ねえ、あなたたちほんとうは分かっているんでしょう視えているんでしょう。
それなのにどうして現実から目を逸らしてあたかも知らないふりをするの。
運命の歯車がガタガタと古臭い音を立てて軋んで回り始めたときから――ねえ、私たちは誰よりもその運命に近かったじゃない。あなたたちにも私と同じく視えているはずなのに。

お願いよ。どうか私の声を聞いて、お願い。
これ以上は幸せになれないわ。だから最初から定められていた運命に従うの。
そうすれば、「ラグナロク」は“世界が綺麗なまま”無事に終わるわ。これから誰も泣かずに済むのよ。







第十話  ワルキューレ







在紗はふかふかのベッドの上に体育座りをしたまま、うららかな昼の日の光を浴びてうっとりと眼を閉じた。
部屋の窓からは千切れ千切れになって細くたなびく幾筋もの雲が、驚くべき速さでアースガルドの横を掠め去っていく。
いつもの雲は大きい塊になっていて、アースガルドの横を並走すると言うよりかは眼下に海原となって悠然と広がっている感覚なのだが今日はいったいどうしたのだろう。在紗は数秒前に見た光景がふと気になって、薄目を開けて考えた。

朝早くに起床してから何時間も同じ体勢でぼうっとしていたためか、脳の回転が格段に遅くなっているように思えた。
しかしそれは、今この組織に属している子供たち全員が在紗と同じ状況下にいるに違いなかった。
その理由は追々明らかになるのだが――。

気分転換に寮の共同ルームにでも行こう。
しばらく物想いに耽っていた在紗はベッドの上でうーんと大きく伸びをしてから、子供の数だけ部屋と道が分岐している蟻の巣のような廊下を通って、長い毛の絨毯が敷かれた談話室のような広いスペースに顔を出した。

組織の女子たちは、共同ルームのあちらこちらでてんでばらばらのことをして暇を持て余していた。
先刻までの在紗のように共同ルームの大きな窓辺に腰かけてじっと外の風景を眺める者もいれば、絨毯の上でトランプ遊びに興じる者もいた。
そんな中、分厚いハードカバーの本を手に微動だにしない紺色のストレートヘアーの少女が、共同ルーム内のいくつか置かれたソファの一つに我が物顔で腰かけていた。在紗は、彼女の姿を認めるなり真っ直ぐそちらへと向かった。

「静過」

呼ばれて、静過はゆっくりと顔を上げた。
それからじっと目の前にいる在紗の瞳を見つめたあとで、不意に視線を手元の本の中に戻す。

「……窮屈ね」

在紗がテーブルを挟んで静過と対峙する位置にあったソファに腰かけるなり、静過は本から目を逸らすことなく口を開いた。

「静過、朝からここにいるの?」
「そうよ」
「寮から出てみた?」
「まさか。自分から進んで処罰を受けにいくほど病んでないわ」
「未佳は?」
「さあ……さっきまでここにいたからトイレじゃないかしら。今のこの状態で寮の外に出たりでもしたら、今度こそ首根っこを掴まれてどこかに監禁されるわよ」

確かにな、と、在紗は思った。
現在、組織の子供たちは全員が女子寮と男子寮それぞれに軟禁されていたのだ。
理由は知れていた。このたびの軟禁は、先日アースガルドの最下層で一部の男女が規律で許されていない時と場所において交流を深めたことに端を発する謹慎生活と言う名の処罰だったからだ。もちろん在紗も静過もその片棒を担いでいたことには違いないので、すべての子供たちを巻き込んでしまったこの現実に胸が痛むところではある。

しかし、普段から寡黙な静過がそれ以上に今日口数が少なくなっているのは、処罰だけが原因ではないと在紗は思っていた。
あのときは遠巻きながらもこちらを気にしていたし、子供たちの中でもダントツに物分かりのいい静過のことだ。未佳と武史の巻き添えを喰らって噴水の中に倒れ込んだあとの光とのやりとりに一切の不審を持たれなかったら、それは静過ではないと言い切れる。

噴水における男女のやり取りが大人に露見して以降、すぐに子供たちは寮の中に閉じ込められたため光とは会っていない。
黒の癖っ毛で、なにを考えているのか読めなくて、それでもこちらが親切にすれば同じくらいの好意を持って返してくれる。そんな光は去り際の噴水で、なぜかこの腕を捉えて――と、そこまで光のことを考えてしまった在紗は、急に身体中がぼっと熱を持ったのが分かって恥ずかしくなった。

