ふと何気なく手のひらを上に翳す。途端に、なんの変哲もない肌の上から、ぱきぱきと小枝が空に張り出した。 このことを知っているのは、多分きっと父親と母親だけだ。 他は一切誰も知らないだろう。このあまりにも特異な「能力」のことを。 (結婚、ねえ……) 呆れた溜め息を一つついて、生まれつき金髪を持つ彼はぱらりと手元の分厚い本のページを捲った。 と同時に、はて、こんな萎びれた本はこの王族所有の蔵書室にあっただろうかと、無意識に考える。 幼い頃はこの「能力」が皆に等しく存在するものだと思っていた。 だから今こうして力が使えることはなんら不思議ではない。ああ、刷り込みと思い込みは絶大だ。 そうやって彼が顔を上げた先の窓辺から見える青空は、気持ちがいいくらい清々しかった。 序章 -01 さわさわと心地よい音楽を奏でる梢の葉。それらが無数に集まる密林の中を、縫うようにして吹き抜ける涼しい風。 誰も知らない秘境の地、それがこの国が今まで各国からの争いを避けることのできた象徴でもある。 四方は険しく高い山々に囲まれ、それでも深い緑と広大な土地と、この国を縦に貫き流れるダヌヴィウス川は常に恵みをもたらしてくれた。 隣国との交流手段は自然の地理によりほとんど絶たれてしまい閉鎖的だった。 だが今こうしてこの文明が数百年も続いているのは、それら自然の恵みに他ならなかった。 彼らはこの国をいつまでも栄えある国、彼らの言葉で「エターリア」と呼んだ。 歴史の表舞台に立つでもない、ひっそりとした小さな国。閉鎖的である故に歴史を掠めることさえもなかった。 だがそんな暮らしには驚くほど不自由がなかった。 適度に布は手に入るし金もそこそこ取れるし、食べ物だってあるから飢饉に飢えたことさえない。民はエターリアには穀物豊穣の神がいるのだと崇め奉った。 (ま、そう思うのも刷り込みのうちか……) サーンは少し埃っぽい蔵書室の窓辺にもたれて街の風景を見渡しながら、そんな自嘲めいたことを考えた。 城の中でも高い場所に位置するこの蔵書室は、王族の者しか使用できないとあってさすがに人気はなく静かだ。 さらさらと流れる透明で澄んだ色のダヌヴィウス川、こんな天気のいい日はあの大河の中に飛び込んでみたくなる。 それはさておき、この隠れ場所を見つけたことでやっと日々の怒声から解放されるのだ。 そう思えば思うほど、うーんと大きく伸びをしたくなる。まったくあの小言はそろそろ聞き飽きたところだった。 「さてと、今日の剣の稽古はないな。なら、このままサボり決行だ」 気晴らしに蔵書室内を歩き回るか、と、サーンは窓辺から離れて一歩足を踏み出した。 「あいつはどうしていつも自室から抜け出す!」 しかしその一歩を踏み出したか踏み出さないかのタイミングで、ばーんと、それはそれはけたたましい音を城内に、果てはエターリア国内中に響かせて蔵書室の扉が開いた。 もう少し彼が力んでいたら、きっとその金で縁取られたこげ茶色のつがいの扉は大破していただろう。 サーンの青い瞳と、たった今その扉を開けた同じく青い瞳とがばちりと出会う。 見つかった。どうしようもない落胆がサーンの気分をそれ以上に落胆させた。 「……やっと、やっと見つけたぞ!」 「父上、あまり過度な教育は遠慮したいのですが……」 「なにを言う! お前にとって結婚は教育か? 違うだろう! お前の将来を決める大事なことだ、うろちょろするな!」 ぴしゃりと頭ごなしに言われてサーンは渋々頷いた。 扉を大破しかねそうな熱意に満ちた父親のラザロスは、現エターリア国王でもある。 エターリア国の王族は、代々金塊よりも輝かしい髪と水よりも透き通る青い瞳を生まれ持っていた。 その上サーンは国の宝と謳われるほどに容姿端麗だった。 平民、貴族問わず女に人気があり、ふらりと街へ出て行けば異性が数珠繋ぎのようについて来るのではと言う伝説もある。 だからこそその気になればサーンは王妃の一人や二人すぐに迎え入れることができた。しかし、彼にはそれができなかった。 