こんなところで一人で読書なんて味気なくない? 突然頭上から降って湧いた声に静過が顔を上げると、隣には端整な顔立ちの少年が立っていて、こちらを涼しげな目線でもって見下ろしていた。 果たしていつの記憶だったろう。確か何年か前、「晩餐会」が終わったあとの食堂で本を手にゆっくりしているときに、彼は唐突に茶々を入れてきたのだったか。 彼の名前は知っていた。その美貌で女子生徒たちを何人も惑わしていると最近専ら噂の人だったから。 彼、双見麗二とはまだ男女の隔たりがなかった頃に一緒にかくれんぼをして遊んだ仲だと言う記憶はある。が、組織に規律が敷かれ、そして麗二が成長してその性癖を身につけるにつれ静過と麗二との交流はめっきり減っていた。 しかし、その食堂での些細な出来事からことあるごとに麗二は静過の前に現れた。 麗二が執拗に自分に構う意味を、静過は頭のどこかでは分かってはいたが、どうしても認めたくなかった。認めてしまったら、ずっと自分たちを育ててくれた組織に歯向かうことになる。 だから、こうしてワルキューレの取りこぼし事件に紛れて子供たちが一目散にアースガルドを見捨てて逃げ惑う最中においても、静過は女子寮前の廊下に踏み止まり続けた。 「……どうして」 非常事態を報せる赤のランプが、廊下をどこまでも鮮烈に照らし出している。 静過のすぐ傍を、何人もの子供たちが肩がぶつかりそうなくらいすれすれの距離感で走り去っていく。彼らの体温を薄らと感じ取りながら、静過は尚も首を横に振った。 「今しかチャンスはないんだ。静過、俺たちも行こう」 ぎゅっと、静過の両手が、いつの間にか自分を迎えにやって来た麗二の温かな手に包まれる。 ああ、そうなのね。麗二、あなたもなのね。 静過は心のどこかで彼の想いを嬉しく思う自分を微笑ましく感じた。けれども、だからと言ってこれっぽちもアースガルドを見捨てる気にはならなかった。 「視えるのよ」 どこかで火の手が上がったのだろうか。パチリパチリとなにかの爆ぜる音がする。 「なにが」 「あの子たちにも視えているはずよ。けれどきっと、視えないフリをしているだけなの。そうでなきゃ――」 静過はふう、と、深く息を吐きながら天を仰いだ。 このときの静過の紺色の瞳には、アースガルドの無機質で広大な天井しか映っていないはずだった。しかし、もしなにも事情を知らない他人が今の静過の姿をほんのわずかでも垣間見たとしたら、彼女にはこの日ここで起こったことすべての事象を把握しているように思えただろう。 それはまるで、先見の目を持った女神のように。 「ラグナロクは最悪の形で訪れるわ」 第十二話 現在 アースガルドから命からがら脱出したその日のことはよく覚えている。 光に手を引かれ、追手を気にしながらも一目散に駆け抜けた先に待ち受けていたのは、大きい道路沿いに面した一軒の少し古びた家だった。 周囲に整然と立ち並ぶ灰色の建物とはまったく違う、どこか別世界の雰囲気さえ感じさせるようなどこか懐かしい建物は、歴史の教科書のどこかのページで垣間見た瓦屋根を持っていた。アスファルトの道路を木造の家とを隔てるように植えられたアジサイが、これでもかと言わんばかりに咲き乱れた前庭が印象的だった。 カラカラと乾いた音を立てる引き戸の扉を開け、玄関まで踏み込んだ光は振り返り、待ってて、と、在紗に告げる。 在紗がこくんと小さく頷いたのを見届けると、光は慌ただしく靴を脱ぎ捨てて座敷に上がった。 「おばあちゃん」 在紗はそっと、周りに誰もいないことを確認して辺りを見回した。 玄関の壁に飾られた民芸品が気になった。が、それよりも、一旦玄関に入ってしまうと外の世界の空の青はよりはっきりくっきりと見えるのだなと思った。 在紗の胸に、ちらりとアースガルドの思い出が蘇る。それももう全部捨ててきてしまったのだけれども。そう考えると在紗は、光のように帰る家がない自分はやはりアースガルドを抜け出すべきではなかったのではと思ってしまう。 「おばあちゃん、いる?」 「……光?」 