第十一話  フィムブルヴェト







不思議な感覚だった。在紗と光、二人見つめ合うこの空間だけぽっかり穴が開いたみたいに時間が止まったかのようだ。
口々に別のことを叫びながら辺りを逃げ惑う少女たちの波の向こうに静かに佇む光の姿を見つめて、在紗は漠然とそう思った。光の立つ場所だけが異様な空気に包まれているように見えた。

彼に問い質したいことは山ほどあった。
どうして女子寮にいるの。どうやって男子寮を抜けて決して遠くはないこんなところまでやってきたの。どうして私の名前を呼んだの。それにあなたは、あなたはほんとうに――友常君なの。
けれどどんな言葉も今の混乱しきった状況では喉を通るはずもなくて、結局在紗はごちゃ混ぜになった感情をすべて丸呑みした。

すると、なにも言えない在紗を見かねたのか、光が扉を手で押しやったあとでふらりと離れる。
そうして光はなおも右往左往する少女たちを上手く交わして、談話室の中ほどで突っ立っていた在紗の目の前で足を止めた。
なにか言わなくては、と思う。光の思い詰めた表情だけで分かるのだ、これは間違いなく喜ばしいニュースには繋がらない。だからこそ、彼がなにかを仕出かす前に思い留まらせなければならない。しかし、心ではそう思っているのに肝心の身体がついてきてくれなかった。

光の、底なし沼のような黒の双眸が在紗を射竦める。
いったいこれからなにが、と、在紗が考えると同時に、なぜか身体の横に張りついていたはずの腕がぐいと前方へ引っ張られた。

「逃げよう」

はじめ、在紗は光の思惑を図り損ねて思わず口を噤んだ。
周囲には女子たちの喧騒が響いている。その雑音の中で、光の一言はあまりにも鮮明に聞こえたので驚いた。
逃げる、とは? まさか、未佳や武史の二の舞になれと言うことなのか。

「行こう。今しかチャンスはない」

どこからかビービーと耳を劈くような警戒音が現れて、それは徐々に女子寮のほうへ近づいてきた。
ずっと在紗の瞳を覗き込んでいた光は、その音に反応してぱっと背後を振り返る。次に光が顔をこちらに向けたとき、明らかに焦っているのが手に取るように分かった。

そんなに怖い顔をしないで。お願いだから、ここから逃げようだなんて無茶なことを考えたりしないで。
在紗の願いもむなしく、光は口を真一文字に結んだまま、またもや強い力で在紗の腕を引いた。
けれど在紗は首を横に振りながら、女子寮のふかふかの絨毯に両脚を突き刺すようにしてその場に踏ん張った。

「行こう」
「でも……っ、“かみさま”に怒られる……!」

在紗が“かみさま”の単語を口にした瞬間、ぐっと光の表情が今までに見たこともないくらいに強張る。
ああ、彼も逃亡から連れ戻されたあとの処罰を恐れていたのか。それでも、

「来て、一緒に。俺は樹サンと行きたい」

それでも光は在紗の腕を掴む手を少しも緩めなかった。それが、在紗にはどうしても解せなかった。
在紗はほんの少し躊躇ったあとで、言葉を選ぶようにして言った。

「……どうして」
「なにが」
「ここから逃げたら“かみさま”はただじゃおかないのよ。戻ったら厳しい罰が待ってる。そんなことになるくらいなら、逃げるなんて言わないで」
「アースガルドは正気じゃない。みんな薄々気づいてる。だから逃げるんだ」

在紗は顔を伏せた。
その先にあったのは、自分より一回りくらい大きな光の手が自分の手を今もしっかりと掴んでいる光景だった。

「……それに、友常君が誘う人は私じゃないでしょう?」
「ん?」
「未佳は先に武史と逃げたから? だから私を道連れにするの?」
「なんで未佳?」
「だって! 未佳のことは下の名前で呼ぶじゃない! 私は未佳じゃないもの! 誰かの代わりになんてなれないしなりたくもない!」

予想以上に大声になってしまったが、自分のことで精いっぱいな周囲の少女たちの耳には届いていないようだった。
在紗は弾む息を抑えるために必死に冷静を取り繕ったが、どうしてか肩はいつまでたっても大きく上下していた。