在紗はこの感情を他人に察知されないよう、思わず顔を伏せて口元を両手で押さえ込んだ。
どうか自惚れではないようにと信じたい。彼の一挙一動に振り回されているわけではないのだと思い込みたい。
こともあろうか、光は未佳ではなく自分の、樹在紗の名前を口にした。たったそれだけのことなのに、在紗にはそれが胸をきゅっと締めつけてしまうほどにとてつもなく嬉しかった。

だが、静過は知っている。自分が組織の規律に反して、未佳と似たような道を選ぼうとしていることをなにも言わずとも心得ているのだ。
だからここ数日の静過は、会うたびに数秒在紗の瞳を覗き込んでからなんでもないと言う風に視線を外す。それはまるで、いつになったら規律を守っていた頃の、元の在紗に戻ってくれるのかと期待をしているかのようにも見えた。
そのたびに、在紗は静過に対して大きな罪悪感を覚える。

ごめんなさい。幼い頃から一緒だった組織も大切だけど、今も胸に燻り続けるこの感情を踏みにじりたくはないの。
言葉にしたことはなかったが、静過は勘づいているだろう。だから互いになにも踏み込まず、深い議論をすることもなかった。在紗にはそれが少しつらかった。

「在紗。私給湯室に行くけどなにか飲む?」
「あ、私も行くよ。紅茶飲みたい」

けれど、静過は他愛のないことならば普通に接してくれた。
在紗は噴水での一件があってから何日かぶりに自分の名を呼んでくれた静過の声の、鍵盤を軽やかに鳴らしたような優しさに触れて、途端に頬を綻ばせた。

閉じた本をテーブルの上に置きソファから立ち上がった静過のあとについて、在紗は意気揚々とだだっ広い共同ルームを突っ切ろうとする。
しかし、歩きざまふと目にした窓の外の風景に、在紗は小首を傾げた。

「ねえ静過。なんだか今日のアースガルド、変じゃない?」
「そう?」
「うん。いつもは下にあるはずの雲がすぐそこにあるように感じるの」

静過はやや窓辺に近寄って下を窺う。するとすぐに、ああ、と納得したような声を出した。

「地上に降りるのね。ほら見て、雲間から地面が見えてきたわ」

いつもは青い海や山脈ばかりが映えているのに、このときばかりは茶色の大地が瞬く間に窓いっぱいに広がっていた。
その中には、さらに細かく区切られた人間たちの居住区がびっしりとパズルのように所狭しと並んでいるのだと言う。
まるで米粒と見紛うほどのあの敷地の一つ一つに自分たちと同じ形をした存在が住んでいるなど、在紗は到底想像することができなかった。

共同ルームにいた他の子供たちは、静過の一言を聞きつけたのか窓辺にわらわらと群がり始めた。
一年のうち数回しか目にすることのできない下界の光景だ。子供たちが物珍しそうに目を輝かせてしまうのも無理はないだろう。

だが、外の世界にかんして在紗はどうなのかと問われれば、組織の中でも興味のない部類に入る自信があった。
数こそ少ないが幼少期からアースガルドが地面に接地する場面には遭遇してきたし、なんと言っても在紗は組織での生活に不満を抱いたことがなかった。
たまに子供たちの中で外に出たいと言う者もいる。しかし、そんなことを大人の前で堂々と口にでもすれば説教が待っていた。だから、大人に叱られてまで外の世界に降りたい気持ちは、組織に慣れ親しんだ在紗にとっては到底理解のできない自分とは程遠い概念に他ならなかった。

地面が見えて数十分とも経たないうちに、アースガルドは下界のどこか大きな空地のような場所へ静かに着陸した。
すると、アースガルドの到着を待っていたかのようなタイミングで、アースガルドの周囲には在紗たちと然程歳の変わらない子供たちがわらわらと現れた。

「新しい子供だわ」

静過が窓辺に身を乗り出しながら呟く。
アースガルドがたまに着陸するとき、それは要塞の動力源の補給だと言う者もいたが、真の意味は新たな子供を迎えるためなのだと在紗は誰に言われずとも知っていた。
そうやって新しく組織に入ってくる子供は親を亡くした孤児がほとんどで、組織のトップである“かみさま”が、無償で彼らを引き取るのだと言う。
そしてその恩恵を受けたのは、今やすっかり組織の一員となった在紗たちも例外ではなかった。