光が奥の何度目かの問いかけをしたところで、座敷の奥のほうから柔和そうな顔立ちの老婆が顔を出した。 「あらあら、ほんとうに光だ。久しぶりだねえ」 「おばあちゃん。俺たちアースガルドから逃げてきた。匿ってほしいんだ」 切羽詰まった光の言葉に老婆の顔が一瞬だけ固まる。 ややあって、老婆はそこで初めて在紗の存在に気づいたように二人を交互に見比べたあと、神妙な声色で問うてきた。 「光、逃げてきたの」 「うん。ごめん」 「……その様子だと、訳があるんでしょう。光が考えたことなら私はなにも言わないよ。それより、さ、早くこちらへ、二人とも座敷へお上がり」 光は無表情の中でも精一杯顔を明るくさせると、未だに玄関で棒立ちになったままの在紗のところまで降りてきて、外界との接触を断ち切るようにさっと引き戸を閉めた。 「樹サン、いいって」 「あっありがとう」 赤の他人であるのに自分まで匿ってもらって申し訳がない。 ふと老婆と目が合ったときに在紗は慌てて辞儀をしたのだが、光の祖母は嫌な顔一つせず、優しく笑んでくれたのが救いだった。 座敷に上がると床は板張りではなくすべて畳で、その上を素足のまま歩いていくのが新鮮だった。 本当に昔の日本はこんな造りの家の形をしていたのだなと、教科書の中でしか見たことのない世界に嬉しくなる。 この床の素材、不思議な感触ね。光の背中にぽつりと漏らすと、そう? と言って光は小さく微笑んだ。 「友常君。……ねえ、友常君」 「なに?」 「これは……どうなっているの?」 座敷を通り過ぎるかと言うところで、在紗はふと部屋の片隅に置かれていた少し大きな箱に目を惹かれた。 その箱には箱と同じくらいの大きさの画面がついていて、まるで本当にそこに人間がいるかの如くさまざまな人々がパッパッと現れては談笑している。在紗は思わず足を止めて画面を覗き込んだ。 「ああ、テレビだよ。樹サン、知らないの?」 「初めて見たわ。アースガルドの演習で使っていたレーダーとは全然違うのね」 「ふっ」 興味津々な在紗の横で、光は思わず吹き出して笑った。 「樹サンって、たまに可笑しいこと言うね」 笑われているのに、在紗はどうしてかそれが不快だとは思わなかった。 むしろ笑っている光の姿が珍しくて、テレビと呼ばれるこの箱と同じようにまじまじと見つめてしまう。 「そう?」 「樹サンっていつからアースガルドにいたんだっけ」 「……覚えていないの。たぶんずっとずっと小さいときに連れられたんだわ。さっきの、あの新しい子供たちみたいに」 在紗がやや逡巡してからそう告げると、光はしばらくしてから徐に顔を暗くさせる。 そのまま思い詰めたように視線を斜め下にやると、ゆっくりと重い口を開いた。 「俺は孤児になったんだ」 「孤児?」 「そう。見ての通り、俺の親族はおばあちゃん一人だけだったからこの先は生きていけないだろうってなって、いろいろあってアースガルドに行くことになった。本当は行きたくなかったんだ、あんなところ」 あんなところ、と言われて、ほとんどをアースガルドですごしてきた在紗は少しだけ胸に痛みを覚える。 けれど、 「でも、樹サンに会えたから」 光に面と向かって好意の目を向けられて、在紗はぶわっと一気に顔が赤くなった。 そのままなにも言えずに、光に促されるまでずっとその場から動けなくなる。 しかし、でも……、と、在紗はすぐに昂った気持ちが身体の中から締め出されて、急激に冷めていくのを感じた。 さっきはそれとなくはぐらかしたが、本当はもう自分の出生も、帰るべき家がどこにあるのかも知っていた。 それなのに、今この流れで光にすべてを打ち明かすにはその事実はあまりにも大きすぎて、在紗の喉元でつっかえたきり捻り出すことが難しかった。 だが、光の元に世話になる限り、彼の好意を受け止めている限り、こればかりは伝えておかなければいけない。在紗はそう決意すると同時に、両手を固く握りしめた。 いつかは光に報せなければならない。なにせ、アースガルドから追手がやってくるのは、そう遠い日ではないことなのだから。 BACK/TOP/NEXT 2014/03/29 |