーン、きっと彼が自分を助けてくれた張本人なのだ。

リーネはしばらく周囲の人々と言葉を交わしていたが、ふとサーンに礼を言ってなかったと思い出して顔を上げた。
しかしそこにあの目立つ姿はなかった。

「ジョン。あの、王子様は……?」
「あ? どこってここに……あれ、いねえや。さっきまでいたのにな」

おおかた彼は一足先にジョンの家に戻ったのであろう。
最後までなにかと掴めない王子だった。リーネはそれでももう一度、ぐるりと辺りを見回した。

エターリア国の東に位置する山の際が、じわりじわりと白んでくる。
人々は皆、もうすぐ夜が明けると言って去っていった。

(もうすぐ、夜が明ける……)

長い間、その眩しい光を目にしていなかった気がした。
もうすぐ夜が明ける。と共に、一つの決断がリーネの心の中に芽生えていた。

リーネが振り返る。その先にはいつも風がある。
自分になにができるのかなにができないのか、それはまだ切り拓く以前の問題だろう。
リーネは心の中で、礼と感謝を、そっと風に囁きかけた。













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05/03/30