在紗には物心がついた頃の記憶が一切ない。
しかし、恐らくかつての自分もああやってアースガルドを見上げて、そしてまだ見ぬ組織での生活に不安を抱きながらこの巨大な航空要塞に足を踏み入れたのだろう。
そう思えば、今地上からこちらを見上げている何人もの子供たちにむしょうにエールを送りたくなった。
だがいつも不思議に思うのは、新しい子供たちは確かに毎回加わっているはずなのに彼らはいつの間にか組織の中に溶け込んでいて、いったい誰がどの時期を境にして組織に加わったのかをいつも覚えていないのだ。

そうして在紗が、あれ、と、何度目かの疑問に頭を悩ませている最中に、アースガルドの出入り口が開いたらしい。
ひらひらとした衣服を身に纏った長身の大人の女性が数十人ほど地上に降り立ち、その場に突っ立っていた子供たちをアースガルドへと先導し始めた。
もちろん今は男女とも寮の中へ押し込まれているため、在紗たちは彼らを出迎えることはできない。

「さ、在紗。給湯室に行って飲み物を取ってきましょう。こんなのいつもと同じ光景よ」
「……うん」

静過に促されて、在紗は窓辺から身を離そうとした。
しかしそのとき、不意に地上にいる一人の子供とばっちり目が合った気がして在紗は嫌な予感を覚えた。

なにせその子供――在紗よりいくつか年下であろう少年の瞳には、周囲の子供たちはおろか自分でも知らない感情が芽生えているような気がしたのだ。
分かりやすい言葉で譬えるならば、それはなにかに対する「反抗」だ。
彼は今からなにをしようとしているのだろう。在紗が再び窓辺に身を寄せたのとほぼ同時に、彼はくるりと踵を返してアースガルドに背を向けた。

在紗は初め、なにが起こっているのか分からなかった。地上に出ていた組織の女性は、慌てて彼を連れ戻すために走り出した。
こんなに大人たちが焦っている場面を在紗は目にしたことがなかった。
新しく迎え入れられるはずだった少年は、一心に駆けてアースガルドから遠ざかっていこうとしていた。

「逃げているわ」
「そのうち捕まるわよ」
「ねえ、見て。下にいる他の子供たちも彼のほうを見てる」
「大人は彼を連れ戻せるかしら?」
「連れ戻せなかったら“かみさま”に怒られてしまうもの。あの大人たち――ワルキューレの取りこぼしだわ」

共同ルームの窓辺に詰め寄っていた少女たちは、物珍しそうな調子で興奮したまま喋り倒している。

「静過?」

在紗は、一旦は窓から離れたはずの静過がいつの間にか自分の横に立っていることに遅れ馳せながら気がついて声をかけた。
しかし静過は在紗のほうをちらとも見ずに、ただ蒼白な顔色のまま呆然と窓の外を見つめていた。

「なんで……どうして、よりにもよってこんな……立て続けに……」

いっそ倒れてしまうのではないかと思えるほどの静過の動揺っぷりに、在紗は急に静過が心配になった。
とりあえず静過を窓辺から離して落ち着かせよう。そう思って在紗が静過の肩に手をかけた瞬間、誰かの叫び声が共同ルーム中に響き渡った。

「誰かがアースガルドの外に出た!」

しん、と、空気が静まり返る。一拍置いてから、わあっと蒸し上がるような熱気が周囲を包んだ。
なんで? どうして? 誰が? 今の騒ぎに乗じて誰かが外に出たって。どうやって? 正面ではないうしろの緊急脱出口が開いてるらしい。子供たちはみんな寮にいるんじゃなかったの? 嘘でしょう? いったい誰が。警報が鳴っているの。信じられない。かみさまに叱られるわよ。

怒号やさまざまな憶測が飛び交う中、在紗は静過の肩を掴んだまま呆気にとられてその喧騒の中に立ち尽くすことしかできなかった。
誰か、とはいったい誰だ? もしかして光ではないだろうか? 光だって組織の一員だ可能性は否定できない。だが仮に、もし、そうだとしたら――。
先程の地上の少年がこちらに背を向けて走り出したときのように踵を返す光の姿が脳裏をよぎる。そのとき、ずくん、と、胸の奥が鈍い痛みを発した気がして在紗は思わず眉を顰めた。
しかし、すぐ耳に飛び込んできた誰かの次の言葉に、在紗はその胸の痛みさえも忘れた。