十五歳までには婚約を済ませなければならないと言うのが王族のいわば不文律みたいなものであったが、サーンだけは軽々とその掟を退けていた。 「うろちょろするなど決してありません。こうして蔵書室に篭っているのは、文献からなにかか得られるものがあると考えただけで」 「……」 ラザロスの疑い探るような視線が痛い。 しかし息子のサーンが言うのもなんだが、彼はかなり抜けている。余裕の態度を醸し出していればやりすごせるのは過去に実証済みだ。 ラザロスはしばらくしてから盛大な溜め息をついた。 「王妃候補はまだ見つからない。お前も少し焦るべきだ」 「はい。存じています」 そう言われても、実感が湧かないと言うのが本当のところだった。 今まで恋愛事にはなんら無関係だったし、剣術や教養を磨くために幼い頃からその道の教育を受けてきたのだから仕方ないと言えば仕方ないのだが。 歴代どの代を見てもそんな例はないであろう。今回の、サーンの場合は特に普通の婚約ではなかった。 サーンの迎えるべき王妃に対しては、条件が課されていた。 ――特異な能力を持つ者を妃に迎えるのです。 あの不思議な夢とあのお告げさえなければ、今はとっくに婚約を済ませていただろう。 数ヶ月前、サーンの夢の中に「誰か」が現れたのは記憶にもまだ新しいことだ。 今もその頃もその夢の内容やお告げを口にしたのは誰だったのか、記憶が曖昧で憶えていないことが多い。けれどあの鈴を転がすような澄んだ声で告げられた内容は怖いくらいよく憶えている。 予知夢らしきものを見た翌朝、ふと朝食の席でこの夢の内容を切り出したことが、思えばこの事件の発端だったのかもしれない。 長く大きいテーブルに面と向かい朝食を取るのがサーンの家、フラキトネス王家の毎朝恒例のしきたりである。 サーン自身はこの夢を会話の種に、くらいにしか思っていなかった。だが、その朝食の場でそれとなく夢の内容とお告げを簡単に報告した途端、どうやらラザロスが落としたらしいフォークがからんと床に跳ね返った音で、サーンはようやく顔を上げた。 ――なんたることだ、わたしの見た夢と同じだ。これはもしや……神のお告げか! ふるふると、全身を期待に震わせながら顔一杯に喜色を広げたラザロスの顔を、今でも鮮明に憶えている。 サーンはこのとき初めて後悔と言う名の絶望を味わった。 別に王族の結婚に愛もなにもあったものではない。そんな愛など端から期待していない。 どうせ普通の婚約でもどこかの皇女か貴族の娘を娶らなければならなかったのだから、特異な能力を持った者でも大して変わりはしない。だがその場合、「面倒臭い」と言うおまけがつくだけだ。 サーンがまだ幼いとき、母親に父親のどこが好きか、無邪気だったのであろう、なにも考えずに尋ねたことがある。 そこでサーンの母、リディアは少し考え込んでから、世の中には仕方ないこともあるのよ、と言って笑った。が、あれは当時でも相当衝撃的だった。 幼少期の体験効果は絶大だ。彼女にそれなりの愛はあるらしいとあとで改めて聞いたのだが、それも霞のようにしか思えなくなっていた。 (我が母親ながら掴めないな……) こうして腹の中では結構なことを思っていたり、たまに王室語(丁寧な言葉遣い)ではなく乱雑な話し方をすることも知られているかもしれない。 本当に掴めない。いつか、そう、結婚披露宴パーティの際にでもあの可憐な笑顔で暴露されそうだ。 「……今回は隣国まで使者を送ったと言うのに、見つからないとはな」 ラザロスは広い蔵書室の中を、ぶつぶつと何事かを呟きながら行ったり来たりし始めた。 妃となる好条件の女はこの国の中から見出せなかったらしく、遠く離れた隣国にも使いを出したが、色好い返事は一切返ってこなかったのだ。 「こんなことはあってはならぬ。そう気長に待つのではなく、お前も少し考えろ」 「はい。ですから、こうして先代の書からなんらかの手がかりを」 サーンは手近にあった、さっきまで読んでいた分厚い本を慌てて引っ掴んだ。 それは、表紙には見たこともない複雑な文様が描かれている群青色の本だった。