まずい。ずっと考えていたことをついに口にしてしまった。憤りで沸騰していた頭は、数秒後には自分自身でも呆気に取られるほどさーっと冷めていった。
光に「すき」の対象として見られていない可能性だってあるのに、とんだ見当違いのことを叫んでしまったかもしれない。在紗ははっとして口元を抑えようとして、しかしその抑えようと持ち上げかけた手が未だに拘束状態だったことに気がついてやはり今の発言を後悔した。
反射的に光の顔色を窺おうと視線を上げる。そこには、先程までの焦りはどこへやら、むしろ落ち着きすぎた黒の瞳がじっとこちらを見据えていた。

「在紗」

滑らかに言ったあとで、光は首をわずかに傾けて在紗の顔を覗き込んだ。

「これでいい?」

それはとても言葉には言い表せないような響きだった。
挑発的なのに、どこか懐柔しようとでもするかの如く甘い語調。
光の問いかけに対し在紗が閉口していると、突然顔色を変えた光はさっと視線を横に逸らした。

「……嘘。ごめん、今のなし」

そう呟くと、在紗の両の手のひらをぎゅっと覆うようにして掴み、今度は光がさっきまでの在紗のように俯いて喋り出す。

「樹サンを未佳の代わりにしたことはない。本当に樹サンと逃げたかったから、ただそれだけ」

そこで光は思い詰めたように一拍おいて、それから早口で言った。

「……どうしても樹サンがここに残るって言うんなら、それでもいい。でも、俺は逃げたいし、隣には樹サンにいて欲しい。矛盾しているんだ。すごく。俺もどうしたらいいか分からない」

言い終わり、光はぱっと顔を上げた。
泣く寸前の赤子のような、兎みたいな赤い目をした黒髪の少年の顔が在紗の視界いっぱいに飛び込んできた。

「樹サン」

光に腕を引かれたのはこれで三度目だ。しかし、このときばかりは在紗は踏ん張ってその場に留まることをやめた。
理由はよく分からない。けれど、この人となら処罰を覚悟して逃げてもいいと、咄嗟にそう思ったのだ。

こくり、と、在紗が小さく首を縦に振る。その動作と同時くらいの速さで、光は在紗の腕を掴んだまま踵を返した。
光に手を引かれるまま女子寮の大きな扉を抜けて廊下に出ると、赤いランプが至るところで光を放っていて気味が悪かった。
在紗が見渡す限り、長い廊下は出口を求めて混乱し彷徨う子供たちであふれていた。けれど、そんな彼らが視界に入っていないと言う風で、光は左右を見渡すとさっさとどこかに向かって足を踏み出す。

在紗は、アースガルドの出入口は正面の巨大なゲートしか知らなかったし、通ったことすらなかった。
しかし、光に連れられて廊下を何十メートルも駆け抜けた挙句、薄暗い照明に照らされて今目の前で光が押し開けようとしているのは、アースガルドの中でも最下層に近い場所に設けられた非常扉だった。
大人一人がくぐって通るのがやっととでも言わんばかりの非常用ハッチのような外形のそれは、光が力を入れて押すとゆっくりと動いた。
どうやら上部はアースガルドの胴体に固定されているが下部は可動式で、扉を押すと外側に向かって持ち上がり、最終的には扉自体が屋根のような形になるらしかった。
だが、在紗はその小さな扉の完成形を見る間もなく、先に地上に降りていた光が差し出す手を取ってただひたすらに地上を走り抜けた。

初めての下界は息苦しかった。
恐らく温度も湿度もまったく人の手で調整されていないのだろう、息が詰まるほどの濃い外気に頭がくらくらする。
それになんと言っても、空が遠くて在紗は惨めな気持ちになった。下界の人々はあの開放的な高度一五〇〇〇メートル以上の空を知らず、こんな窮屈な場所で生死を繰り返しているのか。考えただけで卒倒しそうだった。

