気がついたとき、無我夢中で風が伝えてくれた崖の方へと走り出していた。
なにができるかなにをすればいいのか、それはもう既に頭のどこかで分かっていたのだ。

だからきっと、私は命を賭してまで崖に飛び込めたのかもしれない。









序章  -07









「誰か、助けて! あの子を……っ!」

どこからか大人の女の、悲鳴に近い声が聞こえる。
さっきいた麓からそう離れてはいない。それに切り立った崖は主に麓近くにできるものだ。

リーネは走る速度を落として辺りをぐるりと見回した。
辺りにはいくつもの崖の亀裂が走っている。この場所のどこかにいるはずだ。風は「少年が崖に落ちた」と言っていた。
夜の闇に飲み込まれないようにリーネは崖周囲にじっと目を凝らした。

そうしてリーネはようやく見つけた。
数メートルほど手前の、大きく割れた崖の裂け目の前で、一人の女が座り込んで顔を覆っている。彼女以外、他には誰もいない。
リーネは彼女の元へ近づくと、その肩にそっと手を置いた。

「あの、どうか、なさいましたか?」
「息子が、私の息子が落ちて……!」

混乱している。言いたいことが先に走って上手く羅列が回らないのだろう、彼女は声を詰まらせた。
リーネはこくんと頷いてから、必死にしがみついてこようとする彼女の前にかがんだ。

「ど、どうすれば……あの子は、死ん」
「大丈夫です」
「私どうすれば……!」

駄目だ、正気を失っている。
無理もない。きっと彼女の目の前で彼女の息子は崖に落ちてしまったのだろう。

必死に助けを求める彼女を落ち着かせてから、リーネは崖の中を覗き込んだ。
崖の中はこの夜よりも暗い、一条の光も通さない漆黒の闇だった。

しかしその中に不意にひとつの光が浮かび上がった。
その僅かな光はもぞもぞとうごめいているような気がする。
ごつごつと出っ張っている一枚の岩板の上になにかがいる。まただ、少し動いた。

リーネはさらに身を乗り出した。
どうやら崖の中ほどにある岩の出っ張りに、幼い少年が座り込んでいるようだった。
高さはあるが行けない場所ではない。普通の人間なら即死だが、今までの経験から、自分なら行ける。

「もう、どうしたらいいか……分から、な……」
「大丈夫です。私が助けますから」

リーネは目で距離を測った。家が二軒ほどは優に入るくらいの高さはありそうだった。

『そなたは風だ』

声が聞こえる。直感的に、背後にいる少年の母の声ではない、と思った。
それはもっと優雅で静かな、いつも耳元に囁きかけてくれた風の声だった。

いつ意を決したのかは分からない。地面を軽く蹴って崖に飛び込んだ、それだけだ。
途端に重力が身体にかかって加速度を伴って垂直に落下を始める。崖の闇に身体が溶けて行く。

『我も風、故に同胞。我はそなたの力となる、風を統べし神よ』

しかしそれはいつもの風の言葉とは違った。
日常的なこと、例えば今日は気持ちがいいとか、雨が降っているから空の中が泳ぎ難いだとかそう言ったことではなく、なにか違う意味のことを言っている。
神、とはいったいなんのことだろうか。

リーネの考えをよそに、リーネの体はふわりと浮いた。その身体を風が幾重にも取り巻く。
落ちる速度はやや軽減したがそれでもあまり変わらない。もしかしたら着地に失敗して怪我をするかもしれなかった。けれど、行かなくては。

(母様も、私のことをこんな風に心配してくれたときが、あったのだろうか……)

ふとそんな考えがリーネの頭の片隅をよぎった。
そうであればいい。そうであったならと思うと、嬉しくて胸が張り裂けそうになる。

過去の記憶がなかったことを、嘆くほど悔いたことはない。
義理の母と過ごす毎日はそんな悩みを吹き飛ばしてくれるほど楽しかったから、あまり気にすることなどなかった。
だから例え、自分が崖に落ちてそのまま戻ってこられなくても、もう十分だ。







「チッ、遅かったか」

リーネの姿は既にどこにもなかった。
ただ、崖の亀裂が無数に走るうちのある場所に数人の民が集まって、崖の中を覗き込んでいる光景だけが見える。きっとリーネがいるのはそこだろう。

麓近くを蒼白な顔をした青年が去ったあと、リーネの瞳の中がわずかに揺らいだのをサーンは見逃さなかった。
その瞳の中の強い光に驚いた。リーネの姿が突如吹き荒れた風の向こうに、一瞬にして掻き消えてしまったのも、予想だにしていなかった。

彼女は気づいていないだけなのだ。
自身がどんな力を持っていて、それがどんなに自由に使えるのかと言うことを。
きっと周りの者も気づいていないに違いない。

ようやく切り立った崖の前に近づいたサーンは、数人の民の背中越しに崖の中を覗き込んだ。
なにも捉えられないほど崖の中は暗い。あまりの高さに眩暈がしそうだった。

「お、この馬鹿王子! お前今までどこに行ってたんだよ!」

サーンの前にいた民が、突然ぱっとこちらを向くと親しげに口を開いた。
振り返ったその顔は、眉間に皺を寄せたまま驚いているジョンだった。

「おい、なんでお前がこんな場所にいるんだ?」
「はあ? そりゃこっちの台詞だ。あの召使いがお前を心配して家中を歩き回って鬱陶しいったらありゃしねえ!」
「ああ、そう言えば置いてきたな……」
「って悠長に話してる場合かよ! ガキが落ちた後にリーネが飛び込んだんだ! 街で誰かが叫んでたから、俺、走ってきてさ」

ジョンの体力はかなりのものらしい。
外見はもちろんのこと、声量も人並み異常にあることからして彼はいかにも体力がありそうだ。きっと街から駆けつけた民の中では一番乗りだったのだろう。
背後で遠くから複数の声が聞こえる。どうやら騒ぎを聞きつけた人が集まり出したようだ。

夜が更けていく。月が明るい。
早くしなければ、この夜闇に飲み込まれてしまう。

崖の下にはリーネがいるが、大丈夫だ、きっと生きている。サーンはそう己に言い聞かせた。
同時に、風が異常なまでに吹き荒れて辺りを騒がせ始めた。
まるで、事の大事を少しでも周囲に知らせようとするように。













BACK/TOP/NEXT
05/03/30