紙は至るところ日に焼けて黄ばんでいる。 かなり古い本らしく、ぱっと見る限りではどれ程前のものなのか検討がつかない。恐らく、大分年月を経ているのだろう。 サーンは今しがた読んでいたページを探してばらばらとページをめくった。 そしてラザロスに向かって本を開くと、黒い文字が並ぶある一点を指差した。 「これをご覧下さい。昔の逸話ですが、平民の中に大層高貴な姫がおられたとのこと。」 「ほう?」 「では、こう見方を変えてみてはどうでしょうか」 「どういうことだ?」 ラザロスはまだ三十代後半だと言うのになんと言うか、もう少し歳相応な喋り方をしてもいいと思うのだが。 そう思ったが、サーンはあえてなにも言わずにこくりと頷いた。 「王妃候補は貴族でなくとも平民の中に紛れている、と言う可能性もあるのでは?」 こうでも言っておけば、新しい策ができたとラザロスは早速取りかかるであろう。その間は王妃を探せなど怒声が飛んでくることはないのだ。 我ながら素晴らしい案ではないか。サーンは心の中でぐっと拳を握った。 計略通りに事が進んだのか、しばらく考え込んでいたラザロスは急にがばと顔を上げた。 「そうか、そうだな……」 「少なくとも僕はそう思います」 「分かった。サーン、今よりこの国の平民の中から王妃となる者を探し出して連れてこい!」 「ええ、それはもちろん――って、は?」 聞き間違いであろうか。今、意味不明な命令を受けたような気がするのだが。 「ハロルド! ハロルドはいないのか!?」 いつの間にかラザロスは蔵書室を飛び出し、長い廊下越しに、大勢いる召使いのうちの一人であるハロルドを呼んでいる。 「父上、少しお待ちくださ」 「では行ってこい!」 ハロルドが息せき切って蔵書室に飛び込んでくるなり、サーンとハロルドは共に城の外へ放られた。 呆然と石造りの城を見上げるサーンとハロルドの目の前で、すぐさま城の正門はがらがらと音を立て、しまいにはぴったりと閉じられる。 駄目出しと言わんばかりに、頭上でちゅんちゅんと小鳥がさえずった。 辺りを見回してみれば、足元には簡易荷物、少し離れた場所には首尾宜しく今にも走り出しそうな馬二頭が用意されているのが見える。 サーンは頬をひくひくと痙攣させながら、眩暈を抑えて唸った。 「おいおい、マジかよ……!」 「王子、これでは当分城に入れて頂けそうにはないですね……」 サーンと共に放り出されたハロルドが顔を引きつらせてサーンに微笑む。 微笑むと言うよりは、あまりの急な展開にネジが吹っ飛んで頭がおかしくなっただけなのであろう。 ハロルドは代々サーンの家系、フラキトネス王家に仕える召使いの間で生まれた子供だった。 しかし彼は幼い頃からサーンの相手をさせられているため、サーンのことを呼ぶときは王子と口にするが、結構ズバリと物事を言う傾向にある。 サーンはそんなハロルドの言葉を当然のように受け流すと、呆れた溜め息を一つついた。 「面倒臭い……が仕方ないな。こうなったら適当な妃候補を探してとっとと帰るぞ」 はい、と返事をしながらがくりと肩を落とすハロルドを尻目に、サーンは馬の手綱を持った。 落ち込みたいのはサーンも同様だった。しかしあのラザロスのことだから、誰かを連れて行かない限りは城に入れてはくれないだろう。 そうして二人の跨る馬が軽やかに大地を蹴り、石造りの壮大な城は辺りに生い茂る樹木の向こうへ消えていく。 サーンの金髪が光を受けて風に靡く、それはあまりに儚くてこの青い空の中に吸い込まれてしまいそうだった。 遙か昔、それも数えるほどしか足を踏み入れたことがないエターリア国の街の中。 まだ変わらずあのままの姿でそこにあるのだろうか。 無意識に好奇心が胸の内から躍り出て、いつも窮屈な城の中からようやくのことで抜け出せたのだと、サーンはほんの少しだけ嬉しくなる。 頭上に広がる空が青かった。 けれどいつしか夢で見たあの人の姿はもっと青かったと、サーンはこのときふと思い出した。 BACK/TOP/NEXT 05/01/29 |