それともう一つ、在紗には気がかりなことがあった。
在紗と光がアースガルドの外に出た途端、なぜか周囲には青い空が見えなくなるほどの砲撃と爆音が飛び交っていたのだ。

弾に当たらないよう注意しながら、それでもよくよく周りの状況を観察してみれば、それらの砲撃はアースガルドの正面ゲートを中心に放たれていた。
ワルキューレたちが迎え入れられるべき新しい子供を取り逃がしたためだ。だから、その欠陥箇所の正面ゲートからアースガルドにいた子供たちまでもが抜け出している。
その子供たちの行方を阻むように、大人たちが彼らに向かって一斉射撃を行っていた。

しかし、その大人たちの姿は普段目にする大人の姿とは随分とかけ離れていた。
頭の天辺からつま先まですっぽり黒いごてごてしたスーツを身に纏い、顔面には太い管のついたガスマスクとも取れるような装備がはめ込まれている。脚や肩には何丁もの銃や火薬が括りつけられていて、大人たちはそれを自由に用いては子供たちをこれ以上外に出させないようにしていた。
だが、これらの砲撃が正面ゲートに集中しているのは、アースガルドの側方から脱出した在紗と光にとっては幸いだった。これで特定の追手を気にすることなく逃亡を成功に導くことができる。

それにしても、と、在紗は思う。
いったいどこにこれほどまでに武装した大人たちが生活していたのだろうか。そう勘繰ってしまうくらいその光景は異様だった。
もちろんこれまでに自分たちも幾度となく砲撃演習はこなしてきた。だが、演習に参加するのはすべてが子供で、大人たちの姿など見かけたことはなかったのに。
在紗はそんな武装した大人たちの姿を、ちらりちらりと振り返りっては小首を傾げながら見つめた。

「こっち」

身を低くして先を進んでいた光が、口元に人差し指を立てて在紗を呼んだ。
組織の子供たちが行くあてもなくただわらわらと足踏みする中で、光だけは真っ直ぐある場所へと向かっていた。

アースガルドが着陸した開けた空地を少し行くと周囲には鬱蒼とした木々が植わっている。光はその茂みの先を指さす。
どうやら、この茂みを利用して身を隠そうとしているらしかった。
在紗は光のうしろに追いつくと、先を急ぐ足を緩めることなく小声で問うた。

「この先になにがあるの?」
「少し遠いけど、近くにアースガルドで生活する前に俺が住んでた家がある。祖母の家なんだ。事情を話せば匿ってくれる」

そうか。と、在紗は納得した。
光にはまだ小さい頃の記憶があるのか。だからあんなに強い確信を持ってアースガルドの脱出を実行に移すことができたと言うわけか。
それに引き換え私は――。と、在紗が何度目かの己の出生に頭を悩ませたところで、ふと脳裏にこれまで体験したことのない映像が流れ込んできた。

ジ、ジ、ジ、と言う羽虫が飛び交うようなノイズ音とともに、今目にしている風景とはまるで違う灰色の映像が網膜上に焦点を結ぶ。
これは、なんだ?
在紗が言葉を失っていると突如映像の下から細かな気泡がぶわあと立ち昇ってきて視界を覆い尽くし、それらが消えるとまた穏やかな灰色の世界が在紗を出迎えた。

だが、その灰色の世界には妙な違和感があった。
誰かがいる。在紗はなんとなくだが強い確信を抱いた。
その証拠に、灰色の世界の向こうに薄らと誰かの顔が浮かび上がってはふっと消えていく。それが何回か繰り返されたあとで、その顔はより鮮明になって灰色の世界に浮かび上がってきた。

――ア・リ・サ

これはもしかしたら生まれたときの記憶なのだろうか。
だが、ゆっくりと唇を動かして、皺くちゃの顔で、初めて自分の名を言葉にしてみせたこの人は、いったい誰だ?
そこで在紗は、今まで灰色の世界だと思い込んでいたのは眼前に水のカーテンがかかっていた所為だと気づいた。それはゆらゆらこぽこぽと音を立てて揺らめいてはまた静謐をもたらす。

そう、あれは母でも父でもなかった。もっともっと小さな頃から、私が人に形を成す前、細胞としてこの世に誕生する以前から身近でとても偉大な人の顔。
在紗はアースガルドを背に地面を蹴りながら、胸のあたりをぎゅっと押さえた。
やっとすべてに合点がいった。ああ、そうだ。私は、樹在紗イツキアリサと言う一個の人間は――。













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2013/08/18