「未佳よ! 未佳がいない!」

世界が真っ白に塗りつぶされてしまったかのような絶望感が、在紗の頭のてっぺんからつま先までを一直線に駆け抜けた。

「見て! あそこに誰かがいる!」
「二人いるわ」
「未佳よ! そうに違いないわ!」
「あの隣にいるのは誰?」
「馬鹿ね、武史に決まってるじゃない!」

騒ぎ立てる女子たちのうしろから窓の外に目をやる。すると、見慣れた一人の少女が金髪のツインテールを揺らしながら赤茶色の髪の少年と手を取り合ってアースガルドから遠ざかっていくその小さな背中が見えた。
そのうしろ姿は間違いなく未佳と武史のものだった。

「あの馬鹿……っ」
「静過?」

それまでぼうっとしていた静過が急に背筋をしゃんと戻し、窓の向こうを見やったあとで唇を強く噛んだ。

「静過!」

静過は在紗の手を振り解くと、一目散に寮の出入口まで早足で歩いて行ってそのまま扉を開け放つ。
ガランガラン、と、扉の上部に取りつけられている鈴の音がけたたましく鳴り響く。その音に、数人の女子が振り返った。

「静過! どこに行くの!」

在紗が叫ぶ。しかし、その声も今の静過には届いていないようだった。
静過の姿は瞬く間に扉の向こうへと吸い込まれて消えてしまった。
それまで窓の外を見て騒ぎ立てていた女子たちが、途端に口を噤んで静過のいなくなった扉に目をやって互いに顔を見合わせる。すると、一斉に扉に向かって走り出した。

「どうしたの? ねえ!」

在紗は自分の横を通り過ぎていく子供たちを見て再びどうしようもない虚無感に襲われた。
彼女たちは口々に、逃げるなら今しかない、だとか、なにか持っていくものは、だとか組織を見限った言葉ばかりを連ねる。

「なん、で……。ねえ、ねえみんな……」

そんなに逃げたかったのか。組織の中が快適だと思い込んでいたのは、自分一人だけだったのか。
どんなに彼女たちを引き留めようとしても、誰も在紗の言葉に耳を貸してくれない。誰も在紗の姿を見ようとさえしない。在紗は泣きたくなった。

――あんな規律、クソ喰らえだわ。

未佳の、組織すべてを憎んだかのような顔を思い出す。
ねえ、未佳。未佳もそうだったの? みんなと同じで、組織が嫌いだったの? チャンスさえあれば組織から逃げ出してしまいたかったの?
聞きたいことはたくさんあった。けれど、質そうにもその相手はもうアースガルドにはいなかった。

この世の終わりだ。在紗は、辺りを逃げ惑う女子たちの真ん中に立ち尽くしたまま、徐に天を見上げた。
歯車が動いている。先日脳裏にふっとよぎったときと似たような古びた歯車がいくつもいくつもいくつもいくつもいくつも。
この流れを元の道に引き戻すことなどかなわない。一旦動き出した歯車は壊れるまで回り続けるのがルールなのだから。

在紗は目頭に熱いものを感じた。それはつっと頬を伝って、しまいには顔をぐしゃぐしゃにさせた。
どうしてこうなってしまったのだろう。なにがいけなかったのだろう。昔はみんなでかくれんぼをして男女隔たりなく遊んだのに、あの日々はまやかしだったとでも言うのだろうか。
絶望する在紗の頭の中で今も無情に歯車は回っている。ガタンガタンと音を立てて、こんなに大きくて多くの運命は、どう足掻いても自分一人の手には負えない――。





「樹サン」





在紗は、予期せぬ声に思わず心臓を鷲掴みにされたかのような気持ちがした。
はっと目を見開いて顔を正面に戻してから、恐る恐る振り返る。

聞き間違えることはない。組織の人間のほとんどが「在紗」と呼ぶ中であまりにも特徴的な、まるで表向きだけは敬称をつけて取り繕い何事もない風を装っているのだと言わんばかりのその呼び方。
だが、いつもなら愛おしいはずのその声がなぜ今聞こえてくるのだ。
だってあなたは他の子供と同じように男子寮にいるはずでしょう。と、うっかり口に出してしまいそうなところを寸でのところで抑える。

在紗の周囲には相変わらず女子たちが自分のことだけを考えてばたばたと逃げ回っていた。
そんな彼女たちの焦った姿越しに、頭一つ分高い少年が女子寮の扉の前に、まるで縫いつけられた影のようにひっそりと立っているのが見えた。
在紗は彼がどうしてここにいるのか、なにがしたくて彼はここにやって来たのかすべての意味が掴めなかった。

首元でくるりと跳ね返った黒い癖っ毛の髪に黒の瞳。
男子寮で軟禁状態にあるはずの光が、なぜか女子寮の扉の前に立ってこちらを真っ直ぐ見つめていた。













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2013/06/30