民家に明かりはあっても一つあれば十分だ。
周りの家と同じように簡素な石造りの家だったが、この家の中の一室では床に伏せっている姿があった。
リーネはもはや息も絶え絶えとなってきたその細く白い手を、ぎゅっと強く強く握り締めた。

いつまで経っても信じられない。
平民として生きてきたと言うのに、今日、王子から直々に婚約を申し渡されるとは考えもしなかった。

「……義母様、私、どうすれば」
「行きなさい」

なにも知らないであろう、それなのに突然その伏せっている体から弱々しい言葉が出た。
リーネは驚いて固くなった手を握り直す。

「でも」
「リーネ、あんたには自分の道がある。それを捨ててまでここに縛られることはないんだよ」

皺のある優しい目がすうと開く。
どこか遠くを見据えるような、遠い昔を思い出して懐かしむようなその瞳は、リーネの姿を捉えてから儚く笑った。

「あんたは、やっぱり姫だった――」









序章  -06









そろそろ彼女も眠りについただろう。
少し悩みごとを打ち明けすぎたかもしれない。弱っている身体には何よりも負担がかかる。

それよりもさっきの無意識のうちか、彼女の乾いた口から紡がれた言葉が強くリーネの心に残っていた。
何度反芻しても消えるどころか色濃く残るばかりだった。

「姫……って」

銀髪、青い瞳。小さい時は特別驚くこともなかったこの容姿。
けれど大きくなって周りが分かるようになって、それがあまりに異質なものだと言うことに気づいた。

街で出会う人はみな亜麻色の瞳に亜麻色の髪。たまに出くわす貴族は自分と同じような異色の瞳と髪の色。
ありえないと言われた。けれど偶然だと言って気にしなかった。

気にしないように極力外出は避けた。
外で他人に出会っても逆に自分が負い目を感じてしまう、そんな感情が一番嫌いだった。
どうして、どうして自分だけがこんなにも「変な」容姿なのだろう。悩んでも誰も答えてはくれなかった。

(母様、父様……)

胸元で光っている真珠のネックレスは亡くなった母親の形見だと聞いている。
物心つく前から身につけていたこのネックレスは、不思議なことにどんなに強く引っ張っても一度も首から外れることはなかった。

義理の母からは、リーネが幼いときにかれら実の両親は死んだのだと、そして自分が引き取ったのだと諭された。
それが当たり前だと思っていた。
だって、今まで彼女は自分を本当の子のように慈しみ育ててくれたから。

それなのに何故なのだろう。
どうしてこれ程までに心が押し潰されそうで、一切過去を知らないことを後悔してしまうのだろう。

「こんな時間に、散歩ですか?」

リーネが目頭に熱いものを感じたとき、突然聞こえてきた低い声にリーネは驚いて辺りを見回した。
ここはエターリア国の中でも最も貧しい者たちが住まう区画の中の山麓だ。人気がないのはもちろんのこと、夜になると物騒だからと出歩く人間はない。

しかしリーネの活動時間はほとんどが夜だ。その限られた時間に、この山間部の薬草を摘んで早朝に売りに出す。
そこで稼いだ貴重な金は、義理の母の扶養代にと費やしてきた。
だからここで他の人間と出会うと言うことは、つまり善からぬ者と出会うと言う最悪な事態になる。

しかしそこにいたのは、むしろある意味最悪な出会いだった。
金髪碧眼、どこをどう来たのだろう、エターリア国の王子であるサーンが、少し離れた場所に立っていた。
彼はにっこりと笑んでからこちらに歩み寄ってきた。

「珍しい姫様にはご機嫌麗しく」
「……こ、今晩は」

サーンがリーネの一歩手前で立ち止まる。
緊張をはらんだ沈黙が流れて、息がつまりそうだ。

「あ、えっと……あの、先程はとんだ無礼を……」
「こちらこそ」

俯いているから彼の表情が分からない。だが分からなくていいと思った。
何故自分が彼に見初められてしまったのかは分からないが、そんな非日常的なことなど、早く忘れてしまった方がいいに決まっている。

「――力を」

今までの静寂を破ってサーンの声が夜の中に響く。反射的にリーネは顔を上げた。

「あなたには、なにか力があると思いますが。特技ではなくて、本来の人間には成しえない特別な力が」

リーネは今一度まじまじとサーンの顔を見つめた。
今、サーンは頭上に広がる夜空を眺めている。

彼はなにが言いたいのだろう。今の言葉の意味が、リーネはよく分からなかった。
本来の人間には成しえない特別な力とは、この容姿のことだろうか。

サーンはふいに空から目線を外しリーネを見る。
リーネは突然のことに驚いて、慌てて視線をサーンから外した。

「あなたはここで薬草を摘んでいるんですか?」
「……はい。微量ですが」
「その綺麗な手が傷つきそうですね」
「いえ、そんなに大層なものでは……」

リーネがまた俯いてしまい顔を少し上げたとき、互いの顔が近い、と思った。
思えば最初に出会ったときからなにかと懐柔されそうになった。もしかしたら――。

「王家に入るのは、嫌ですか?」

サーンが幾分静かに訊いてくる。
間違いない。彼は本当に本気で自分を妃に迎えようとしているのだ。

「……すみません」

咄嗟に、彼に掴まれそうになった腕を引っ込める。
何故かこの場の雰囲気に流されて、王妃になることをあっさり承諾してしまいそうで怖かった。

ここですべてを手放したら、今まで培ってきたものすべてが代わりに流れてしまいそうだった。
それは嫌だ。それが一番怖い。
この街で貧しいながらも皆で協力して生きてきた、その証が奪われてしまうのではないかと思った。

けれど今のはあまりに失礼だったかもしれない。彼の怒りに触れてしまっただろうかと、リーネはちらとサーンの顔を伺った。
そこで垣間見たサーンの顔は、どこか憂いを帯びていて苦しそうな表情を浮かべていた。
てっきりその涼しい笑顔で流すものだと思っていたから、リーネは余計に驚いた。いったいどうしたと言うのだろう。

「……なんだ?」

突然、それまで覇気がなかったサーンの表情が一変する。
その視線は今やリーネの方ではなく違う方向に注がれていた。

自分たちがいる山麓の近くを、誰か若い青年が駆けて行く。
なにかを必死で叫びながら、まるで危機を住民に知らせるように。
辛うじて見ることのできた青年の顔は真っ青で、どこか怯えているようにも見受けられた。

「風が……!」

途端にそれまで穏やかだった風が辺り一面に吹き荒れて、リーネは身を乗り出した。
リーネはすぐに長い銀髪を掻き分けて耳に手を添えた。
聞こえる。風が事の大事を知らせようとしているのだ。

変に思われるかもしれないが、リーネは昔から風に乗る声が少しだけ分かった。それはまるで、風が話しているようなそんな感覚だった。
他人はそんなことはないと笑うだけだった。
けれど違う。だって、こんなにもはっきりと物事を伝えようとしてくれているのだ。聞き間違えるわけがない。

リーネは神経を集中させた。
風の言葉を一つ一つ慎重に拾い上げる。そしてそのピースが揃ったとき、さっきの若者が口にしようとしていた状況に愕然とした。

「少年が、崖に落ちた――」













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05/01/29